ジャガイモ収穫、そして夏野菜の季節

17071001 7月初めの梅雨の晴れ間、ジャガイモを収穫しました。1.5坪ほどの小さなジャガイモ畑ですが、コンテナいっぱいの収穫がありました。
 わが家ではジャガイモは春のお彼岸に植えると決めています。春一番の畑作業です。だいぶ暖かくなり、その頃にはもう芋からかなり芽が伸び始めています。
 今年はその後、4月が低温、6月が空梅雨で、あまりよく育ちませんでしたが、収穫はまあまあ。先に枯れ上がった茎と葉を片付け、畝を掘り起こすと、ごろごろと芋が出てきました。楽しい収穫です。

 大きなものは大人のこぶしより大きくなっています。小さなものは直径3cmに満たないものもありますが、残らず収穫します。小さな芋には大事な使い道があります。
 小さな芋は、まず茹でて皮を剥き、それからフライパンで味噌をからめながら炒めます。簡単にできて、これが絶品。ビールにも日本酒にも合います。それも掘りたての新ジャガなので、もう最高です。大きな芋を茹でて皮を剥いてから小さく切っても同じようなものができる訳ですが、真ん丸の小さな芋で作るほうがおいしいのです。

 下の写真は、まかぬ種(畑に埋めた生ゴミ)から生えたカボチャ。うちの畑はなぜかカボチャがよく育ち、大きな葉が生い茂ってたくさん実がなります。
 他の夏野菜も、6月後半に気温が上がって雨も降ったおかげで、やっと元気に育ち始めました。キュウリは採れ過ぎても困るので3本しか植えていませんが、もう毎日2~3本採れます。多くの家が家庭菜園を持っているので、この辺では夏になるとスーパーのキュウリは1本10円になります。
 ナスもトマトもピーマンも採れ始め、里芋、ニンジン、トウモロコシ、枝豆も順調。スイカも実がつきました。

小梅を漬ける

17052501_2 茶摘みが終われば梅取りの季節です。この地域で多く作られているのは小粒品種の竜峡小梅で、もっぱら梅漬けにします。よくコンビニの弁当に入っている、あれです。

 わが家の庭には1本あるだけですが、それでも毎年、数kgの実がなります。今年は4kgほど収穫。そこから鳥につつかれて傷がついたり、小さ過ぎる実はよけて、2kgを使用。1.5kgをカリカリ漬け、残り0.5kgを梅酒にしました。

 出来上がりが楽しみです。

鉄板で製茶してみる

 長野県南端、静岡県境の天龍村と遠山郷(飯田市上村・南信濃)はお茶の産地です(あと県内では木曽谷も)。気候が温暖で向いていることに加え、傾斜地を有効に活用できるので、昔から多く作られてきたのでしょう。天竜川を眼下に見下ろす天龍村中井侍地区の急傾斜の茶畑がよく新聞やテレビのニュースに取り上げられます。

 このあたりで茶摘みが始まるのは例年5月の大型連休の後半くらいからで、だいたい八十八夜(立春から数えて88日目、今年は5月2日)の後になります。今年は3~4月の気温が低かったために若葉の生育が遅れ、5月中旬からになりました。

17051501 これらの地区から外れた飯田市中心部あたりでもお茶が作られていることがあり、小さな茶畑も見られます。わが家では茶畑はありませんが、生け垣の一部がお茶の木で、自家用の足しにするくらいの葉は摘むことができます。以前は20kg以上の生葉を摘んでいました。高級品を作るなら本当に若い芽だけを摘みますが、自家用で品質は二の次なので、そこそこ大きくなった若葉を摘みます。

 茶摘みはいいとして、問題は製茶です。以前は近くに製茶工場があり、そこに持ち込んで製茶してもらったのですが、何年も前に閉鎖してしまい、その後は車で1時間ほどかかる遠山郷の製茶工場に持ち込んでいました。それも面倒ということで、この2年ほどは茶摘みをしなかったのですが、今年は4kgほど摘んでみました。さて、それをどうしたものか。思い切って自家製茶をやってみることにしました。失敗しても元々ですから…

