「おんな城主 直虎」亀之丞の潜伏地

 今年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」が1月8日から始まり、第1回は今川氏に命を狙われた井伊亀之丞(直虎の許婚、後の井伊直親)が遠州井伊谷を脱出するくだりで終わりました。その亀之丞が身を寄せた先は、信州伊那谷市田郷の松源寺。現在の高森町(飯田市の北隣)にある寺です。
 亀之丞の父・井伊直満は謀反の疑い(讒言)をかけられて今川義元に殺され、9歳の亀之丞も命を狙われました。亀之丞は家臣によって信州に逃がされ、松源寺に身を隠し、市田郷を支配していた松岡氏の保護を受けて成長期の10年余を過ごし、20歳の時に井伊谷に帰還しました。

17010901 大河ドラマ第1回放送の翌9日、松源寺(高森町下市田)に行ってみました。右上の写真は山門、右下の写真は本堂です。地面が白いのは前日の午後に降った雪です。
 松源寺には桜の古木があり、春に何度か足を運んだことがありますが、冬に行ったのは初めて。行ってびっくり、寺の入口付近に大型バスが何台もとまれる駐車場ができていました。いつの間に…
 周辺には「女城主のいいなずけ亀之丞ここで育つ」と大書したのぼり旗がいっぱい立っています。高森町のホームページを見たら、昨年11月ころから多くの観光バスが訪れ、12月には毎日何台も来たとのこと。晩秋のりんご狩り観光の大型バスがついでに立ち寄ったのでしょう。大河ドラマ「真田丸」の放送中で、信州を訪れる観光客が増えていた影響もあるかもしれません。地元の観光ガイドが説明に活躍したようです。私が行った時には大型バスは来ていませんでしたが、駐車場には県外ナンバーの乗用車もありました。
 松源寺は中央道の飯田インターからでも松川インターからでも車で10数分。中央道と平行に南北に走る広域農道の交差点から、細い道を山と反対側の天竜川方向に下ります。この入口の交差点が分かりにくいのですが、高森町牛牧地籍で、「上市田東」信号交差点と南大島川大橋のちょうど真ん中あたりのファミリーマートがある交差点です。

 松源寺は戦国時代の永正10(1513)年ころ開かれた臨済宗妙心寺派の寺院。松岡城主松岡貞正によって創建され、開山は貞正の実弟の文叔瑞郁禅師。当初は現在地より2km近く西北西の山ぎわにあり、天正10(1582)年、織田氏の伊那谷侵攻の際に焼失しました。その後、江戸時代になってから寺領3石の寄進を受け、現在ある松岡城址の五の曲輪の跡に再建されました。
17010902  左上の写真は、元の松源寺があったとされる高森町牛牧の寺山という場所。亀之丞が松源寺にいたのは天文13(1544)~弘治1(1555)年なので、現在の松源寺ではなく、この辺で暮らしていたことになります。中央道より一段高い山の縁を南北に走る上段道路のすぐ上で、「野の花亭」という五平餅屋さんの近く。隣が牛牧マレットゴルフ場で駐車場もあるので、車で行くには便利です。本当にすぐ背後は山で、猿の群れなど野生動物が出て来るので、周囲の農地は電気柵で囲われています。
 地元の史学会の手で昨年9月に立てられた標柱や説明板があり、また「井伊直虎ゆかりの地」ののぼり旗が風にはためいています。
 左下の写真は付近から見える南アルプスの山並み。前山(伊那山地)の向こうに白く雪をかぶっている峰々が南アルプスで、仙丈ケ岳~北岳~間ノ岳~農鳥岳~塩見岳~悪沢岳~荒川岳といった3000m峰がよく見えます。写真は北岳~間ノ岳~農鳥岳~塩見岳あたりです。周辺の景観は変わっても、亀之丞も今と同じ南アルプスの峰々を見ていただろうと想像すると、感慨深いものがあります。
 文叔禅師は松源寺開山の前、井伊氏に招かれて井伊谷の自浄院(後の龍潭寺、井伊家の菩提寺)にいました。そのため松源寺と龍潭寺は深いつながりがあり、その「法縁」によって亀之丞が松源寺に来たわけです。
 龍潭寺二世の南渓瑞聞禅師(南渓和尚)は井伊直宗の弟で、直虎からみると祖父の弟にあたり、大河ドラマでも主要な登場人物の1人として活躍します。
 文叔禅師は松源寺開山の後、永正12(1515)年から京都妙心寺の二十四世住持を務めた名僧です。井伊谷の龍潭寺を開創したのは弟子の黙宗瑞淵禅師で、文叔禅師は龍潭寺の拝請開山となっています。南渓禅師は黙宗禅師の弟子なので、文叔禅師の孫弟子ということになります。

17010903 上記のとおり松源寺は松岡城址の中にあり、城址を散策することができます。高森町史(1972年発行)の写真を見ると、その当時は一帯はススキ野原で、一の曲輪の跡から松源寺まできれいに見渡せました。その後、樹木が成長し、現在のような城址公園になったようです。
 松岡城は、この地域に多い段丘先端を利用した平山城です。東側が段丘崖、南側が洞、北側が沢で、三方が険しい崖に囲まれています。西側が平地に連なり、ここに城下町が形成されたと考えられます。城の縄張りは五つの曲輪が直線状に並び、各曲輪の間と五の曲輪の外に堀があります。一の曲輪と五の曲輪には土塁の一部が残っています。
 右上の写真は一の曲輪、右下の写真は二の曲輪と三の曲輪の間にある二の堀です。雪景色の写真は珍しいかも。曲輪も堀も戦国時代の姿がよく残っています。亀之丞も松岡城を訪れることがあったでしょうから、これらを見たことでしょう。雪景色を見たこともあったでしょうか。
 松岡氏は戦国時代初期に周辺の座光寺氏、宮崎氏、竜口氏などの小勢力を従え、この地域の有力な国人衆になっていました。その後は順に伊那谷を支配した武田氏、織田氏、徳川氏に従属して本領を守ってきましたが、天正13(1585)年、小笠原貞慶が秀吉側に寝返って高遠城を攻めた際、松岡貞利も同調して出兵。これが徳川氏に知られて、松岡氏は天正16(1588)年に改易され、松岡城は廃城になりました。
 現在の松源寺が建てられたのは松岡城が廃城になった後で、以後、松源寺は今日まで松岡城址を守ってきました。

 松岡氏が亀之丞を保護したように、戦国時代、隣国などから追われて逃げてきた者をその土地の領主が保護する例はけっこうあったようです。後に何かの役に立つ可能性があるからでしょう。たとえばこの地域だと、武田氏に抵抗して追われた知久氏の生き残りが三河に逃げて徳川氏に保護され、武田氏滅亡・本能寺の変の後、徳川氏の力を借りてカムバック。それによって徳川氏は伊那谷を手に入れています。松岡氏はというと、徳川氏を裏切って改易にあった際、亀之丞(直親)の息子の井伊直政が松岡貞利の身柄を預かり、命を助けています。
 西の秀吉、東の家康の両勢力の接点にあった信州では、真田氏に限らずどの勢力も東西どちらにつくか難しい選択をせまられました。しばしば寝返りも起き、失敗して命運尽きた家もあります。松岡氏もその1つでした。

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<井伊家の系譜>
井伊直平(20代)―┬―直宗(21代)――直盛(22代)――直虎(おとわ・次郎法師)
         ├─南渓瑞聞禅師
         ├─直満――直親(23代、亀之丞)――直政(24代、虎松)―┬―直勝
         ├―直義                        └―直孝(25代)
         └―直元
 ※南渓瑞聞禅師と直満はどちらが先に生まれたのか不明です。
 ※この他、直平の娘の1人が築山殿(徳川家康の正室)の母という説があります。

<関連年表>
天文1(1532)直平(20代)が自浄院を改め龍泰寺を建立。開山は黙宗瑞淵禅師(文叔瑞郁禅師の弟子)
天文4(1535)亀之丞(後の直親)が生まれる
       おとわ(後の次郎法師・直虎)もこの前後に生まれたと考えられる
天文5(1536)今川義元が今川家の当主になる
天文9(1540)織田信秀が三河を攻略し、松平氏は今川氏に従属する
天文11(1542)今川氏が三河・田原城を攻めた戦いで直宗(21代)が討死
天文13(1544)家老小野政直の讒言により、直満・直義が今川氏に謀反の疑いをかけられ殺される
       亀之丞は井伊谷を逃れ、東光院(浜松市北区引佐町渋川)を経て松源寺に身を隠す
天文23(1554)小野政直が死去
弘治1(1555)亀之丞が井伊谷に戻り、直親(23代)となる
永禄3(1560)桶狭間の戦いで直盛(22代)が討死。龍泰寺を龍潭寺に改める
永禄4(1561)虎松(後の直政)が生まれる
永禄5(1562)直親が今川氏家臣の朝比奈氏に殺される
永禄6(1563)直平が急死(今川氏の策略で毒殺されたという説がある)
永禄8(1565)次郎法師が「おんな城主」直虎になる
永禄11(1568)小野政次(鶴丸)が井伊谷を乗っ取る
       武田信玄が駿河に侵攻し、今川氏真は駿府城を捨てて掛川城に入る
       徳川家康が遠江に侵攻し、井伊谷三人衆が小野政次から井伊谷城を奪還する
永禄12(1569)徳川家康が掛川城を攻略し、今川氏滅亡
元亀3(1572)三方ケ原の戦い
天正1(1573)武田氏が井伊谷に侵攻し、龍潭寺が炎上する
       武田信玄が死去
天正3(1575)虎松が徳川家康の小姓に取り立てられ、万千代の名をもらう
       長篠の戦い
       万千代は合戦などでたびたび手柄を立てて加増され、天正10(1582)には4万石に
天正10(1582)武田氏滅亡
       本能寺の変
       直虎が死去
       万千代が元服し、直政(24代)を名乗る
天正12(1584)小牧・長久手の戦い
天正17(1589)南渓和尚が死去
天正18(1590)小田原征伐
       徳川氏が関東に入り、直政は箕輪12万石の大名に(のち高崎に築城)
慶長5(1600)関が原の戦い
慶長6(1601)直政は佐和山18万石に加増
慶長7(1602)直政が死去
慶長8(1603)徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く
慶長19(1614)大阪冬の陣
元和1(1615)大阪夏の陣
       直政の次男の直孝(25代)が井伊家の当主になり、彦根15万石を継ぐ

 この年表を見ると、昨年の「真田丸」の真田氏が大勢力の狭間で揺れ動いたように、井伊氏も今川氏・織田氏・武田氏・徳川氏の狭間で翻弄されたことが分かります。井伊氏の場合は、外の勢力だけでなく内に家臣の内紛を抱え、何度も存続が風前の灯になりました。
 次郎法師と亀之丞は結局、結ばれません。亀之丞が直盛の養子となり、直親を名乗って井伊家の家督を継ぐところまでは子ども時代からの予定通りですが、直親は家臣・奥山氏の娘を妻に迎え、その2人の間に虎松(後の徳川四天王・直政)が生まれることになります。
 直親にとって今川義元は父の仇ですが、井伊谷に戻ってから数年間は今川氏に従います。しかし桶狭間の戦いで義元が織田信長に討ち取られ、井伊氏は激動の渦中に放り込まれます。桶狭間の戦いの翌年に虎松が生まれた後、その翌年に直親が殺され、さらにその翌年に直平が急死して、井伊家の男子は幼い虎松だけになり、次郎法師が「おんな城主」直虎となります。その後も小野政次(鶴丸)に井伊谷を乗っ取られたり、武田氏に攻め込まれたりと、大変な波乱が続きます。直虎は井伊谷を守り抜き、虎松を家康に仕えさせ、その成長を見届けて世を去ります。

 武田氏滅亡・本能寺の変の後、徳川氏は甲州を手中に収めて武田氏の残党を吸収。直政がそれを率い、徳川氏の天下取りを支える中核部隊になっていきます。直政は武田流の軍制や軍装を取り入れて自分の部隊を赤備えとし、「井伊の赤備え」と呼ばれるようになりました。
 昨年の「真田丸」の大阪冬の陣で、真田勢が井伊直孝勢のことを「ニセ赤備え」と言うシーンがありましたが、どちらの赤備えも武田が源流で、それが敵味方に分かれて戦国最後の大いくさ大阪の陣を戦ったというわけです。

両陛下が満蒙開拓平和記念館ご訪問

 きょう天皇皇后両陛下が阿智村の満蒙開拓平和記念館を訪問され、元開拓団員とも懇談されました。この記念館のことは8月15日にこのブログで紹介したばかりだったので、ちょっとびっくりしました。こちらはその時の記事「満蒙開拓平和記念館」

 今回のご訪問は私的旅行で、ここを選ばれたのは両陛下の強いご希望だそうです。両陛下はじめ皇族方は軽井沢など長野県へ来られる機会が比較的多いのですが、両陛下は、軽井沢の近くの旧大日向村が全国最初の満州分村移民を行ったということをご存知で、戦時中に国策の犠牲になった満蒙開拓団の歴史に強い関心を持っておられたということです。
 両陛下は16日から2泊3日の日程でご来訪。東海道新幹線で愛知県に入り、犬山市の入鹿池などを視察された後、車で長野県入りし、阿智村の昼神温泉に宿泊されました。そういえば阿智村のことは「本物の星空を見たことがありますか?」「あす中秋の名月、今夜は待宵」の記事でも紹介しましたが、こうした周辺の歴史文化や自然のお話もお聞きになられたのでしょうか。
 長野県に来られることが多いといっても飯田周辺は久しく機会がなく、両陛下が訪れたのは皇太子時代の1969(昭和44)年以来47年ぶり。当時は国鉄飯田線の急行列車で天龍峡に入られ、三六災害と呼ばれる大水害(昭和36年)に遭った飯田市川路地区の復興状況を視察されたり、農業後継者との懇談、凍豆腐工場や老人ホームの視察などを行われました。御成婚から10年後のことで、住民は熱狂的に歓迎。私はたまたま通り道にあった小学校の2年生で、沿道に出て日の丸の小旗を振ったような記憶があるのですが、あまりよく覚えていません。

 両陛下が満蒙開拓平和記念館を訪問されたのは17日午前。副館長の寺沢秀文さん(両親は元開拓団員)の案内で館内を見学され、元開拓団員や元青少年義勇軍の男女3人(86~92歳)と懇談されました。両陛下は開拓団の集団自決などの話もお聞きになり、3人が平和を願って続けている「語り部」の活動をねぎらわれて「いつまでもお元気で、多くの人に伝えてください」と声をかけられたそうです。
 記念館に続き、両陛下は飯田市の天龍峡とりんご並木をご訪問。天龍峡は47年ぶりの再訪で、大規模治水対策事業や三遠南信自動車道建設による一帯の大きな変化を感じられたことと思いますが、紅葉に彩られた天龍峡の変わらぬ峡谷美はどのように映ったでしょうか。りんご並木は飯田大火(昭和22年)からの市街地復興の中でつくられたもので、両陛下は並木の世話をしている飯田東中学校の生徒たちと親しく言葉を交わし、大きく実った実を生徒の手から受け取っていました。またイメージソング「りんご並木Forever」のことを聞いた皇后陛下が歌を聞きたいとお望みになり、その場で生徒たちが合唱を披露する一幕もありました。
 両陛下は17日も昼神温泉に宿泊。18日は再び愛知県に戻り、小牧市のメナード美術館などをご訪問してお帰りになるとのことです。

 国内外の激戦地や災害被災地をご自身のご希望で精力的に訪問される両陛下。天皇陛下の生前退位についての議論が始まっていますが、今の天皇皇后両陛下に多くの国民が敬愛を寄せるのは、こうした行動があるからだと改めて思います。

満蒙開拓平和記念館

 阿智村(飯田市の西隣)に満蒙開拓平和記念館という民間運営の施設があります。満蒙開拓に特化した資料館は全国唯一だそうで、2013年4月にオープンして以来、当初計画を大きく上回る多くの来館者を迎えています。県外から訪れる方も多く、ここと岐阜県八百津町の杉原千畝記念館をあわせて回る方もあるようです(車なら中央道経由で移動可能です)。

 戦前・戦中の満州移民(開拓団、青少年義勇軍ほか)は全国で27万人とされ、長野県は全国で最も多い約3万4千人を送り出し、2番目の山形県の約1万7千人を大きく上回っています。その中でも長野県南部の下伊那地域は8354人を送っており、全国で最も多く満州移民を送り出した地域と言えます。当時の人口に占める割合は約4.5%で、22人に1人が満州に渡りました。このうち終戦後に帰国できたのは約半分の4197人で、残り4157人が未帰還者(死亡者3829人、ほか残留・不明)となりました。

 満蒙開拓平和記念館は、史実を正しく後世に伝えるため、関係資料を記録・保存・展示・研究しています。こちらが満蒙開拓平和記念館ホームページです。
 展示内容は、まずイメージ再現された当時の開拓団の住居、青少年義勇軍の資料などが並ぶ通路を通り、最初の部屋で開拓団の概略を知る映像を観ます。そこからは時系列に沿って、開拓団のたどった道を追います。まず次の部屋で開拓団・義勇軍の送出や現地の生活の様子を展示。次の部屋は敗戦による逃避行で、体験者がつづった証言などが数多く展示され、直接読めるようになっています。次の部屋は日本への引揚げと帰国してからの再出発です。
 次の部屋には、「中国残留孤児の父」と言われた山本慈昭氏についての資料があります。山本氏は学校教師として阿智村から満州に渡り、敗戦後、収容所で妻子と離されてシベリヤ抑留され2年後に帰国。1969(昭和44)年になって、娘が中国人に育てられて生きている可能性があることを知り、中国に残った多くの日本人残留孤児の肉親を探す活動を始めました。日中国交回復前の活動は国の協力が得られず困難を極めましたが、やがてこの活動が結実して多くの残留孤児が肉親と再会したり日本への帰国を果たしました。
 最後の部屋にはメッセージボードがあり、平和な未来に向けた来館者の感想が展示されています。

 記念館は展示だけでなく、満蒙開拓語り継ぎ活動の拠点、帰国者の交流の場などとしても施設を活用。語り部の講演(月2回)、子ども学習会、国際シンポジウム、語り継ぎ活動のボランティア養成講座、慰霊祭など多くの活動を行い、多くの満蒙開拓移民を送り出した地域の「負の歴史」から、アジア・世界に向けた「平和・共生・友好の未来」創造への発信拠点となることを目指しています。

 上記のように「全国で27万人」と数字で書けばひとまとめになってしまいますが、開拓団員や子どもたち一人ひとりにかけがえのない尊い人生・ドラマがあります。そして来館者一人ひとりからもさまざまな情報や感想が寄せられます。そうした物語の一つ一つをすくい上げているのが、事務局長の三沢亜紀さんのブログ「プラットホーム」。こちらもぜひご覧ください。

 入館料は一般500円(団体20人以上は1人400円)、小中高生300円(同200円)。休館日は毎週火曜日(祝祭日の場合はその翌日)、第2・4水曜日、年末年始など(具体的な休館日は満蒙開拓平和記念館ホームページに掲載されています)。開館時間は午前9時半~午後4時半(入館は午後4時まで)。団体予約の場合は相談に応じることもあります。
 毎月第2・4土曜日の午後2時~3時半、館内で語り部の講演があります(1~3月は休み)。

 記念館は阿智村中心部から下條村方面に進む方向にあり、場所が分かりにくいと思います。ホームページには「周辺に看板も設置していますが、建物自体は駐車場に入るまで遠くから見えません。迷ったかもと思ったら、まずお電話ください」と書いてあります。電話番号は0265-43-5580。
 昼神温泉―「こまんば」バス停―記念館を結ぶ阿智村巡回バスもあります(昼便と夕方便の2往復)。

旧暦の大晦日と節分(9)

 前回の記事のつづきで、「旧暦の大晦日と節分」の最終回。これは完全におまけで、あれこれ調べている間に拾った話を並べておきます。

<江戸時代まで地方に残っていたかもしれない追儺の古俗>
 江戸時代中期の儒者・中村国香が書いた地誌『房総志料』(巻四・上総附録)に、「夷隅郡夷北村の俗に、清明の候に童部集り、木刀・竹鎗など云ふ物持ちて、鬼の仮面を装へる童を立て、金鼔を鳴し、跡より逐ふ。悪鬼を退治すと。是則、追儺の古俗。いかにして、かヽることの残れる」という記述があります。
 清明は二十四節気で春分の次で、桜の花が満開になり、そして散っていく時期。この子どもたちの行動はどう見ても追儺ですが、まったく偶然に追儺と同様の遊びをしていたのでしょうか、それとも平安時代の京の追儺が地方に伝わって、江戸時代まで子どもの遊びのような形で残っていたのでしょうか。

<柊鰯・焼き嗅がし>
 柊鰯の由来に関連して必ず引用されるのが紀貫之の『土佐日記』(935年ごろ)で、平安時代中期、京の都で正月のしめ縄に鯔(ボラ)の頭と柊をつけていたという話です。これが後の柊鰯につながるものなら、柊鰯の元となる風習は豆まきよりはるかに前から日本にあったことになります。けれども、そもそもその起源は何かということや、その後、どういう経緯で節分の柊鰯になったのかということは分かりません。
 『土佐日記』の鯔の頭について、江戸時代末期の『比古婆衣』(巻三)では、『日本書紀』(神代下・第十段)の口女(ボラ)の口から鈎が出たという故事によるのではないかと書いています。面白い説ですが、単なる想像の域を出ない感じです。
 柊鰯は「焼き嗅がし」「焼い嗅がし」とも呼ばれます。信州の最南部から愛知県の三河にかけて、「焼っ嗅がし」と呼ぶ地域もあります。読んで字のごとく、強いにおいの出るものを焼いて戸口に立て、鬼を遠ざけるおまじないです。柊でなく豆殻を使う地域もけっこう多く(両方使う場合も)、ほかの木の枝や普通の串の場合もあるようです(尖っていれば何でもいいのでしょう)。またイワシに限らずニンニク、ラッキョウなどを使う場合もあるそうです。
 京都を中心に関西、西日本では今でもイワシが節分の食べ物になっています。身のほうは食べて、残った頭を柊鰯にするということでしょうか。

<虫の口焼き>
 農村地域では節分に「虫の口焼き」という風習がありました。これは、イワシを焼くときに唾を吐きかけ、作物の害虫を退治する言葉を唱えるというものです。その言葉の形式は、「稲の虫の口焼き、麦の虫の口焼き、○○の虫の口焼き…」と作物の名前を並べていきます。地域によって「○○の虫の口もジリジリ」、「○○の虫もバリバリ」などさまざまな形があります。
 信州では「米の虫もじゃじゃ、菜の虫もじゃじゃ、粟の虫もじゃじゃ…」と唱え、イワシの頭を焼く時だけでなく、豆を炒る時に唱える地域があるようです。また、どういう由来か分かりませんが、虫封じのまじないに、紙に「十二」と書いて張る風習もあるそうです。6×4(むし)=24だから、「十二」は虫を2つに切ったという意味でしょうか(いま思いつきました。全然違うかもしれません)。
 ちなみに私は「虫の口焼き」も「十二」のまじないも実際に見たことは一度もありません。

<豆占い>
 これも農村地域の節分の風習で、全国的にあります。節分の豆を12粒(旧暦で閏月がある年は13粒)選んで囲炉裏の熱い灰に並べます。豆が白い灰になったらその月は晴れ、黒く焦げたら雨、ころがったら風、という感じで月ごとの天候を占います。農村地域からも囲炉裏が消えるとともに、この風習も失われてきたと思われます。

<初雷>
 節分の豆をとっておいて、立春を過ぎて初めて雷が鳴った時に食べると、風邪をひかないとか落雷の被害を避けられるとか言われています。安土桃山時代~江戸時代初期の公卿・西洞院時慶が書いた日記『時慶卿記』の慶長10(1605)年2月25日に「初雷ナレバ節分大豆ヲ用」とあるなど、相当古くからある風習で、全国に広がっているようです。ちなみに俳句では「初雷(はつらい)」は春の季語です。

<魔目・魔滅>
 節分の豆まきの由来について、「マメ」が「魔目」や「魔滅」に通じるからという説明をしばしば見聞きします。「魔」はサンスクリット語に起源があり、もともと仏教で使われる言葉なので、お寺さんが広げた語呂合わせではないかという気がします。日本語には基本的にしっくりきません。
 これに比べると、豆を「炒る」のは「射る」に通じるから、というのは気が利いている感じです。

<撒豆節>
 豆まきの由来に関連して、中国の節分や立春の行事を調べていた時、「撒豆節」という言葉が目に入って、「おー、中国にも豆をまく風習があるのか」と思ったのも束の間、これは日本の節分行事を説明するために中国で使っている言葉でした。中国には豆をまく風習はないようです(一部には撒豆や撒米があるのかもしれませんが)。
 とある中国関連サイトを見ていたら、「大豆のような貴重な食べ物を投げてしまって良いのかという素朴な疑問も残る。(略)食べ物を投げるという行為は、どうしても日本の文化や日本人の精神構造として、そぐわないような気がしてならない」と書かれていて、今更ながら「そうだよなー」と思ってしまいました。大豆でなく落花生をまき、あとで拾って食べるという地域もありますが…。

<厄払い>
 節分の夜、街中を「厄払いましょう」と呼んで歩き、厄年の人がいる家で銭をもらうかわりに祝詞をのべ、最後に鷄の鳴き真似をします。江戸時代に広がって、節分だけでなく大晦日や1月6日、1月14日まで行われた時期があり、群れをなして街中を歩いていたとか。これも江戸時代の文献に書かれていて、江戸、京、大阪の3都にそろってあり、地方でもありました。明治時代末期まで見られたそうです。
 祝詞はいろいろあり、年ごとに工夫もしたようですが、「厄払い」という落語の中にその1つの形が残っています。私は昨年、TBSチャンネル「落語研究会」の桂米朝さん追悼の回で、ありし日の米朝さんの名演を聞くことができました。