 ホットプレートで製茶できるという話はネット上で知っていて、やってみたことがあります。しかし4kgという量になると、少量ずつに分けたとしてもホットプレートではやり切れません。
 そこで「なんちゃって焙炉」を作ることにし、フレームに金網を張り、その上に紙を張って、下でストーブをたいて製茶してみました。何しろ初めてで、知識も技術もないのだから、上手くいくわけがありません。それでも、それなりにお茶のようなものはできました。
 技術以前の失敗が2つ。1つは生葉を長く蒸し過ぎたこと。もう1つは製茶の温度が少し高過ぎたこと。これらは調整すれば解決できそうです。やってできないことはないでしょう。

 しかし、1回ごとに紙を張り替えなければならないことに気がついて、面倒になりました。それに何より、このやり方は危険です。ストーブの上方は十分に物が燃える高温です。茶葉が湿っているうちは燃えませんが、からからに乾いた状態になればあっという間に火がつきます。洗濯物をストーブの上で乾していると火事になるのと同じです。危険なのでこの方法はお勧めしません。

 他に方法がないかと考えた結果、ホットプレートでできるのなら鉄板でもできるだろうと考え、安直にフレームの上に焼肉用の大きな鉄板を置いて製茶してみることにしました。
 …その結果、上手くいきません。香り高い煎茶などはとても無理。何とかできたとしてもせいぜい、ほうじ茶のようなものが関の山です。もちろん鉄板の温度や技術などの問題はあるでしょうが、それだけではない感じです。型枠に和紙を張った伝統的な焙炉がいかに優れた道具なのか、思い知る結果になりました。

 この地域では昔は製茶も多くの家で行われていました。和紙を張った焙炉を使う手揉み製茶です。この地域では昔は和紙も炭も多く作っていたので、みんな地元産で間に合っていたわけです。
 母の話によると、母の父は手揉み製茶が上手だったそうです。残念ながら母はその技術を受け継いでいないので、どんなやり方をしていたか分かりません。道具も残っていません。焙炉が残っていれば良かったのですが、残念です。

飯田の桃の節句は月遅れ

 3月21日午前、全国(沖縄などを除く)で最も早く東京都心で桜(ソメイヨシノ)の開花が確認されました。きょうは24日。そろそろ九州や東海からも開花便りが届くのではないでしょうか。
 東京の開花は平年より3日早かったということです。気象情報各社の予想はおおむね23~25日だったので、予想より早い開花でした。東京が全国トップだったのは9年ぶりですが、9年前(2008年3月22日)は熊本、名古屋、静岡と同日で、東京単独のトップはあまりないと思います。開花の平年値が早いのは四国の高知(3月22日)、九州の熊本(3月23日)、福岡(同)、東海の静岡(3月25日)など。九州~東海の開花は平年並かやや遅くなりそうですが、3月末までに九州~関東南部の多くの地域で開花することでしょう。
 東京で21日に開花したのは、全国的に見ても特異的に早かったと言えます。…というか、都心の気象はかなりおかしくなっていると思います。

17032401 飯田の桜の開花予想(日本気象協会3月23日発表)は4月5日。3月初めの予想は4月1日でしたが、だんだん遅くなりました。平年値は4月4日ですが、近年は3月下旬に開花することが多く、今年は1週間~10日ほど遅い感じです。

 さて、今回は桃の節句の話。飯田周辺では桃の節句は月遅れで4月に入ってから祝います。実際、桃が開花するのはちょうどその頃になります。この地域は果樹産業が盛んで、桃も名産の一つ(味は他の有名産地に負けない自信があります)。4月初め、山里の桃園がピンクに染まる光景はなかなかきれいです。

 例によって東アジア古来の暦法の考え方に従い、立春(今年は新暦2月4日)を元日と考えると、桃の節句の3月3日は新暦4月6日にあたります。4月3日とは3日ずれますが、例年まさに桃の花盛りの頃で、月遅れの考え方は日本の実際の四季の移り変わりとかなりマッチしています。
 この月遅れの桃の節句に合わせ、飯田市~阿智村~平谷村~根羽村~愛知県豊田市稲武・足助地区の国道153号沿線では「中馬ぬくもり街道ひな祭り」というイベントが行われ、観光施設や商業施設でひな人形の展示が行われています。長野県の入口にあたる根羽村の「ねばーらんど」では、通路に「二千体吊るし雛」(右の写真)が飾られています。

17032402 このイベントの他にも各地にひな人形が飾られています。『「おんな城主 直虎」亀之丞の潜伏地』の記事で紹介した高森町の歴史民俗資料館「時の駅」でも、例年この時期に企画展「ひな人形と美人画」(左の写真)を行っています。
 この資料館では、町の古墳から出土した日本最古の貨幣「富本銭」などを展示しています。また現在は大河ドラマ「おんな城主直虎」関連で、追っ手を逃れてこの地で成長期の12年を過ごした亀之丞(井伊直親)のゆかりの品も展示しています。開館日や入館料などについては高森町歴史民俗資料館「時の駅」ホームページでご確認ください。

 ところで、ひな人形を飾る時に迷うのが男雛と女雛の左右。「時の駅」の展示を見ていたら、「現在はどちらでもいい」と書いてありました。
 ひな人形には「左近の桜」と「右近の橘」もありますが、これはお内裏様から見た左右なので、「左近の桜」を向かって右、「右近の橘」を向かって左に飾ります。京都市の左京区、右京区が地図で見ると左右逆になっているのと同じで、これらの左右は明確ですね。では男雛と女雛はどうなるのでしょう。

 日本では古来、左が上位(例えば左大臣と右大臣なら、左大臣のほうが上位)なので、元々は男雛が左(向かって右)、女雛が右(向かって左)でした。では女帝だったら逆かという話はおいといて…
 それが左右逆になったのは明治時代になってから。西欧で国王と王妃が並ぶ時は、日本古来とは逆に、国王が右(向かって左)、王妃が左(向かって右)に並ぶことになっていて、明治天皇と皇后が写真を撮る時、その西欧式にならった並び方をして、それが全国に広まったと言われています。

 そういう経緯で、全国的には近代式で男雛を向かって左に飾るのが一般的になりました。しかし京都は今も古式で、男雛を向かって右に飾るそうです。そんなふうに国内に両方の飾り方が混在しているので、現在は「どちらも正しい」ということになっているようです。
 地域のほか、家庭によっても飾り方が違うかもしれませんね。みなさんのご家庭はいかがでしょうか。

 次回は飯田の桜を紹介します。

梅の花が咲きました

17021001 日本海側は大雪で荒れ模様だそうですが、飯田周辺は日の出ころに雪があがり、青空が広がりました。その青空の下、梅の花が咲きました。
 昨冬は暖か過ぎて梅の開花が異常に早く、12月末のクリスマスの頃に咲き始めていました。そんな年は初めてでした。今年は1月下旬からツボミがふくらんできましたが、なかなか咲かず、開花は2月上旬の終わり頃となりました。
 梅と同時に、ロウバイの黄色い花もちらほら咲き始めています。

 梅の花を見た後、足元に目を向けると、けっこう緑の草が増えており、小さな花もちらほら。右下の写真はホトケノザ。食用になる春の七草のホトケノザ(キク科のコオニタビラコ)ではない方の、食用にならないホトケノザ(シソ科)ですね。この季節にはよく目に付く花です。しばしば雪をかぶっていたせいか茎が寝ているので、ホトケノザらしく見えませんが…

 周囲には春の七草のナズナやハコベ、セリもあります。1月7日には小さくてみすぼらしい姿でしたが、ずいぶん立派になりました。
 考えてみると、立春(2月4日)が年の始まりの元日だと思えば、今日(2月10日)が七草の日ということになります。青みを増して元気に伸びている春の七草を見ると、今日こそが本当の七草の日、まさに暦どおりなのだと思いました。

11月過去最高の積雪

16112401 朝起きたら、外が真っ白。今季の初雪がいきなりの大雪です。飯田で午前9時の積雪が14cmだそうで、11月の最深積雪としては統計開始以来の最高記録を更新しました。東京都心でも11月の初雪は54年ぶりで、11月としては統計開始以来初めての積雪になったそうですね。
 南岸低気圧の東進に北からの強い寒気の南下が重なる、春先に多いドカ雪パターン。秋に起きてもおかしくない気がしますが、実際はあまりありません。南岸低気圧は珍しくないので、この時期に北の寒気が暴れ出したことが珍しいのでしょう。
 飯田で11月の初雪は珍しくありませんが、多くの年は雨にみぞれが混じる程度で、ほとんど気づかず、もちろん積雪にはなりません。こんな積雪は生まれて初めて…と思ったのですが、調べてみたら、私が生まれた年の11月に8cm積もった記録がありました。覚えていません(当たり前ですね)。小学生の時にも数cm積もった記録が2回あるのですが、これも覚えていません。子どもの頃のことだから、これが珍しいことだという認識がなかったのでしょうね。その後も何度か積雪の記録がありますが、飯田で11月に1cm以上の積雪があったのは1983年(11月18日に1cm)以来で、33年ぶりでした。