   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 …やっと終わりました。いやいや、てこずりました。
 元はというと、大晦日の「お年取り」の記事を書いた時に「年取りイワシ」のことがよく分からなかったのが発端でした。そのうちに、追儺は意味から見れば節分の行事のはずなのに、なぜ昔は大晦日に行ったのかという疑問に移行しました。日本人は飛鳥時代にはすでに暦(太陰太陽暦)と二十四節気のずれをきちんと知っていたので、「旧暦では立春の頃が正月だったから」というような単純な説明で済む話ではありません。いろいろ調べているうちに中国の『通典』にたどりついて、なんとか答えが見つかりました。
 追儺の疑問が解けた後、節分について書こうとすると、これがまた謎だらけの行事で…。豆まきの由来1つとってもまだまだ謎が解けていないので、今後も調べてみたいと思います。
 1回公開した記事でも、後から新しいことが分かると反復的に手直ししました。これからも手直ししたり書き足したりすることがあると思います。

 今回、ネットで調べ始めてみると、特に追儺については、いい加減なことを書いているサイトや、それをそのままコピーしているサイトがあまりにも多くて、余計な手間がかかってしまいました。途中でこれはおかしいと気付き、問題のある情報を排除して最初からやり直し。結局、可能な限り原典にさかのぼって調べ直しました。
 ネット上に和漢の古典籍や研究論文のデータベースがあって助かりました(いい時代です)。また個人サイトの中にも良質で参考になるところがいくつかありました。時間がかかって苦労しましたが、自ら学びて考える、また楽しからずや、という感じです。

 思わぬことに入れ込んで、あまり信州や飯田と関係のない話を長々と書いてしまいました。まあ、ちょうど節分なので、いいことにしましょう(してください(^-^;)。
 本当は正月明けに「新野の雪祭り」(1月14~15日)のことを書く予定だったのですが、もう2月になってしまいました。そう言えば「新野の雪祭り」の主役「幸法(さいほう)」は、面も装束も持ち物も「方相氏」に似ているなあとちょっと思いました。けれども「新野の雪祭り」は京の都の追儺のようなインスタントな行事ではなく、内容の濃さが段違いです。「新野の雪祭り」の話は、また来年書きます。

旧暦の大晦日と節分(8)

 前回の記事のつづきで、節分に戻り、現在の神社や寺院で行われている節分行事をいくつか紹介します。

<長田神社の古式追儺式神事>
 神戸市の長田神社では節分の日に古式追儺式神事を行います。前回の記事で紹介した兵庫県の寺院の鬼踊りと同類で、ここでは7匹の鬼が神の使いで、松明の炎で災いを焼き、太刀で不吉を切ります。室町時代から続くとされています。
 長田神社ホームページに詳しい内容や写真が掲載されていますが、「鬼面、太刀等の製作年代や古文書等より、室町時代には、境内の薬師堂に於ける修正会として、既に現況の様な形で行われていたことが伺われ」るということで、当初は神社の節分の神事ではなく、旧暦の大晦日と節分(6)で書いた仏教の薬師悔過(けか)の法会だったようです。日本はもともと神仏習合の国なので、こういうことは別に珍しくはありません。
 鬼は一番太郎鬼、赤鬼、青鬼、姥鬼、呆助鬼、餅割鬼、尻くじり鬼の7匹で、ほかに太刀役の子ども5人、肝煎りと呼ばれる世話人など数十人が参加します。餅割鬼は最大の見せ場を担うため大役鬼とも言われます。鬼と太刀役は前日からそれぞれ鬼宿、太刀役宿に入って精進潔斎し、鬼役は何度も井戸水をかぶりながら練習を重ね、当日の朝には須磨海岸で海に入って禊をします。
 鬼の演舞の流れは以下のようになります。①一番太郎鬼の演舞、②赤鬼、姥鬼、呆助鬼、青鬼、一番太郎鬼の5匹の演舞、③餅割鬼、尻くじり鬼の演舞、④赤鬼以下5匹が太刀役から太刀渡しを受け、松明と太刀を持って演舞、⑤餅割鬼、尻くじり鬼の演舞、⑥5匹の御礼参り演舞、⑦餅割鬼、尻くじり鬼の餅割演舞。最後に餅割りがあるのは兵庫県の多くの寺院と共通です。
 これを見ると、餅割鬼、尻くじり鬼の2匹と他の5匹は役割が違う感じを受けます。もしかすると元来は餅割鬼、尻くじり鬼の2匹が災いを払う側で、他の5匹が追われる側だったのかもしれません(単なる私の想像ですが)。神の使いの鬼というと、追儺の「方相氏」が転じたものとも考えられますが、上記のようにこの神事が元々は薬師悔過だったとすれば、仏教系の方にルーツがあるか、あるいは両方が入っているのではないかと思います。

<吉田神社の追儺式(鬼やらい神事)、平安神宮の大難之儀>
 京都では節分に北東(鬼門・丑寅)の吉田神社、南西(裏鬼門)の壬生寺、南東の八坂神社または伏見稲荷大社、北西の北野天満宮に参詣する風習があり、「節分四方参り」と呼ばれています。その中でも吉田神社と壬生寺は多くの参詣者でごった返します。
 吉田神社の節分祭は室町時代から続くとされ、現在は節分の前日から翌日まで3日間にわたって行い、前日の午前に疫神祭、午後6時から追儺式(鬼やらい神事)を行っています。どちらも平安時代の古式を復元したものです。こちらは吉田神社ホームページです。
 疫神祭は前回の記事の「宝積寺の鬼くすべ・疫神祭」で触れたように、疫神を饗応して鎮める祭りです。午前8時から本宮で前日祭があり、続いて山の中腹にある大元宮で疫神祭を行います。大元宮の門から外に向けて祭壇を設け、祝詞をあげて米と酒を三方にまき、疫神が荒ぶることなく山川の清き地に鎮まるように祈ります。
 追儺式(鬼やらい神事)は昭和の御大典のあった昭和3(1928)年に復元したもので、本宮前の舞殿で行います。平安時代初期の古式に則り、陰陽師が祭文を読み、方相氏が儺声を発して矛で盾を打ち、侲子とともに舞殿を巡って疫鬼を追い、最後に殿上人が桃の弓で葦の矢を放ちます。
 古式に則るといいながら、ここでは平安時代の宮中の追儺にはいなかったはずの3匹の鬼が登場します。旧暦の大晦日と節分(6)で紹介した、仏教寺院の修正会・修二会の鬼追いに登場する「三毒の煩悩」の鬼を逆輸入したようです。追儺式を復元した当初は目に見えない鬼を追っていたが、不評だったため目に見える鬼を出したという話も見かけました(これが事実かどうかは未確認です)。この鬼たちは改心して、翌日からは参詣者たちに愛想を振りまきます。
 本当に古式にこだわるなら鬼など出さなければいいと思うのですが、所詮は俗化した見せ物です。

 平安神宮も昭和49(1974)年から追儺式を復元し、節分当日の節分祭で「大難之儀」として行っています。猪熊兼繁京都大学名誉教授の時代考証を受けて式次第、作法、祭具、衣裳を綿密に再現したということで、この「大難之儀」では鬼を出さず、その後の、鬼が出てくる「鬼の舞・豆まき」と区切っています。こちらは平安神宮ホームページです。
 平安時代のやり方を再現した儀式の進行や色とりどりの衣裳、独特の所作などはなかなか目を引くものです。主役の方相氏の面がもう少しどうにかならないのかと思うのと、あとは「鬼の舞」の時に「祓い清められたはずの場所にどうして鬼がのこのこ入って来るんだ」と突っ込む人がいっぱいいますが…。室町時代以降の日本では、鬼を豆で追い払うのが節分なので、仕方ないのでしょう。

<新宮神社(高知県南国市)の追儺の式>
 高知県南国市十市の新宮神社では、節分祭に合わせて古式の「追儺の式」を行い、桃弓で葦矢を放ち疫神を追い払います。京都以外の地方で桃弓・葦矢を用いる追儺式を行うのは珍しいと思います。
 新宮神社ホームページによると、同神社では古くから追儺の神事を行い、宮司ら神職が深夜に行燈の火明かりのもとで行ってきたということです。
 新宮神社にこうした神事があるのは、幕末から明治初期にかけて土佐が神道復古に特異的に熱心(それだけ廃仏毀釈も激烈)な土地だったからではないかとも思います。

<壬生狂言の「節分」>
 京都の裏鬼門にあたる壬生寺の節分厄除大法会は節分の前日から翌日まで3日間で、前日と当日、壬生狂言(国重要無形民俗文化財)の「節分」が上演されます。こちらは壬生寺ホームページです。
 壬生寺の厄除けは白河天皇の発願によって始められたと言い伝えられています。平安時代後期のことになります。
 壬生狂言は鎌倉時代に円覚上人が創始しました。寺伝によると、円覚上人は正安2(1300)年に壬生寺で大念仏会を行い、そこで詰めかけた多くの聴衆に教えを分かりやすく説くために、身ぶり手ぶりの無言劇で伝えることを考えつきました。これが壬生狂言の始まりと伝えられています。その後、大衆娯楽として発展し、能や物語などから新しい話を取り入れましたが、宗教劇としての性格を今日まで残しています。
 現在の演目は30番。定例の公開は年3回(計12日間)で、春の大念仏会(4月29日~5月5日の7日間)、秋の特別公開(10月の連休の3日間)、そして節分厄除大法会(2日間)です。節分厄除大法会では「節分」のみを8回上演します。

<五條天神社(東京上野)うけらの神事>
 東京の上野公園内にある五條天神社では節分の日の夕方、「うけらの神事」という珍しい神事を行います。「うけら」を焚きながら「蟇目式」、「病鬼との問答」を行い、弓矢で病鬼を払ったり、方相氏が病鬼を追い払います。
 五條天神社の祭神は大己貴命(大国主命)と少彦名命で、医薬の神様です。大己貴命は因幡の白兎を助けた話が有名で、少彦名命は人間に医薬と農業を教えた神様です。このため同神社では病鬼を退散させる神事を行い、その1つとして節分に行うのが「うけらの神事」です。
 「うけら」(オケラ)というのは漢方薬に使われるキク科の多年草で、万葉集に出てきます。神事の間、これを焚き続け、邪気をはらいます。
 節分祭で祝詞を奏上した後、蟇目式で宮司が神弓・神矢で氏子町内の鬼を払います。続いて病鬼の赤鬼・青鬼との問答が行われ、鬼が過ちを悟って退散しますが、さらに方相氏が桃の弓と葦の矢を手に「鬼は外」と叫んで鬼を追い払います。最後に豆まきを行いますが、ここでは「福は内」とは唱えません。病鬼を追い払えば、それ以上のものを望む必要はないということでしょう。
 翌日の立春の日に、この神社で受けられる「うけら」を焚きながら「うけら餅」を食べると、1年間無病息災で過ごせると言われています。
 「うけらを焚く」というのは今ではほとんど意味も通じませんが、邪気を払うものとして、かつては正月や節分の日に境内のかがり火にくべるなどしたようです。元々は湿気を払うものとして、家庭でも梅雨時になると土蔵、物置、戸棚などで焚く風習があったそうです。俳句では「うけら焚く」「おけら焚く」「蒼朮を焼く」などは梅雨時(仲夏)の季語になっています。
 五條天神社の「うけらの神事」のことは江戸時代の文献によく書かれています。寛文3(1663)年の『世諺問答』に「問て云、節分に、せうのもちゐとてくひ侍るは、なにのゆへぞや、答、この事さらにしりがたし、また五條天神に侍るよし申(略)。問て云、節分に、おけらをたくは、何のゆへぞや、答、白朮(うけら)は風気をさる薬にて侍るうへ、餘薫あしきゆへに、疫疾の神の夜行する夜なれば、是をたきておそれしめんがためにて侍る」とあり、節分に「うけら」を焚くことが一般的な風習で、その意味は、悪臭で疫神を遠ざけるものと解釈されていたことが分かります。
 また延宝4(1676)年の『日次紀事』に「節分の夜は、五條の天神にまいり、餅白朮をうけてかへることあり、五條天神は少彦名命にて、天下の疫癘を守らんとちかひ給ふ神なるゆへ、一年中の疫癘をいのらんためにまいる事なり、白朮は湿はらふ薬なれば、風湿疫癘をのぞくの心にて、神前にてうけて帰り、火にてたくなり」、さらに天保9(1838)年の『東都歳事記』にも「下谷五條天神宮神事 酉の刻追儺あり、白朮餅を出す、これを服して邪気を避るといふ、少彦名命の祭事なり」と記されています。