 気象庁の観測データだと、飯田では午前5時前から積もり始め、5時に2cm、7時に8cm、9時に14cmとなっているので、夜が明ける頃から一気に積もった感じです。
 わが家では、池の鳥除けに鉄パイプ(ビニールハウス用)を渡して網をかぶせ、三角テントのようにしてあるのですが、網に着いた雪の重みで鉄パイプがぐわーんと40cmくらいたわみました。冬のさらさら雪でなく水気の多い重い雪で、その上に雪とみぞれが交互に降ったので、重くなったのは当然。ざっと100kg以上の荷重があるのでしょうか。電線が切れるというのも分かります。着雪おそるべし。

 飯田では降雪らしい降雪は午前9時過ぎには収まり、その後はみぞれになったり細雪に戻ったり。屋根や露地は真っ白ですが、道路や樹上に積もった雪は昼頃にはかなり消えました。

彼岸花が咲きました

16091701_2 きょう彼岸花が咲きました。あさってが秋の彼岸入り。ほぼ暦どおりです。夏の間は影も形もないのに、秋に入ると芽が出て一気に伸びて、花が咲きます。あたり一面を真っ赤に染める景色も、またひっそりと数本だけ咲く景色も、どちらも味わいがあります
 「暑さ寒さも彼岸まで」。あるいは「暑さ寒さは彼岸まで」。厳しい残暑も、秋の彼岸を境に一段落します。この言葉、ほとんど外れる年はありません。

  ☆  ☆  ☆

 秋の彼岸は、秋分の日を中日とする7日間。今年は秋分の日が9月22日なので、秋の彼岸は19~25日になります。
 秋分の日は年によって9月22日から24日の間で変動しますが、23日の年が多く、22日は少なく、24日はかなりまれ。うるう年だと22日になりそうな気がしますが、そうとも限らず、2012~2096年のうるう年の秋分の日は22日(2020年以降は見込み)ですが、1900~2008年はうるう年でも23日でした。4年前の2012年には、1896年以来116年ぶりに22日が秋分の日になったということで、ちょっとした話題になりました。
 なお春分の日、秋分の日は、毎年2月はじめに国立天文台が翌年の日付を発表して、そこで初めて正式に分かります。地球の動きには変動があり、何年も先のことは計算通りになるかどうか分からないというわけです。

あす中秋の名月、今夜は待宵

16091402 今年はあす9月15日が中秋の名月(旧暦8月15日)。その前日の今夜は待宵となります。朝からずっと曇っていましたが、夜になってから晴れてきて、風で流れる雲の合間に待宵の月が顔を出しました。写真は午後7時過ぎの待宵の月です。

 「信濃では月と仏とおらがそば」。小林一茶の句として一般に知られていますが、実際は一茶の句ではなく(全集に入っていません)、明治時代に柏原(一茶の出身地、現信濃町)で酒造をしていた中村家の中村六郎という人が作って広めたものだそうです。(参考:国立国会図書館レファレンス協同データベース
 それはさておき、信州には昔から有名な観月の名所があります。まずは姥捨山(千曲市)の「田毎の月」。長野自動車道姥捨SAから見える棚田をご存知の方もいらっしゃると思いますが、姥捨山の長楽寺やその隣の観光会館から見ると、小さな谷川を隔てて東南東方向の小高い丘の斜面に棚田が広がり、その奥、千曲川を隔てた鏡台山から月が昇ります。田植えのために棚田に水が張られる5月下旬~6月には、その水面に月が映り、「田毎の月」と呼ばれます。中秋の名月の頃はちょうど稲刈り前後で、田毎の月は見られません。
 更科(更級、さらしな)・姨捨は平安時代ころから観月の名所として知られ、古い和歌にも多く詠み込まれています。その発端が古今和歌集の次の歌。

 わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て  (詠み人知らず)

 この歌を取り込んで作られたのが大和物語の「姨捨」。更級にある男がおり、若い頃に両親が死に、おばが男の面倒をみて親子のように暮らしていた。ところが男の妻がこのおばを嫌い、山に捨ててこいとうるさく男をそそのかした。男は月の夜、寺でありがたい法会があるからとだましておばを背負って連れ出し、山の上において帰ってきた。しかし男はおばと親子のように暮らしてきた日々を思い出して悲しみ、山の上に明るく出ている月を見ていると心が痛んで寝られず、また山へ行っておばを連れ帰ってきた。その後、この山を姥捨山と呼ぶようになった―。
 これが姥捨説話の原形で、後世、年寄りを捨てたのは殿様の命令だったといった変形バージョンが出てきますが、原形では、姥を捨てた原因は嫁姑の人間関係で、棄老や口減らしなどではなかったということは覚えておいてもいいでしょう。
 この古今和歌集と大和物語を踏まえ、その後、多くの和歌がつくられていきます。

 更級や昔の月の光かはただ秋風ぞ姨捨の山  (藤原定家)
 あやしくもなぐさめがたき心かなをばすて山の月も見なくに  (小野小町)
 君が行く処ときけば月見つつ姨捨山ぞ恋しかるべき  (紀貰之)
 隈もなき月の光をながむればまづ姨捨の山ぞ恋しき  (西行)

 歌人のビッグネームがずらりです。面白いのは、たいがいの歌人が実際に姥捨山に来て月を見ているわけではなく、遠い都かどこかにいて、話に聞く姥捨山の月を恋しがっていることろです。
 その後、江戸時代中期になり、実際に更科・姥捨に来て、ここを全国を代表する観月の名所として決定付けたのが松尾芭蕉の「更科紀行」です。

 俤(おもかげ)や姨ひとり泣く月の友  (松尾芭蕉)
 十六夜もまだ更科の郡かな  (松尾芭蕉)

 1句目、芭蕉は山に捨てられた伝説の姥の姿をしのびつつ、しみじみと中秋の名月をながめています。2句目、芭蕉は名月の次の日もまだ更科を立ち去りがたく、十六夜を迎えています。
 これ以後、更科・姥捨は多くの文人墨客が訪れる地となり、今では「俳諧の聖地」といわれています。

 こうした歴史にちなみ、千曲市観光協会は毎年、中秋の名月の時期にあわせて「信州さらしな・おばすて観月祭」を開催しています。今年は第33回で、開催期間は中秋の名月の9月15日から後の月・十三夜の10月13日まで。9月17日には全国俳句大会があります。詳しい情報は千曲市観光協会ホームページで。

 北の姥捨山ほど有名ではありませんが、信州南部の観月の名所としては園原の里(阿智村)があります。古代東山道が通っていた場所で、東国から西へ向かう防人や多くの旅人が通り、日本武尊が越えた神坂峠、源氏物語で有名な箒木(ははきぎ)などがあります。この園原の里の中央にある月見堂は、伝教大師が建てた広拯院の跡地と言われ、多くの文人が訪れて月を愛でてきました。

 「三日月の頃より待ちし今宵かな」。昔の人は旧暦8月に入ったばかりの頃から、十五夜の名月を楽しみに指折り数えて待ちました。名月の前夜が待宵です。そして名月の後も、何日も秋の月を楽しみました。名月の翌日は十五夜より少し遅く昇る十六夜(いざよい)の月、2日後はまだ立って待てる立待月、3日後は座って待つ居待月、4日後は寝転んで待つ寝待月・臥待月、5日後はもう夜更けになってから昇る更待月となります。

 中秋の名月のことを芋名月ともいい、里芋などを供えます。これに対し旧暦9月13日の後の月・十三夜のことは栗名月・豆名月といいます。今年の十三夜は10月13日になります。
 さらに旧暦10月10日が十日夜(とおかんや)で、古来、東日本では収穫祭にあたる行事を行います。今年は11月9日になります。十日夜も新暦では早いと11月初め、遅いと12月上旬と1か月も違いますが、だいたいの年は立冬を過ぎているので、季語としては初冬。実感としては晩秋と初冬の境目あたりで、もう夜寒の季節になります。

 …忘れるところでした。小林一茶は名月の句をたくさん残しています。いくつか紹介します。1句目、姥捨山の月こそが「名月の中の名月」として扱われていることが分かります。