<浅草寺の節分会>
 江戸時代末期に書かれた『東都歳事記』には、江戸の寺社の節分行事として、上記の下谷五條天神宮神事のほかに、神田社疫神祭、本郷四丁目天満宮、浅草寺観音節分会、亀戸天満宮追儺の神事、雜司が谷鬼子母神堂追儺についての記述があります。
 神田社の疫神祭というのは、本社のわきに疫神塚を立てて祝詞をあげ、疫神祭の札を出したようです。亀戸天満宮追儺の神事は、「雙角四目青赤の二鬼に出立する者、猿の皮をかぶり、鹿角の杖をつき、社前に進出づ」とあるので、方相氏が鬼になっていたと思われ、それに対して「巫出て問答し、幣杖にて鬼を打つ、其餘五人の巫、牛王杖を持て追ひ退く」となっています。さらに、この神事は筑前大宰府の例にならったと書いてあります。本当でしょうか。
 浅草寺観音節分会は、般若心経を唱えた後で豆を打ち、それから「外陣の左右の柱に高く架を構へ、これに登りて、節分祈祷の守札をまきあたふ、諸人挑み拾ひて、堂中混雜せり、但し申の刻に行ふ」とあります。
 浅草寺の節分会は江戸時代中期の元禄時代ごろから行われ、江戸のまちの人気イベントになりました。上記のお札の話は、柱の上から大団扇であおいで約3千枚のお札をまいたというもので、多くの人が争って拾い、危険なので明治17(1884)年から禁止されました。
  現在は法要終了後に年男による豆まき、福聚の舞(七福神の舞)などを行い、お札はお守授与所で配っています。浅草寺では、観音さまの前には鬼はいないとして「鬼は外」とは唱えず、「千秋万歳福は内」と発声しています。

 また浅草寺では大晦日から7日間、修正会を行い、天下泰平・五穀豊穣などを祈願します。この修正会にあわせて毎夜、追儺の儀式があり、僧侶の1人が鬼となり、もう1人が柳の杖を持って鬼を追いかけます。本堂で鉦や太鼓、拍子木の音が鳴り響くなか、杖で激しく床をたたきながら本尊を納めている厨子の周囲をまわります。
 これも江戸時代の文献に出てきて、享和3(1803)年の『俳諧歳時記』には「乃チ初更の頃、鬼形の者一人堂外に出、又一人方相氏の假面を被りたるもの、これを追ふて堂を巡る、後除疫の札三千枚を撤して諸人に與ふ、參詣の人各あらそひ拾ふて、持かへりて自家の門戸に貼」とあります。

 …今回は内容が薄かったです。いくらか目新しいのは「うけら」の話ぐらいでしょうか。次回が「旧暦の大晦日と節分」の最終回で、いろいろ拾った話を並べておきます。

旧暦の大晦日と節分(7)

 前回の記事のつづきで、近畿から北九州にかけて、仏教寺院に伝わっている修正会・修二会の鬼追いのいくつかを紹介します。場所によりかなり特色があります。中には地域の高齢化や人口減などによって存続が危ぶまれている行事もあります。

<宝積寺の鬼くすべ・疫神祭>
 京都府大山崎町の宝積寺は4月18日に「大厄除追儺式」を行います。疫鬼を煙でいぶし出すというユニークな鬼払いで、「鬼くすべ」と呼ばれています。
 護摩火にヒバの葉をくべて本堂内に煙を充満させます。本堂の鴨居には75個の鏡餅がかけてあり、桃の弓と蓬の矢で鬼を追うと、鬼は鏡餅にうつる自分の姿に驚いて逃げていくのだそうです。
 現在の行事は山伏、5匹の鬼、七福神などの行列が門外から入るところから始まります。山伏が法螺貝を吹き鳴らします。鬼たちはおとなしく護摩火の前で加持祈祷を受け、それから松明を持って少し暴れ、弓矢で追われて外に出て行きます。何だか意味がよく分からない進行です。終了後、七福神が福餅をまきます。
 この行事が始まった時期は不明です。寺伝によると、宝積寺は神亀元(724)年に行基が開いたとされ(『行基年譜』には出てきません)、例の『続日本紀』慶雲3(706)年の「是年、天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」を引き、文武天皇が行基に疫病払いを命じたとされているそうです。

 宝積寺のある山崎の地は山城と摂津の境です。
 『続日本紀』宝亀元(770)年6月23日に「祭疫神於京師四隅、畿内十堺」とあり、また『延喜式』(927年成立)の「第三巻・神祇三・臨時祭」の中に宮城四隅疫神祭と畿内堺十処疫神祭の供え物の記述があることから、奈良・平安時代に山城と周囲の国境10か所で疫病を鎮める疫神祭が行われていたことが分かります。疫病が街道づたいに広がることを認識していたのでしょう。平安時代後期には、その中でも南西の山崎、南東の逢坂、北東の和迩、北西の大江が重視され、この4か所で行われる疫神祭を四境祭と呼びました。
 また『続日本紀』では宝亀2(771)年3月5日の「令天下諸国祭疫神」を皮切りに、宝亀9(778)年までの8年間に6回にわたり諸国や五畿内で疫神祭を行っています。
 行基は天平3(731)年に山崎の地に山崎院を開いています(現在は跡しか残っていません)。山崎の疫神祭がここで行われ、のちに宝積寺に移ったということは十分に考えられるでしょう。

 もし宝積寺の鬼くすべが本当に奈良時代に始まったものだとすると、『内裏式』(821年成立)で確認できる平安時代の宮中の追儺よりも早い時代に行われた儺の儀式として、とんでもなく重要な意味を持っていることになるのですが…。鬼や山伏や七福神は後から加えたに決まっていますが、煙でいぶす鬼払いの形式や鏡餅がどういう由来でいつから行われているのか、知りたいところです。

<兵庫県の寺院の鬼踊り>
 兵庫県の神戸・播磨周辺では、今でも20数か所の寺社で鬼踊りの行事が行われています。兵庫県立歴史博物館ホームページの「歴史ステーション―ひょうごの祭りと芸能―鬼」のコーナーにまあまあの内容でまとめられていますが、ここに載っている以外にもあります。開催日は新暦1月上旬か旧暦1月が多く、それ以外もあります。神社では長田神社(神戸市)の古式追儺式神事が有名で、これは次回の記事で紹介します。
 「追儺会」や「鬼追い」という言葉が使われてはいても内容は「鬼踊り」で、この地域の鬼は払われるべき悪鬼ではなく、災厄を追い払い五穀豊穣をもたらす善鬼です。よく指摘されているとおり、下で紹介する大分県国東半島の修正鬼会と共通性が見られます。
 鬼は毘沙門天と不動明王の化身とされているところが多く、明王寺(神戸市)や転法輪寺(同)の「婆々鬼」は天照大神とも呼ばれています(なぜここに日本神話の最高神が出てくるのか不思議ですが)。随願寺(姫路市)の「空鬼」や神積寺(福崎町)の「山の神」は本尊の薬師如来の化身・使者で、他の鬼を従えています。また朝光寺(加東市)では鬼の前に住吉明神の翁が祓の踊りをします。
 松明と斧、槌、鉾、剣などを持ち、力を封じるため身体が藤づるや縄で縛られている(鬼絡み)ところが多く見られます。松明を振って飛び跳ねたり、四股を踏んだり床を踏みならす所作をし、餅割り・餅切りをするところが多いのも兵庫県の鬼踊りの特徴です。
 小鬼が出るところも多く、近江寺(神戸市)では大人でなく多くの子どもたちが小鬼になり、婆々鬼について本堂の周囲をまわり、本堂に入って鬼の踊りの合間に2人1組で棒を打ち鳴らしながら踊ります。

 東光寺(加西市)では鬼会の前に「田遊び」という行事があり、それを合わせて国重要無形民俗文化財に指定されています。「田遊び」では、面をつけ鍬を持った「福太郎」「福次郎」が田起こし、苗代づくり、種まき、田植えから稲刈りなどまで一連の稲作の作業を演じ、豊作を祈願します。室町時代末期にはすでに行われていたそうです。
 鶴林寺(加古川市)では鬼踊りの前に、12の土器に燈明をともしてその年の天候を占ったり、竹で作った「鬼の花」の垂れ具合で豊作を占ったりします。

 これらの鬼踊りが始まった時期はまちまちで、鎌倉時代(神積寺、随願寺)、室町時代(東光寺)、安土桃山時代(太山寺)、江戸時代初期(性海寺)、江戸時代中期(高薗寺)などとされており、比較的新しい時代に始まったものもあるようです。

<福岡県の火祭り>
 福岡県には「大善寺玉垂宮の鬼夜」(久留米市)、「鬼すべ」(太宰府市)、「熊野神社の鬼の修正会」(筑後市)と、年の初めに「鬼」のつく大きな火祭りがあります。鬼はあまり目立ちませんが、次に紹介する大分県国東半島の修正鬼会と共通性が見られるため、簡単に紹介します。
 「大善寺玉垂宮の鬼夜」は大晦日の夜から正月7日まで続く「鬼会」の最後に行われるもので、国重要無形民俗文化財に指定されています。小正月の火祭りに追儺の儀式が結び付いたものと考えられています。長さ13m、火口の直径1m、重さ1.2tの大松明6本が火の粉を散らしながら本殿などをまわります。鬼はシャグマの子どもたちに囲まれて姿を隠したまま鬼の堂回りをし、川で禊をして神殿に帰ります。起源は仁徳天皇56(368)年て、古墳時代前期なんですけど…。
 「熊野神社の鬼の修正会」はもともと隣にあった坂東寺の行事で、明治の廃仏毀釈で坂東寺がなくなったために熊野神社に移されました。まず子どもたちが松明を持って本殿をまわる小松明行事があり、その後、長さ13m、火口の直径1.5mという大松明3本が本殿をまわります。松明に点火するための御神火を火打石で起こし、これを「鬼火」と呼びますが、鬼は出ません。

<大分県国東半島の修正鬼会>
 大分県国東半島の3寺院(豊後高田市長岩屋天念寺、国東市国東町岩戸寺、同成仏寺)で続いている修正鬼会(しゅじょうおにえ)は国重要無形民俗文化財に指定されています。鬼が松明を持って演舞し、五穀豊穣や無病息災を祈願する法会で、鬼走りと火祭りが組み合わされた修正会の行法とされています。上に書いたとおり、鬼については兵庫県の鬼踊りと、また火祭りについては福岡県の火祭りと共通性が見られます。
 成仏寺は旧暦1月5日、岩戸寺と天念寺は旧暦1月7日で、国東の岩戸寺と成仏寺は1年交代で行ってきましたが、2016年の番だった成仏寺が地元の高齢化で休止(昼の勤行のみ行う)を決めたため、国東では2016年は行われないことになりました。
 ここの鬼も悪鬼ではなく、先祖が姿を変えた一種の来訪神ととらえられています。愛染明王と不動明王の化身とも言われています。鬼の舞は古い法呪師の芸を伝えるものとされ、また全体として行法や祈祷が芸能に移り変わる道筋が見られる貴重なものとされています。
 周辺の10ほどの天台寺院の僧侶が集まり、導師や鬼役などを分担します。
 昼の勤行は法華懺法を修したり千仏名経を唱えます。
 夜になると「垢離とり」があり、鬼役の僧侶、トシノカンジョウ(住民の代表)、タイレシ(大松明を献灯する住民)が川で水行をして身を清めます。その後、院主とタイレシの間で盃の儀が行われます。
 夜の前半の山場はタイアゲ(大松明の献灯)で、住民が作った長さ数m、重さ100kg以上のオオダイ(大松明)に点火して境内に担ぎ上げ、献灯します。オオダイをぶつけて火の粉を上げる場面もあります。オオダイの数は近年はだんだん少なくなっています。
 夜の勤行はまず坐っての読経や声明が続き、その後、僧侶が法衣をぬぎ立役に移ると雰囲気が一変。お囃子のなか2人の僧侶が「香水棒」を持って舞う賑やかな法舞が続き、「四方固」で太刀を手に呪文を唱えて四天王の力で結界を設けます。
 ここで男女一対の「鈴鬼」の登場となり、右手に鈴、左手に御幣を持って鈴鬼作法の所作を行い、最後にいよいよ「荒鬼」を招き入れます。「荒鬼」は力を封じるために全身が縄で縛られており(オニカラゲ)、堂に入ってから鬼の面をつけます。
 長岩屋の天念寺の荒鬼は「災払鬼」と「鎮鬼」の2匹で、松明をぶつけ合い火の粉をまき散らしながら激しく舞います。天念寺では鬼は外には出ません。
 国東の岩戸寺の荒鬼も2匹、成仏寺は3匹になります。国東では鬼が堂内で舞った後、堂から走り出て境内で参詣人に加持祈祷し、寺から出て手分けして地区の家をまわります。鬼はそれぞれの家で仏壇を拝み、家族一人ひとりの無病息災を加持祈祷し、もてなしを受けます。
 国東半島の六郷満山の修正鬼会は奈良時代の養老年間(717~724年)に仁聞菩薩から「鬼会式」「修正導師作法」「法呪式」などを授かって始まったとする伝承がありますが、これはそのまま信頼することはできません。しかし、豊後高田市の富貴寺に伝わる鈴鬼の面は、裏に久安3(1147)年の修正会で使ったという墨書があり、平安時代末期には何らかの形式のものが行われていたと見られます。近畿周辺で修正会・修二会の鬼追いが広がった鎌倉時代よりかなり早く、密教か陰陽道が元と思われる古い修法がよく残っている点からも、畿内から伝わったのではなくこちらが発祥ではないかという印象すら受けます。また兵庫県の鬼踊りの鬼とは「オニカラゲ」などの特徴が似ていて、どこかに国東半島と兵庫県を結ぶ線があるはずで、それが分かると面白いのですが…。
 仁安3(1168)年の『六郷二十八山本寺目録』によると六郷満山は末寺を合わせて65寺院あり、江戸時代までは各地で寺院単独で修正鬼会を行っていたようです。明治の神仏分離・廃仏毀釈で多くの寺院が衰退した時代に、寺院を東、中、西の3組に分け、それぞれ組の中で助け合って修正鬼会を行うようになり、戦前には20寺院で行われていました。
 少し調べてみただけでも、寺院にとっても地元住民にとっても大変な労力のいる行事だということが分かりました。本当に貴重な民俗文化財であり、成仏寺でも何とか現在の危機を乗り越えて存続する知恵が見出されればと思います。