 けふといふ今日名月の御側哉  (長年願っていた姥捨山での観月が実現して)
 山里は汁の中迄名月ぞ
 名月や西に向へばぜん光寺
 ふしぎ也生れた家でけふの月
 有合の山ですますやけふの月
 名月や生たままの庭の松
 小言いふ相手もあらばけふの月

 このところ秋雨前線の影響で天気がぐずつき、明日も西日本では曇りや雨になりそうですが、東日本を中心に夜には晴れて名月を見られる場所がありそうです。
 もっとも、曇って名月が見えない「無月」や雨の夜の「雨月」も俳句の季語で、名月を何日も前から心待ちにし、当夜は無月や雨月でさえも心で愛でるというのが日本の風流のたしなみです。

  ☆   ☆   ☆

 追儺の話から始まって節分や七夕の時にも暦の話を書いたので、中秋の名月についても少しだけ。例によって、参考サイトは国立天文台の暦計算室です。

 「中秋の名月」とは旧暦8月の十五夜、つまり旧暦8月15日夜に昇る月のこと。「旧暦8月」の定義は「旧暦で秋分の日を含む月」なので、「中秋の名月」は「旧暦で秋分の日を含むの月の15日の夕方に昇る月」ということになります。
 中秋の名月は、新暦では年によって日が変わります。秋分の日は新暦9月22~24日なので、新暦で中秋の名月が最も早いのは、9月22日が秋分の日で旧暦8月30日にあたる年で、9月7日になります(直近は2052年)。一方、最も遅いのは、9月24日が秋分の日で旧暦8月1日にあたる年で、10月8日になります(直近は1938年)。
 最も早い年や最も遅い年は滅多に現れませんが、早い年は9月上中旬、遅い年は10月上旬で、1か月くらい違います。暑さ涼しさやススキの姿など、年によってかなり違い、今年のススキの穂はまだ若く、花が咲きかけたところです。旧暦と新暦のずれはおおむね19年周期で一巡するので、中秋の名月の時期もだいたい19年周期で繰り返します。

 なお中秋の名月は暦の上で旧暦8月15日の夜に昇る月のことであって、その月が天文学上の満月にあたるとは限りません。満月というのは、地球から見て太陽と月が180度正反対の方角にある瞬間のことで、月齢いくつの時と決まっているわけでもなく、また必ずしも日本から月が見える時刻でもありません。今年の満月は17日午前4時過ぎで、日本では16日夕方に昇った月が沈みかける頃になります。

 「中秋の名月」に「仲秋の名月」の字をあてることもあります。上記の国立天文台サイトでは「仲秋は陰暦8月全体を指しているので仲秋の名月とは言いません」と書いてありますが、これは間違いです。言葉の定義をはっきりさせて明確に区別したがるのはいかにも理系的ですが、実際の言葉の意味はもっとあいまいで、一般に広く通じているものなら何でも正しい用法として扱います(本来は間違いだったとしても)。それに、そもそも単に「名月」といえば、それは旧暦8月15日の月のことだと決まっているので、その前に「中秋」を付けようが「仲秋」を付けようが意味は変わりません。だから「仲秋の名月」も間違いではありません。

 太陽や星と違って、月は地球の周りを回っているため、月の出の時刻は1日ごとに平均50分くらいずつ遅くなります。この遅くなり方は季節によって違い、春は1日で1時間以上も遅くなりますが、秋は40分ほどしか遅くなりません。それでも中秋の名月が夕方昇るのに対し、1週間後の月の出は真夜中になります。観月を目的に観光地を訪れる方はご注意を。

夏ひと区切り、秋祭り花火シーズンへ

16081901 昨夜、高森町の天竜川で市田灯籠流し大煙火大会が行われました。16日には飯田市の天竜川で飯田時又灯籠流し花火大会もありました。盆が過ぎ、この2つの灯籠流し花火大会が終わると、飯田の夏はひと区切り。まだまだ秋の彼岸まで残暑厳しい日は続きますが、風の中に秋の気配が感じられるようになり、一歩ずつ秋が進み始めます。右の写真は市田灯籠流し大煙火大会です。