<竹崎観世音寺修正会鬼祭>
 佐賀県太良町の竹崎観世音寺修正会鬼祭も国重要無形文化財です。童子舞という他では見られない芸能があり、行事全体にも古風な民俗が残っているとされています。
 旧来は1月5~6日の行事で、5日の夜に「初夜の行」、6日の朝に「後夜の行」、6日の昼に「日中の行」を行いましたが、現在は2~3日で、内容も簡略化されて「後夜の行」がなくなり、2日の夜に「初夜の行」、3日の午後に「日中の行」となっています。
 それぞれの行は、まず観音堂で院主が観音経や太鼓経を唱え、フレイ経という経を唱えている間に男児2人による童子舞が行われます。フレイ経の最後には童子が法螺貝の中の種籾をこぼしながら舞います。
 3日の「日中の行」では、堂内の行の後に童子が境内に出て鈴振の舞、牛王杖の舞、翁面の舞、青蓮華・赤蓮華の舞などをし、最後に太刀を持って舞います。童子は1曲ごとに堂内に入ったり出たりしますが、大人が抱きかかえて運び、移動の間は童子の足を決して地につけません。童子舞の四股踏み、足踏み、膝つきなどの所作は陰陽道の秘技の遺風で、古呪禁の法を表現しているとされています。
 この童子舞の前と途中の2回、「大聖棒(だいしょうぼう)打切り」があり、鬼副(おにぞえ)の若者が樫の棒(牛王杖)の束を階段の角に叩き付けてばらばらにすると、見物人が群がって棒を奪い合います。
 本来はこの後、鬼副4人が観音堂から鬼箱を持ち出して逃げようとし、それを若者たちがつかまえる「鬼攻め」という見せ場があるのですが、若者の数が足りなくなり、2008年を最後に行われていません。竹崎は有明海に囲まれた小さな島。諌早湾干拓の影響もあるのか漁業が低迷し、近年はタイラギ漁ができない年が続いて、若者の流出に拍車がかかっていると言われています。
 竹崎には、夜灯鼻という岬の沖に住む鬼と、観音堂の鬼箱の中に納められている鬼が夫婦で、2匹が再会すると竹崎島が転覆するという伝説があり、それを阻止するのがこの祭りで、5日の夜の満潮の頃に「初夜の行」を行い、気勢を上げたのだそうです。鬼箱の中には鬼面が入っているそうですが、誰も見てはいけないことになっています。境内で褌姿の若者たちがぶつかり合うところから、「裸祭り」とも呼ばれています。
 地元の伝説を取り入れたせいか、多くの鬼追いや鬼踊りとは違う特殊な形式で、これもルーツが違うのではないかとも思われますが、鬼祭なのに肝心の「鬼攻め」ができないのは残念なことです。

 …節分と関係のない修正会・修二会の鬼の話に2回かかりました。次回は節分に戻り、現在の神社や寺院で行われている節分行事について書きます。

旧暦の大晦日と節分(6)

 前回の記事のつづきで、追儺と節分の話の一応の締めくくり。鎌倉時代から仏教寺院の修正会(しゅしょうえ)や修二会(しゅにえ)で行われ始めた鬼追いについてです。

<法隆寺の西円堂修二会>
 奈良の法隆寺では毎年2月1~3日に西円堂修二会を行い、3日夜、修二会の結願の後、「鬼追い」(追儺会)を行います。「鬼追い」には黒鬼、青鬼、赤鬼が登場し、それぞれ西円堂の基壇を時計回りに回りながら東と南と西で観衆に向かって松明を投げ、その後から毘沙門天が現れて鬼を追い立てます。3周すると堂の中に入って終わります。今はこの時だけ堂の周囲に金網が張られますが、火の粉がかかると無病息災で過ごせるなどとして多くの観衆が集まります。
 修正会・修二会は悔過(けか)の法会、すなわち過ち・罪を懺悔する仏教行事です。正月に行うものを修正会、2月に行うものを修二会といいます。
 西円堂修二会は鎌倉時代中期の弘長元(1261)年に始まったとされています。ということは、京で大晦日の追儺がまだ行われていた時代に、仏教寺院でそれとは別の鬼追いが行われたことになります。修二会は2月に行うからこそ修二会。旧暦では立春は12月後半か1月前半にあり、絶対に2月にはならないので、修二会はもともと節分とは無関係です。その修二会に鬼追いがあるということは、単純に追儺を取り込んだのではなく、仏教には仏教独自の鬼追いの起源があるということです。
 仏教では、人間の心には本来的に「三毒の煩悩=貪欲、瞋恚(しんい・怒り)、愚癡(ぐち・教えを知らないこと)」があり、それが原因で罪を犯してしまうと教えています。その罪を懺悔するのが修二会であり、西円堂修二会に登場する毘沙門天と鬼は、仏教によって三毒の煩悩を払うことを分かりやすく大衆に教えるものだと言うことができます。
 このように仏教の世界で具現化・実体化された鬼のイメージは、平安時代以降の日本独自の鬼像の形成と相互に影響し合っているものと考えられます。そして、旧来の追儺と新しい鬼像が結びついて融合していったのだとすれば、今のような節分行事の始まりは、室町時代より早い鎌倉時代あたりまでさかのぼる可能性もあるのかもしれません。

 法隆寺だけでなく、鎌倉時代には多くの寺院で修正会や修二会に合わせて鬼追いが行われたようです。平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人・藤原定家の日記『明月記』には、承元元(1207)年1月15日に法勝寺の修正会で鬼追いが行われたことが書かれています。また鎌倉時代後期の公家・藤原兼仲の日記『勘仲記』では、正応2(1289)年1月18日の蓮華王院(三十三間堂)の修正会の進行が詳しく記述され、龍天(天龍八部衆)や毘沙門が出てきて、3匹の鬼を龍天が棒で追ったと書いてあります。『勘仲記』では「追儺」という言葉が使われており、当時すでに大晦日の追儺に限らず鬼追いのことを一般に「追儺」と呼んでいたことが分かります。
 法隆寺には鎌倉時代のものとされる追儺面が3面あり、国重要文化財になっています。また福井県鯖江市の加多志波神社に伝わる3つの鬼の面は蓮花寺の修正会で使ったものと見られ、うち2面は裏に貞和2(1346)年に修理したという朱漆銘があり、鎌倉時代に作られた追儺面の優品として国重要文化財に指定されています。
 こうしたことから見ると、仏教寺院の修正会・修二会の鬼追いは鎌倉時代に各地に広がり、仏教流の理由を付けて追儺を取り込みつつ、それぞれ独自のアレンジを加えていったと言うことができそうです。また後から紹介するように、多くの寺院で火祭りの要素が強く見られることが1つの特徴になっています。

 なお、法隆寺の「鬼追い」がいつから節分に合わせて行われているのか、知りたいところです。法隆寺ホームページによると、「寛政9年(1798)までは法隆寺の僧が鬼役を勤めていましたが、以後、丑寅の方向にあたる岡本法起寺裏の住人が勤仕することになりました」ということなので、いつの間にか陰陽道の鬼と同化しています。
 日本の神仏習合は奈良時代から始まっており、日本人にはあまり違和感なく溶け込んだのでしょう。本地垂迹説も反本地垂迹説も表裏一体の神仏一体化理論で、神仏習合は時代とともに深まって明治の神仏分離まで続きました。考えてみれば毘沙門天だって元々はインド神話の神様だし、密教と陰陽道は親和性が高いみたいだし、仏教は何でも取り込む性質を持っているのかもしれません。

 ここまで6回もかかりましたが、「旧暦の大晦日と節分」の記事で書きたかったことの本論はひとまずこれで完結しました。以下は今回の補足です。

<東大寺二月堂の修二会>
 上記のとおり修正会や修二会は悔過の法会ですが、奈良・平安時代の護国仏教では同時に国家安泰・五穀豊穣を祈願し、盛大に執り行いました。最も古いのが、「お水取り」で有名な東大寺二月堂の修二会(正式名称は十一面悔過)で、同寺の『二月堂縁起』によると天平勝宝4(752)年から始まり、「不退の行法」として現在まで一度も途切れずに続いています。もとは旧暦2月1日から行い、現在は3月1~14日に行っています。毎夜、大きな松明に火がともされ、舞台で大きく振られるため、「お松明」とも呼ばれます。
 練行衆と呼ばれる11人の僧侶が2月20日から別火の前行に入り、3月1日から14日間(7日間を2回)、二月堂で本行を勤めます。期間中は悔過法要を1日に6回行い(六時の行法)、その間に大導師作法と呪師作法を1日に2回行います。悔過に先立って練行衆が堂内をまわる散華行道があり、悔過の間に懺悔を全身で表す五体投地も行われます。
 大導師作法では神名帳を読み上げて全国の神々を勧請します。呪師作法は堂内をまわりながら呪文を唱え、魔障を払い四天王を勧請します。
 5~7日の3日間と12~14日の3日間には「走りの行法」が行われます。天界の1日は人間界の400年にあたるので、天界の行に追いつくことは無理でも少しでも急ごうと、本尊のまわりを早足でまわり、五体投地も行います。
 いよいよ残り3日間となる12日に「お水取り」があります。この日の松明は特別に大きな籠松明で、舞台で振られると大きな炎が上がり火の粉が舞い散ります。「お水取り」は深夜(13日午前1時)で、呪師と5人の練行衆が雅楽が奏される中を進み、閼伽井屋(若狭井)で香水を汲みます。
 最後の3日間は深夜に「達陀(だったん)の行法」が行われます。松明を持つ「火天」役と灑水器(しゃすいき)を持つ「水天」役が組になって堂内を踊るようにまわり、法螺貝や鐘、太鼓、鈴、錫杖が鳴り響く中で「火天」は松明を振り回し、「水天」は水をまきます。「火天」は最後に礼堂に出て松明を床に打ちつけます。「達陀」はサンスクリット語で「焼く」という意味だそうです。
 修二会の満行は15日の朝になります。

 呪師作法、達陀の行法など、密教的な行法が目を引きます。東大寺では弘仁元(810)年から4年間、空海が別当を務めたこともあり、これらの密教的な行法に何か関係があるのかもしれません。
 興味のある方は東大寺ホームページもご覧ください。年中行事のコーナーに修二会についての詳しい説明があります。

<薬師寺の花会式、長谷寺の修二会>
 奈良の薬師寺の花会式(修二会)、長谷寺の修二会(だだおし)には、法隆寺の西円堂修二会と同様の鬼追いがあります。いずれも節分の日ではなく(節分とはまったく無関係)、節分の日には別に星祭りや節分会を行います。

 薬師寺の修二会(薬師悔過法要)は奈良時代に始まり、同寺の最大の年間行事になっています。嘉承2(1107)年に堀河天皇が皇后の病気平癒を祈願したところ、病気が回復し、翌年、皇后が女官に命じて10種類の造花を作らせて供えました。それから毎年、修二会にたくさんの造花を飾るようになり、「花会式」と呼ばれるようになりました。鬼追式を加えたのは法隆寺より遅いはずですが、いつから始めたのかは調べ切れませんでした。
 元々は旧暦2月末でしたが、2013年まで3月30日~4月5日に行われ、2014年からは3月25~31日(最終日の夜に鬼追式)になっています。ちょうど境内の桜も見ごろの時期です。
 7日間の修二会の間、東大寺と同様に呪師作法があり、金堂内に鐘、太鼓、法螺貝が鳴り響く中、呪師が真剣を持って走り回ります。修二会の期間中、稚児行列、居合道、大正琴、百華能、柴燈大護摩(火渡り式)などの奉納行事もあります。
 神道的な儀式も混じっていて、最終日の結願法要の前に金堂の外で神供があり、呪師が神々を勧請し、練行衆が松明を投げ上げて神々に献じます。
 そして結願法要の後、鬼追式となります。金堂の外につくられた舞台で、まず呪師作法があり、続いて5匹の鬼が松明を持って現れ、大暴れします。これは文字通り傍若無人の大暴れで、観衆の近くで松明を振り回したり叩きつけたり、舞台の4隅にある籠松明を揺らして大量の火の粉を散らしたり、舞台から下りて観衆を威嚇したり。そこに毘沙門天が登場し、鬼を追い払って終了します。
 見せ物としては面白いでしょうが、法隆寺と比べると、鬼追いを見せる意味がよく分からない気もします。
 薬師寺ホームページもご覧ください。