 飯田周辺地域は花火が大好き。7月から10月にかけて、各地のイベントで、また神社の夏祭りや秋祭りで、どこでも花火がメインの出し物になります。伝統芸能の村歌舞伎や人形浄瑠璃もかつてそうでしたが、それぞれ自前のものを持って自分たちでやるのがこの地域の1つの特徴です。
 7月から8月上旬までは各地で祇園祭り、地域の夏祭り、神社の夏祭りが続きます。8月の盆(13~15日)には連日、小さな村の夏祭り、花火イベントが続きます。それは盆に帰省する村出身者が多いからです。同じ理由で、この地域の14市町村のうち半数の7町村は盆に成人式を実施しています。
 これらの花火イベントも、時又と市田の灯籠流しが1つの区切り目。8月20日から各地の神社の秋祭りシーズンに入ります。

 神社の秋祭りでは、打ち上げ花火のほかに大三国花火が大きな呼び物になります。これは三河から伊那谷にかけて多く見られる花火で、筒の先から激しい火花が噴き出し、あたり一面に舞い散ります。この火花の下に神輿をかついで飛び込み、勇壮にきおうのが祭りのクライマックスになります。
 これに加えて七久里神社(飯田市山本)では、締め込み姿の屈強の男たちが頭上に高々と桶を振り上げて回してみせる「桶振り」が行われます。このため裸祭りとも呼ばれます。

 また清内路村の2つの諏訪神社では、有名な手作り花火(県無形民俗文化財)が奉納されます。激しく火花をまき散らしながら回転する尺車(しゃぐま)をはじめ、ユニークな仕掛け花火が次々に登場します。地元の記録によると、江戸時代、特産物の煙草の行商に出た村人が三河で煙草と引き替えに火薬の製造法を習ってきたのが原点とされています。享保16(1731)年に神社に奉納した記録があり、以後300年近く、飢饉の年も戦中戦後も途絶えることなく続いてきました。この地域では他の村でも住民が花火を手作りした記録がありますが、今でも続いているのは清内路だけで、地区の誇りになっています。なお火薬の扱いには一定の危険があり、過去には事故が起きたこともあって、上清内路では一般の人は境内に入れないことになっています。こちらが清内路ホームページの手作り花火紹介です。

 今年の秋祭り花火イベントの日程は次のとおりです。
8月20日(土)――矢高諏訪神社(飯田市鼎)打ち上げ花火
8月27日(土)――大宮諏訪神社(飯田市宮の上)打ち上げ花火、大三国
8月27日(土)――和田諏訪神社(飯田市南信濃)打ち上げ花火
9月3日(土)―――愛宕稲荷神社(飯田市愛宕町)打ち上げ花火、大三国
9月10日(土)――今宮郊戸八幡宮(飯田市今宮町)打ち上げ花火、大三国
9月10日(土)――鳩ケ峰八幡宮(飯田市松尾)打ち上げ花火、大三国
9月17日(土)――長姫神社(飯田市追手町)打ち上げ花火、大三国
9月18日(日)――瑞光院行人様御開帳(阿南町新野)打ち上げ花火
10月1日(土)――七久里神社(飯田市山本)仕掛け花火、大三国、桶振り
10月 日( )――熊野神社(飯田市大瀬木)仕掛け花火、大三国
10月6日(木)――上清内路諏訪神社(阿智村清内路)手作り花火(※一般入場制限)
10月7日(金)――伊豆木八幡宮(飯田市三穂)大三国
10月9日(日)――満島神社(天龍村)打ち上げ花火
10月15日(土)―下清内路諏訪神社(阿智村清内路)手作り花火

梅雨入り

 きょう九州南部から東海まで一斉に梅雨入りが発表されました。飯田ではまだ雨は降っていませんが、昼ごろから雲が広がって梅雨らしい空模様になっています。夜の間に降り出すでしょう。
 飯田の梅雨入り・梅雨明けは例年、関東甲信(=東京)ではなく、東海とほぼ一致します。今年もそのようで、飯田はきょう梅雨入りしました(こういったことまで行政の区分にしたがって決めるのは実に馬鹿げたことだと思います)。

 例年、梅雨入り前ごろに小梅を収穫して漬けるのですが、今年は非常に早く、5月半ば過ぎに収穫して漬けてしまいました。正月に白い花が咲いていた、あの梅です。実の育ちが良くて、小梅とは思えないほど大きくなりました。小さな木ですが、5.3kgの収穫がありました。これから赤紫蘇が育つのを待って赤く色付けして、仕上がりが楽しみです。