 長谷寺の修二会は2月8~14日の7日間で、最終日の夕方、「だだおし」(鬼追い・追儺式)があります。こちらも鬼追いがいつから行われているかは分かりません。
 長谷寺ホームページによると、「だだおし」の意味は、「だだ」という閻魔大王の杖、追儺と同義の「儺(だ)押し」、人々の額に印を押す「檀拏(だんだ)押し」など諸説あって定かではないそうです。また寺伝では、長谷寺開山徳道上人が養老2(718)年に病の床の夢で閻魔大王に会って閻浮檀金の黄金印を授かり、修二会の結願の日に参詣者の額に押し当てて無病息災を祈ったことから、この名になったと伝えられているそうです。
 修二会の最終日は悔過法要、七種の秘宝の封印を解いての法要、鬼面加持があり、参詣者の額に閻浮檀金の宝印が押されます。この宝印授与に前後して太鼓や法螺貝が鳴り響き、3匹の鬼が乱入しますが、牛玉札を持った僧侶たちの力で外に追い出されます。そして堂の外では、男たちが大松明を振りかざし、鬼たちを退散させます。松明をぶつけ合って火の粉を散らす場面もあります。この松明の燃え残りを持ち帰ると無病息災になると言われています。
 鬼が松明を持っているのではなく、人間のほうが松明を持って鬼を追い払うところが法隆寺や薬師寺とは反対です。大和の地に春を呼ぶ火祭りと言われています。

<興福寺・春日大社の薪御能>
 奈良の興福寺と春日大社では毎年5月第3金・土曜日に薪御能(たきぎおのう)が行われますが、これは元々は修二会の行事で、旧暦2月に行われていました。興福寺ホームページに詳しい歴史が掲載されています。
 修二会には密教的な呪師作法があり、走り回ったり刀を振るなど激しい動きをします。この呪師作法は本来は呪師の役を務める僧侶が行いますが、寺院によっては、それを猿楽者に任せるケースが出てきました。
 猿楽は奈良時代に唐から伝わってきた散楽が元で、物まね、軽業、奇術などさまざまな芸能を含んでいたとされていますが、平安時代にはこっけいな物まね芸などが猿楽の主体になっていきます。平安時代の間に専業的な猿楽者の一部は寺社に所属し、法会や神事の中で役割を果たすようになりました。
 興福寺は春日社(現在の春日大社)と一体的な関係があり、修二会に必要な薪を春日奥山から運びました。そして毎夜、神供の式を行うとともに、明々と薪が燃える火のもとで猿楽が演じられました。ここから、鎌倉時代中期には薪猿楽と呼ばれるようになりました。その頃には薪猿楽は修二会の添え物ではなく、観衆の人気を博す呼び物になっていたと考えられます。
 鎌倉時代には各地に猿楽座が生まれて興行をするようになり、室町時代初期までに大和の4座、近江の6座が並び立ちました。室町時代前期には、大和四座の1つ結崎座(のち観世座)の世阿弥が、猿楽に優美な歌舞や禅の精神まで取り入れ、能楽を大成しました。
 今日につながる能の源流の1つに、修二会から生まれた呪師猿楽があったわけです。
 興福寺は明治維新にともなう神仏分離・廃仏毀釈の嵐にさらされ、寺領を召し上げられて薪御能も続けられなくなりました。その後、戦時中の昭和17(1942)年から興福寺復興の活動が立ち上がり、翌年5月に薪御能が復活。戦後は昭和27(1952)年から地元自治体の後押しもあり、室町時代のように4座がそろう薪御能が行われています。

 2015年の薪御能の演目は以下のとおりでした。
◇5月15日
・呪師走りの儀(春日大社舞殿、午前11時)
   金春流能「翁」
・南大門の儀(興福寺南大門跡・般若之芝、午後5時半)
   宝生流能 「巴」
   大藏流狂言「千鳥」
   金春流能 「野守」
◇5月16日
・御社上りの儀(春日大社若宮社、午前11時)
   金春流能「田村」
・南大門の儀(興福寺南大門跡・般若之芝、午後5時半)
   観世流能 「羽衣」
   大藏流狂言「因幡堂」
   金剛流能 「鵺(ぬえ)」

 なお興福寺は節分の日に追儺会を行っており、毘沙門天が3匹の鬼と戦うショーがあります。

 …調べてみると、西日本の近畿から北九州にかけて多くの寺院に修正会・修二会の鬼追いが伝わっているので、次回の記事でいくつかを紹介します。

旧暦の大晦日と節分(5)

 前回の記事のつづきで、節分の豆まきの由来です。
 節分の豆は、「鬼を追い払うためにまく」とともに「年神様に供え、自分の年の数(あるいはそれより1つ多い数)だけ食べる」のが一般的ですが、その他に「厄落としとして、自分の年の数の豆といくらかの銭を紙に包んで道端に落とし、物乞いに拾わせる(あるいは家に来た物乞いに与える)」ということもあったそうです。これらの風習は、同じ1つのルーツから派生したとは思えません(2番目はどう考えても年越し行事でしょう)。どれも調べると面白そうですが、今回は「豆をまく」ことの由来に絞って書きます。

 「節分」という言葉は平安時代中期に書かれた『伊勢集』『源氏物語』などにも出てきて、冬の節分だけでなく夏や秋の節分のことが書かれています。しかし、豆まきは出てきません。鎌倉時代も同様で、豆まきの記述はおそらく見つからないと思います。
 ところが室町時代になると、多くの文献に豆まきが出てきます。
 まず足利義満以後3代の将軍について記した『花営三代記』では、応永32(1425)年1月8日に「節分大豆打役昭心、カチグリ打。アキノ方申ト酉ノアイ也。アキノ方ヨリウチテアキノ方ニテ止」とあり、「大豆打役」が勝栗を投げています。「昭心」は同書にしばしば出てくる因幡入道昭心(照心とも)で、評定衆だった波多野元昌(元尚)のことではないかと思います。「アキノ方」は「明きの方」で、その年の歳徳神がいる方角、つまり恵方です。今と同様に恵方を意識しており、陰陽道の影響を受けた行事だということが分かります。義満は禅宗を保護する一方で陰陽師を重用したので、うなずける話です。
 後崇光院(伏見宮貞成親王)の日記『看聞御記』にも同年同日に「鬼大豆打」という記述があるそうで、同じ行事のことでしょうか。
 また前回の記事でも書いたとおり、室町時代中期に書かれた『臥雲日件録』では、1447年に、炒り豆をまいて「鬼は外、福は内」と唱える、今とまったく同じ節分行事が行われています。

 これらから見ると、室町時代初期(14世紀半ば~15世紀初頭)に節分の豆まきが始まり、一般に普及したと考えてほぼ間違いないでしょう。平安時代から続いた大晦日の「追儺」は南北朝の動乱で衰退するので、それから90年ほどの間に何があったのかということが焦点になります。

 節分の豆まきの由来については、次の5つくらいの説があると思います。
(1)中国の後漢の大儺で行われた「以赤丸五穀播灑之」
(2)本草学(中国医薬学)の大豆の効能
(3)室町時代に明から伝わった
(4)室町時代に追儺の鬼払いと節分方違えの豆打ちが混合した
(5)鞍馬山の鬼(御伽草子「貴船の本地」、御泥池の豆塚伝説)
 正直なところ、どの説にも疑問が残って決定版がないのですが、順に見ていきます。

 まず(1)です。中国の文献をさかのぼると、後漢中期(2世紀)に書かれた『蔡中郎集』や『漢旧儀』の「時儺」の話に「以赤丸五穀播灑之」(赤丸を投げたり五穀を撒いてこれをそそぐ)というのが出てきます。「赤丸」というのは何のことかはっきりしませんが、小豆だという解釈があります。日本だと豆は五穀の中に入りますが、古代中国だと入る場合と入らない場合があります。なぜ豆をまくのかという根本的な理由までは分かりませんが、後漢の「大儺」に桃の弓、葦の矢とともに穀物を用いていたことが分かります。
 江戸時代初期の儒学者・林羅山の『羅山文集』(巻五十六・雜著)では、「儺文」の説明でこの『漢旧儀』の文を引用し、豆まきだけでなく、柊は葦の矢と似たようなものだとしています。さらに「鬼は外、福は内」という言葉も、『後漢書』の儺の詞と同じ意味だとしています。
 林羅山の説はなるほどとは思わせますが、これでは室町時代に豆まきが広がったことの説明になりません。

 次は(2)の本草学(中国医薬学)の大豆の効能です。中国では古代から本草学があり、1~3世紀ごろ『神農本草経』という薬物辞典が作られました。これの原本は残っていませんが、500年ごろ異本を整理した『神農本草経集注』が出されました。その中で大豆の効能について「煮飲汁殺鬼毒、止痛」(煮て汁を飲めば鬼毒をけし、痛みを止める)とあります。
 中国でいう「鬼(き)」とは死者の霊魂のこと。そして、横死したり誰からも祭られない霊魂はたたりを起こすと恐れられました。日本では「鬼」を目に見えないものという意味で「おん(隠)」と読み、それが「おに」に転じたという説があります。その「鬼」が平安時代の間に実体化しはじめ、室町時代の物語では人を食う怪物になりますが、そのことには(5)の説明で触れます。
 『神農本草経』には「鬼」という字がいっぱい出てきますが、どうも説明のつかない症状を鬼のせいにしている感じがします。「鬼毒」も意味が不明です。しかし死者の霊魂が人にたたるということなら、やはり疫病の伝染を連想してしまいます。それを払うのに大豆を使うのなら、(4)の節分方違えの豆打ちにつながるかもしれません。この先は(4)の説明で触れます。
 それにしても、『神農本草経集注』も遣隋使・遣唐使の時代に日本に入っているはずなので、やはりこれだけでは室町時代に豆まきが広がったことの説明がつきません。

 次は(3)の室町時代に明から伝わったという説です。現在、神社庁筋がとっているのはこの説で、神道系の書籍や神社のホームページではだいたいそう書いてあります(というか、まったく同じ文章をコピーして載せている例が少なくないので、どこかにオリジナルがあるはずです)。
 室町幕府3代将軍の足利義満は1401年に明との国交を樹立して明から日本国王と認められ、倭寇を取り締まりつつ積極的に日明貿易を進めたので、この時期に明のさまざまな文化が日本に流入しています。
 では当時、具体的に明にどんな風習があって日本に伝わってきたのかということが問題になりますが、それがさっぱり分かりません。調べても調べても出てきません。
 唐の時代に書かれた『楽府雑録』には、儺の行事について「口呼各凶神名、振子豆百」(口々に凶神の名を呼び、子どもが豆をまく)という描写があるそうで、後漢の時代のように豆をまいた例があったようです。また清の時代以降も北部の豆の産地で撒豆、南部の米の産地で撒米の風習が見られる地域があるようですが、あまり一般的ではない感じです。
 (3)の説は時代も状況もぴったり合いますが、有力説とするにはもう少し補強が必要です。

 次は(4)の追儺の鬼払いと節分方違えの豆打ちが混合したという説です。
 「方違え」については説明するまでもないと思いますが、行き先の方角が悪い場合、いったん別の方角の場所に行って泊まり、そこから目的地に向かうことです。平安時代中期以降、陰陽師が本来の職掌を超えて怪しげなことを言いふらした時代に、ヒマな貴族たちの間で流行りました。『源氏物語』『枕草子』などに出てきます。
 それを節分の日に行う理由もさっぱり理解できませんが、ともかく節分の日は大勢が方違えをする日だったのだそうです。
 こういうことは武家の時代になっても残るもので、鎌倉時代の『吾妻鏡』には節分御方違がいっぱい出てくるし、室町時代の文献にも出てきます。
 この節分方違えが室町時代になると簡略化され、よそに泊まる代わりに自宅の恵方の部屋に移るだけになり、その時に部屋に豆をまいて邪気を払ったのだそうです。そして、その頃にはすでに大晦日の「追儺」が衰退していたので、「追儺」の鬼払いの意味だけが節分行事に取り込まれたというわけです。旧暦の大晦日と冬の節分はプラスマイナス十数日以内の差なので、これもありそうです。
 ただ、肝心の「節分方違えが室町時代になると簡略化され(略)部屋に豆をまいて邪気を払った」という部分の出典が確認できません。さらに、これが本当だったとしても、なぜ豆で邪気を払うようになったのかという説明がありません。これらの問題が解消されれば、(4)が有力説になると思うのですが。
 ここで思い出すのが(2)の大豆で鬼毒をけす話です。『神農本草経』では鬼毒をけす効果があるのは大豆だけではなく他にもいくつかありますが、手に入りやすくて気軽に部屋にまけるという意味では大豆が最適でしょう。(2)と(4)を明確につなぐ根拠が見つかると面白いのですが。

 いずれにせよ今の節分行事の始まりに陰陽道が関与していることは間違いなく、感じとしては(1)~(4)のどれもが多少なりとも関係があるのではないでしょうか。

 最後に(5)の鞍馬山の鬼です。「貴船の本地(きぶねのほんじ)」は室町時代に成立した『御伽草子』の1つ。「○○の本地」というのは本地垂迹説に基づいて書かれた物語で、貴船神社のホームページでは「貴船の物語」として掲載しています。宇多天皇の時代というと平安時代前期の890年代ころ。以下は物語の要約です。
 定平の中将という男がいて、ある時、扇に描かれた美しい女に心を奪われ、恋煩いで3年も寝込んでしまいます。その絵の女は鬼の大王の娘で、鞍馬山の奥の僧正谷の丑寅の岩穴に入ったずっと先にある鬼国にいました。中将は毘沙門にお願いして娘に合わせてもらい、娘について鬼国に入りました。鬼国は広く、四季の庭がありました。娘は中将の体を小さくしてお守りの中に隠し、大王の前に出ますが、大王は人間を出せと怒ります。娘は中将を逃がし、大王は中将のかわりに娘を食べてしまいます。中将は娘を供養して暮らしますが、その頃、中将の叔母が懐妊し、美しい女の子を産みます。鬼の娘が死んでから13年後、女の子は中将に、自分は娘の生まれ変わりだと明かし、2人は結ばれます。ところが鬼の大王がこれを知り、手下たちを京に向かわせようとします。鞍馬の毘沙門が鬼の動きを知ってお告げをし、法皇が大学寮の学者たちに命じて方策を占わせました。すると、僧正谷の岩穴を封じ、三石五斗の炒り豆で鬼の目を打てば、鬼は目をつぶされて帰る、また鰯を焼いて串に刺し、家の門口に挿しておけば、人と間違えて鰯をとっていく、ということになり、その通りにして鬼を追い払うことに成功しました。さらに毘沙門のお告げで五節句の鬼払いの祭りを始め、それによって鬼が出て来ることはなくなりました。娘は120年の命を保った後、貴船の大明神になり、貴船神社は恋愛成就の願いをかなえる神社になったということです。

 貴船神社は実際、古くから恋愛成就の神社として知られています。そのきっかけは、平安時代中期の歌人・和泉式部が夫(藤原保昌)の気持ちを取り戻したいと願って百夜参りしたところ、願いがかなったからだそうです。和泉式部の「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」という名歌はここで詠まれました。平安ロマンの舞台です。

 この物語のあらすじは、室町時代中期の百科事典『壒嚢鈔(あいのうしょう)』(1446年)にも出てきます。「節分ノ夜大豆ヲ打事ハ何ノ因縁ゾ、是更ニ慥ナル本説ヲ不レ見、由來ヲ云人ナシ、但シ或古記ノ中ニ云、節分ノ夜大豆ヲ打事ハ、宇多天皇ヨリ始レリ、鞍馬ノ奧僧正谷、(以下略)」と。
 ここに出てくる「或古記」というのは、どんな文献のことか不明です。また節分の豆まきの由来について、確かな説がなく誰も知らないと書いているのも気になります。節分の豆まきをめぐり室町時代に何らかの動きがあったとしたら、『壒嚢鈔』の著者が知らないはずがないと思うのですが…。不審です。

 京都では、この物語に似た「深泥池の豆塚」の伝説が伝わっています(この「深泥池」の読みは「みぞろがいけ」と「みどろがいけ」の両方が通用しています)。
 深泥池は京都市街北方の上賀茂にある池(周囲約1.5km、面積約9ha)で、それより7kmほど北に鞍馬山があり、池の近くに深泥池貴船神社(貴船神社の分社)があります。ちなみに深泥池は現在、タクシー怪談の発祥地とされる心霊スポットです(タクシー怪談は東京の青山墓地が発祥地だという話もあります。詳しいことは知りません)。以下は深泥池の豆塚の伝説の要約です。
 深泥池のほとりに洞穴がありました。ある日、近くを通りかかった村人が、洞穴の中で2匹の鬼が村を襲う相談をしているのを聞きつけました。村の庄屋が貴船神社にお参りして訴えると、神のお告げがあり、洞穴は貴船神社の近くからつながっていて鬼の通路になっているので、出入口をふさげということでした。村人はお告げに従って柊鰯を家の戸口に挿し、鬼の嫌がる炒り豆を大量に用意しました。鬼が出てきて、鰯のにおいにつられて食いついたところ、柊の棘が目に刺さりました。村人は鬼に炒り豆を投げつけ、鬼が洞穴に逃げ帰ったところで、出口を豆でふさぎました。その上に土を盛って「豆塚」と呼び、また豆を入れた升を埋めた場所を「升塚」と呼ぶようになりました。

 今では豆塚の所在は不明ですが、昭和初期まで節分の日に豆塚の穴に豆を投げ入れる風習が残っていたそうです。その場所は深泥池貴船神社のあたりではないかと言われています。

 江戸時代前期の『日次紀事』や『都の手ふり』にはちょっと違う話が書かれていて、寛平年中(889~898年)に京の都で疫病が流行ったため、神託を受けて深泥池のほとりに貴船神社の神様を勧請し、みこしをかついで池をめぐり、升に入れた炒り豆をまいて疫鬼をはらい、残った豆や升を埋めた場所が「豆塚」「升塚」になったとしています。
 寛平年中というのは「貴船の本地」の物語の時期と重なります。お伽噺の鬼よりは疫病のほうが真実味がありますが、寛平年中には「新羅の賊」が対馬や九州に侵攻しているので、それ以前の目に見えない疫鬼ではなく、実体としての鬼の物語が生まれていてもおかしくはありません。それに比べると疫病は寛平年中に限らずしょっちゅうあり、八坂神社の祇園祭が始まるきっかけになった貞観11(869)年の大流行などが知られています。
 平安時代末期(12世紀半ば)に成立したと見られる『今昔物語集』や、鎌倉時代初期(13世紀前半)に成立した『宇治拾遺物語』には、実体としての鬼が多く登場します。平安時代の間に、現在の鬼のイメージにつながる基本的な鬼像ができ上がり、一般化したようです。

 ここまで、いずれも面白い話なので長々と書いてしまいましたが、これらの物語は、日本で生まれた鬼の物語に、節分の豆まきや柊鰯をうまく取り込んだという感じがします。

 …やっと山を越えました。次回は仏教寺院の修正会・修二会で行われる鬼追いについて考えます。

旧暦の大晦日と節分(4)

 前回の記事のつづきで、日本の「大儺・追儺」の話に入ります。この記事の中で掲載している図版はすべて国立国会図書館デジタルコレクションから転載したものです。

 遣唐使によって唐から日本に伝えられた「大儺」の形式は当然、唐の時代のものなので、日本の「大儺・追儺」は最初から大晦日の儀式として行われました。

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16012102 上の「追儺」の絵は、江戸時代末期の天保14(1843)年に描かれた『公事十二月絵巻物』の12月のものです。左から2番目の面をつけ矛と盾を持っているのが「方相氏」(右の拡大図参照)。その後方にいるのが「侲子」たちで、よく見ると赤い鉢巻をしています。
 この「方相氏」の姿は平安時代中期の『政事要略』の挿絵を写したものと思われ、内容的にも平安時代前期の「追儺」の様子を伝えていると思われます。追い立てられているのは目に見えない疫鬼です。鬼(に扮している者)はいないということを覚えておいてください。

 平安時代初期の「大儺」のマニュアルが、『内裏式』(821年成立)の「十二月大儺式」という項目に書かれています。この文章自体、唐の『通典』(801年成立)の「禮九十三・大儺」の文章とそっくりで、明らかに下敷きにしていることが分かります。それでも儀式の内容は日本式にアレンジした部分が見られます。原文は長いので省略しますが、その内容は…
 大晦日の夜、参加者が配置につき準備が整うと、「まつれ」という勅があり、儺人が紫宸殿の前庭に参入します。
 中務省に率いられた侍従、内舎人、大舎人らはそれぞれ桃の弓と葦の矢を持っています。陰陽師に率いられた齋郞が祭具を持っています。「方相氏」は大舎人の中から身体の大きな者が1人選ばれ、黄金四目の面をかぶり、黒と赤の衣裳を着け、右手に矛、左手に盾を持っています。官奴から選ばれた「侲子」20人は紺の布衣と赤い鉢巻を着け、整列します。
 齋郞が供え物をし、陰陽師が跪いて呪文を読みます。それが終わるとまず「方相氏」が儺声を発し、矛で盾を撃ち、これを3回行います。群臣がそれに唱和し、悪鬼を追って四方の門から出ます。宮城の門外まで来ると、京職が引き継ぎ、太鼓を鳴らしながら郊外まで追って終わります。

 これが『貞観儀式』(875年成立)になると、方相氏の面をつける者は「儺長」と呼ばれ、侲子は「小儺」と呼ばれて桃の弓、葦の矢、桃の杖、瓦のかけらを持ちます。また『貞観儀式』には供え物の内容や陰陽師が読む祭文の詞が書かれています。
 『延喜式』(927年成立)では、準備段階の手順から当日の動きまで、より詳細に書かれています。ただし供え物と祭文の詞は『貞観儀式』とまったく同じです。

 「旧暦の大晦日と節分(1)」の記事で書いたとおり、『日本三代實録』に858年から886年まで大晦日の「大儺・追儺」の記述がありますが、878年までは「大儺」と書いたり「追儺」と書いたり不統一で、879年からはすべて「追儺」になっています。このことに何か意味があるのかどうか、はっきり分かりませんが、「追儺」は中国にはない言い方で、この時期に儀式の日本化が進む中で「追儺」になったとする見方があります。ちなみに『内裏式』(821年成立)と『貞観儀式』(875年成立)の表記は「大儺」で、『延喜式』(927年成立)の表記は「追儺」「儺祭」「年終儺」です。

 平安時代中期(10世紀)に書かれた『西宮記』では、会場の飾り付けや参加者の配置がより細かく分かります。王卿などが桃の杖や弓、葦の矢を持って承明門の南東の壇上に立ちます。陰陽師が祭文を読む間、「方相氏」に供え物を饗します。いよいよ宮中から外に悪鬼を追い立てる段になると、王卿などが眷属を率いて四方の門に分かれて追います。

16012103 『西宮記』の少し後(11世紀初頭)に書かれた『政事要略』には、「方相氏」(右上)と「侲子」(下)と「疫鬼」(左上)の挿絵があります。ちょっと不思議なのは「方相氏」が右手に盾、左手に矛を持っていて、『内裏式』の記述と逆になっていることです。この理由は分かりません。
 また疫鬼は本来、目に見えない存在ですが、なぜ挿絵に描いたのでしょうか。もしかすると、疫鬼は「方相氏」とは別の存在である(つまり「方相氏」は鬼ではない)ということを分かりやすく示すためにわざわざ描いたのかもしれません。

 「追儺」は、平安時代中期(10世紀後半~11世紀前半)に書かれた『蜻蛉日記』『小右記』『源氏物語』『栄花物語』などの日記や文学作品にも、「儺やらひ」「儺やらふ」「追儺」などの表記で登場します。これらをみると、この時代には「大儺」ではなく「追儺」という表記が定着していることが分かります。また、この頃には貴族の家などでも「追儺」が行われています。
 『蜻蛉日記』の天禄二(971)年十二月には「人は童・大人ともいはず『儺やらふ儺やらふ』と騒ぎののしるを」とあり、京の都では大晦日の夜、大人も子どもも「追儺」の真似事をして騒々しくはしゃいでいた様子がうかがえます。また、こうした記述から、「方相氏」が上げる「儺声」の言葉は「おにやろう」だったものと思われます。

 その後、『古事類苑』に「中世以降其制漸ク頽レ」と書かれているように、時代が進むにつれて「追儺」の形式がだんだん崩れていきます。その時期は早く、すでに平安時代のうちに重大な変質が起き始めます。
 平安時代後期(12世紀初期)に書かれた『江家次第』には「殿上人長橋内ニ於テ方相ヲ射ル」とあります。また『永昌記』では、嘉承元(1106)年の大晦日の「追儺」の様子について、「方相氏陰陽呪了、經軒廊渡東庭、此間侍臣放矢儺之、即下格子、主上數度有仰、良久追之」(方相氏が陰陽の呪を終え、軒廊を経て東庭を渡った。この間、侍臣が矢を放ってこれを儺した。すぐ格子を下ろし、天皇が「よく久しく追えよ」と数度おっしゃった)と書いています。
 本来、疫鬼を追うリーダーだったはずの「方相氏」が、逆に鬼として追われ、弓で射られるようになってしまったのです。

 鎌倉時代末期(14世紀初期)の宮中の「追儺」については、後醍醐天皇が書いた『建武年中行事』に「大舎人寮鬼をつとむ。陰陽寮祭文をもちて、南殿のへんにつきてよむ。上卿以下これを追ふ。殿上人どもは御殿の方に立ちて、桃の弓、葦の矢にて射る。仙花門より入りて、東庭をへて瀧口の戸にいづ。こよひ所々にともし火をおほくともす。東庭、あさがれい、台盤所のまへ、みぎりに、燈臺をひまなく立ててともすなり」とあります。
 この本は、戦乱と朝廷分裂の混乱が続く中で、後醍醐天皇が宮中の年中行事を記録しておき、いずれ再興するつもりで書いたものと思われます。平安時代以来の「追儺」の形を受け継いではいますが、やはり大舎人が扮する鬼をみんなで追い払う行事になっています。

 平安時代後期から鎌倉時代にかけて、宮中祭祀の「追儺」が本義を失っていく一方、京の都の民間では大晦日の風習として定着します。鎌倉時代末期に書かれた『徒然草』の第19段には「追儺より四方拝に続くこそ、おもしろけれ。晦の夜はいたう暗きに、松どもともして、夜中過ぐるまで、人の門叩き、走り歩きて、何事にかあらむ、ことごとしくのゝしりて…」とあり、『蜻蛉日記』の頃と同様に、大晦日の夜中に人々が松明をともして走り回り、大騒ぎしていたことが分かります。

 また一方、平安時代後期に白河天皇の発願によって壬生寺の「節分会」が始まったとされています。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、大晦日の「追儺」が民間に広がって続いている一方、寺院の「節分会」が始まり、両者が並存していたことになります。

 南北朝時代も過ぎると平安時代以来の「追儺」はほとんど過去のものになり、「追儺」に対する認識もすっかりおかしくなっています。室町時代中期(15世紀初期)に書かれた『公事根源』では、「鬼ト云フハ方相氏ノ事也」と、「方相氏」の扱いが完全にはき違えた記述になっています。また少し後(15世紀中期)に作られた『下學集』(室町時代の国語辞典)では、「追儺」の説明が「節分ノ夜、禁中ニ於テ殿上侍臣桃ノ弓葦ノ矢ヲ以テ惡鬼ヲ驅ル、之ヲ追儺ト謂フ也」とあり、大晦日だったはずの「追儺」がいつの間にか節分の行事になっています。これは大晦日の「追儺」が室町時代中期にはもう宮中でも民間でも行われておらず、節分の行事に集約されていた証拠でしょう。
 また室町時代中期に書かれた『臥雲日件録』の文安4(1447)年12月22日には、「明日立春、故及昏景富毎室散熬豆、因唱鬼外福内四字」(明日は立春なので夕方、部屋ごとに炒り豆をまいて「鬼は外、福は内」と唱えた)とあり、すでに今と同じスタイルの節分行事が行われていたことが分かります。

 どうも南北朝時代前後に大きな変化があったのではないかという気がします。動乱に続き、室町幕府という武家政権が京を支配したために、多くのことが変わったのではないでしょうか。

 応仁の乱(1467~1477年)の後、戦国時代初期に公卿の中御門宣胤が書いた日記『宣胤卿記』では、明応元(1492)年12月に「追儺(此年再興)」とあり、宮中で「追儺」の再興を試みたこともあったようです。しかし、「旧暦の大晦日と節分(1)」の記事で書いたとおり、宮中の大晦日の「大祓」もこの時期に途絶えたとされており、宮中の「追儺」もあわせて途絶えたのでしょう。

 戦国時代も過ぎて江戸時代になると、冬の節分に豆まきをしたり柊の枝に鰯の頭をつけて戸口に立てる風習が全国各地の民間に広がりました。これは江戸時代に入って伊勢暦などが広く普及し、それにその年の恵方や二十四節気などが載っていたため、暦と年中行事の知識が津々浦々に行き渡ったからではないかと思います。
 「追儺」は現在の宮中祭祀にはありません。各地の神社のなかには冬の節分に合わせて追儺神事を行っているところがあり、古式にのっとって桃の弓で葦の矢を放ち疫鬼を追い払う追儺式(鬼やらい神事)を行っている神社もあります。

 …追儺の話はひと区切り。次回の記事では節分の豆まきの由来について考えます。

 きょうは大寒。平安時代なら京の都の12の門に「土牛童子」が立っていますね。

旧暦の大晦日と節分(3)

 前回の記事のつづきで、やっと本題の「追儺」の話に入ります。

 「追儺」の儀式に登場する「方相氏」の起源は古代中国王朝・周(紀元前11~紀元前3世紀)の官職で、『周礼』(夏官司馬)に「方相氏掌蒙熊皮黃金四目玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隸而時難、以索室驅疫。大喪、先柩及墓入壙、以戈擊四隅驅方良」(方相氏の仕事は、熊の皮をかぶり、黄金四目の面、黒い衣・朱の裳を着け、矛をとり盾をあげ、百人の従者を率いてなやらいし、部屋をさぐり疫気をはらう。大喪の際には、柩の先にたって墓まで行き墓穴に入り、矛で四隅を撃って魍魎をはらう)とあります。
 さらに中国の伝説の時代までさかのぼると、黄帝の2番目の妃だった嫫母が「方相氏」の元祖とされています。唐の時代に書かれた『琱玉集』によると、嫫母はたいへん醜く色黒だったが、徳があったので黄帝が妃に迎えました。さらに『軒轅本記』(軒轅は黄帝の名)によると、黄帝が旅をしている時、第1妃の螺祖が道で死に、黄帝はこれを祖神として祭り、蟆母に守らせたのだそうで、そこから摸母をもって方相氏となすとしています。この伝説から、周の官職としての「方相氏」は時儺と墓穴祓いの2つの役割を持ったわけです。

 上記の『周礼』の記述から、すでに周の時代に「時儺」(後の大儺、日本の追儺)の儀式が確立していたことが分かります。では、その「時儺」の起源は何かとなると、中国の研究者の間でも説が分かれていてはっきりしません。原始時代までさかのぼりそうな話で、おそらく究明することは不可能でしょう。

 「儺」は『論語』にも出てきて、「郷党」編に「郷人儺、朝服而立於阼階」(村人のなやらいには、正装してきざはしに立つ)とあり、春秋戦国時代(紀元前7~紀元前3世紀)にはすでに宮廷だけでなく地方の村々でも行われる儀式だったことが分かります。ちなみに孔子のこの行動の意味については、霊廟の祖先の霊を守るという解釈と、村の祭祀をうやうやしく迎えるという解釈と、2つの説があります(考えようによっては、この2つは両立します)。
 なお『周礼』や『礼記』の文字は「難」、『論語』の文字は「儺」になっていますが、中国の文献でこの儀式に「儺」の文字をあてたのは『論語』が最初だそうです。その後は一般に「儺」の文字が使われるようになっています。

 秦や漢の正史には「儺」に関する記述はありませんが、同種の儀式はあったと考えられています。
 5世紀になってから書かれた『後漢書』(志―禮儀・中)では、後漢の時代(1~3世紀)の宮中儀式として「大儺」が登場します。
 原文は省略しますが、その形式は、まず侍従が扮する「方相氏」と「十二神獣」、120人の「侲子」(10~12歳)が宮中の悪鬼を追い立てます。皇帝が前殿に入ると、「侲子」が儺の詞を唱和し、「方相氏」と「十二神獣」が舞い、それから大声を上げてあたりを3回めぐり、松明を持って疫を送り門から出ます。門の外で武官が松明を取り次ぎ、水中に捨てます。各役所では獣の面をかぶらせて儺人とし、終わると、桃梗(桃の木に吉祥の文字を記した札)、鬱儡(鬼門を守る神)、葦茭を飾りました。公、卿、将軍などには葦の戟と桃の木を賜いました。
 ここでは周の時代からの「方相氏」による疫払いの形式を踏襲しつつ、「侲子」による鬼払いの言葉の唱和や「十二神獣」の舞が加わっています。これらは現在まで中国各地の民族に伝承されている「儺戯」(仮面劇)の源流と考えられています。また門に「桃人」や「葦索」を飾る風習の始まりが見られます。

 『後漢書』によると、後漢の時代に「大儺」が行われた日は「先臘一日」(臘の前日)となっています。「臘」というのは猟の獲物を祖先や神々に供える祭りで、冬至の後、第三の戌の日に行いました。ここから旧暦12月のことを「臘月」ともいいます。「臘」の日は早くて冬至の25日後、遅くて36日後にあたり、大寒の前後数日以内になります。それなら大寒の日と決めておけば良さそうなものですが、戌の日ということに意味があったのでしょう。
 ちなみに現在の中国では旧暦12月8日が「臘八節」となっており、この日を「臘日」とか「臘八」と呼んで「臘八粥」を食べます。これは仏教の行事で、南北朝時代の南朝の宋(5世紀)で広がったとされ、もともとの「臘」の日とは違います。
 前回の記事で書いたとおり、周の時代には3月の「国儺」、8月の「天子の儺」、12月の「大難」と年に3回の「儺」がありましたが、時代が前漢から後漢へと進むと、疫鬼をはらって新年を迎える意味をあわせて12月の「大儺」が特別に重視されるようになりました。この時期に「卒歳大儺」という言葉も現れました。

 三国時代から南北朝時代にかけて(3~6世紀)、「大儺」の扱いは国ごとにまちまちで、多くの国で宮廷の「大儺」は廃れました。
 一方、民間では広がり、仏教と混合したり、儺を生業とする人々が現れるなど、さまざまなバリエーションが生まれました。例えば、南朝の梁の時代(6世紀)に書かれた『荊楚歲時記』には「十二月八日為臘日。諺語『臘鼓鳴、春草生』、村人并擊細腰鼓、戴胡公頭及作金剛力士以逐疫」(12月8日を臘日という。諺に「臘鼓を鳴らせば春草生ず」といい、村人はみな細腰鼓を打ち、胡公頭という帽子をいただき、金剛力士の格好をして疫を払う)とあり、仏教の守護神である金剛力士が疫払いをするなど、仏教と儺の混合が見られます。

 唐の時代半ばに書かれた『通典』(801年成立)には、周、後漢、北斉、隋、唐の各時代の「大儺」について順を追って書かれています。周と後漢は上に書いたとおりです。
 南北朝時代末期の北斉(6世紀)で、ついに「大儺」が大晦日の行事になりました。後漢に始まる年越し重視の流れですが、ここで初めて、日本で大晦日に「大儺・追儺」を行った理由につながるものが現れるわけです。
 北斉の「大儺」の形式は、後漢のように「方相氏」、「十二神獣」、「侲子」(240人に増えている)が登場しますが、松明を持つことはなく、「方相氏」と「十二神獣」の舞の後、鼓を打ち鳴らしながら南門を出て、そこから6方面に分かれて城門から郭外に出て終わります。

 隋の時代は『礼記』(月令)の古式に戻ったようで、年3回の「儺」を行い、まず「季春晦、儺、磔牲於宮門及城四門、以攘陰氣」(3月の晦日、なやらいし、宮門と城門に牲を磔し、陰気をはらう)、次に「秋分前一日、攘陽氣」(秋分の前日、陽気をはらう)、そして「季冬旁磔、大儺亦如之(略)」(12月、方々に磔し、また大儺…)となりました。
 12月の磔としては、各門にオヒツジとオンドリを磔したと書いてあります。「大儺」の形式としては、「十二神獣」が登場しなくなり、かわりに鼓と角が各10人となりました。あらかじめオンドリ、オヒツジと酒を用意し、門のところに穴を掘っておきます。「方相氏」が矛と盾を持ち、大声を上げ鼓を打ち鳴らしながら分かれて城門に向かいます。門に牲を磔し、酒ではらった後、牲と酒を埋めます。ここでは「磔」が「大儺」の儀式の一部になっています。

 唐の時代には北斉と同じように大晦日に「大儺」を行うとともに、州や県でも「儺礼」を行いました。そのやり方は『大唐開元礼』(732年完成)に細かく書かれています。
 「侲子」(12~16歳)は面をつけ赤い衣と袴で24人を1隊とし、6人を1グループにします。「執事」12人は赤い頭巾とひとえの衣で杖を持ちます。「方相氏」は黄金四目の面をつけ、熊の皮をかぶり、黒と赤の衣裳をつけ、右手に矛、左手に盾を持ちます。「唱帥」は面をつけ、皮衣を着て棒を持ちます。鼓と角が各10人で、合わせて1隊とします。これで宮中の悪鬼を追い出します。
 役人が門ごとにオンドリと酒を用意し、城門に磔禳します。
 內侍が皇帝のいる御殿の前で開始を呼びかけると、「方相氏」が矛と盾を上げ、「唱帥」が「侲子」を率いて儺の詞を唱和します。大声を上げ、鼓を打ち鳴らしながら出て、諸隊は順天門(宮城の南の門)から分かれて城門まで行き郭外に出て終わります。

 この後の中国の儺については簡単に書きますが、宋の時代には「方相氏」も「侲子」もなくなって大勢で仮面をつけて練り歩く行事になり、元は儺の儀式を行いませんでした。明の時代の中期に宮中の儺が復活しますが衰退し、清も儺の儀式は行いませんでした。民間の儺の習俗は清の時代まで続きますが、それも清代末期の戦乱の中で衰退したということです。

 日本の「大儺・追儺」は遣唐使によって唐から伝えられたものがもとになっており、そのおかげで古代中国からの流れを汲む「方相氏」や「侲子」が登場する形式になりました。

 …やっと本題に入ったのですが、中国の話だけでかなり長くなってしまったので、中国の話と日本の話に分けます。日本の話は次回の記事で。