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大鹿歌舞伎が国重要無形民俗文化財に

 大鹿村に伝わる地芝居「大鹿歌舞伎」が国重要無形民俗文化財に指定されることが決まりました。地芝居(農村歌舞伎)の分野での指定は全国初だそうです。大鹿歌舞伎は近年、原田芳雄の遺作となった映画「大鹿村騒動記」(2011年公開)などによっても広く知られるようになりましたが、今回の指定により、文化財としての最大級の価値が認められるとともに、民俗学的・文化史的にも全国を代表する重要な価値を持っていることが認められたことになります。

 こちらは大鹿村ホームページの大鹿歌舞伎情報コーナー、また、こちらは大鹿村観光協会ホームページの特集―大鹿歌舞伎コーナーです。
 定期公演は年2回で、春の公演は5月3日に大磧神社で、秋の公演は10月第3日曜日に市場神社で。

 国の文化審議会が1月27日に開かれ、新たに重要有形民俗文化財に3件、また重要無形民俗文化財に7件を指定するように文部科学大臣に答申しました。3月に文部科学大臣によって正式に指定される運びとなります。国の重要無形民俗文化財は、今回の7件を加えると全部で303件になります。
 飯田市周辺ではこれまでに「遠山郷の霜月祭り」(飯田市南信濃と飯田市上村の2件)、「天龍村の霜月神楽」、「新野の雪祭り」(阿南町)、「新野の盆踊り」(同)の5件が重要無形民俗文化財に指定されており、大鹿歌舞伎で6件目。ほかに選択無形民俗文化財も10数件あり、まさに民俗文化財・民俗芸能の宝庫です。歌舞伎と共通性の多い人形浄瑠璃も各地に伝わっており、今田人形(飯田市龍江)、黒田人形(飯田市上郷)、早稲田人形(阿南町)が選択無形民俗文化財になっています。また同じ地芝居として、下條村にも下條歌舞伎があります。

 大鹿歌舞伎については昨年3月、「飯田周辺の御柱祭(下)」の記事の中でも少し紹介しました。重なる部分もありますが、改めて紹介します。

17013101 大鹿村では大正時代ころまで芝居のことを狂言と呼びました。特に鹿塩地区が早くから盛んで、地元の古文書に江戸中期の明和4年(1767)年に「かしを狂言」が上演されたという記述があります。この時点で鹿塩狂言という呼び名があったということは、もっと前から行われていたものと考えられ、300年以上前から行われていたとも言われています。
 寛政(1789~1801年)の頃には、飯田から俳優を招いて芝居をしたり、村の若者が他の村で狂言を演じたという記録があります。その後も祭礼で地芝居を演じたり、また江戸後期から明治中期にかけて村内各地の神社に舞台を建立した記録があります。

 江戸時代、幕府は寛政11(1799)年の人寄禁止令や、天保12(1841)年の農民による歌舞伎・浄瑠璃などの禁止で、地芝居の上演を禁止しました。また明治時代に入っても、明治6(1973)年に県の令達で神社の舞台で地芝居を行うことが禁止されました。そうした禁令の時代を乗り越えて、大鹿歌舞伎は受け継がれてきました。

 明治中期から昭和初期にかけては日露戦争の戦勝祝賀、大正天皇即位祝賀、昭和天皇即位祝賀などで歌舞伎が上演されています。男性が兵役に出た戦時中には女性が役者を務めて上演したこともあり、歌舞伎の上演がなかったのは終戦の年などわずかでした。
 戦後は昭和22(1947)年5月3日に憲法発布記念祝賀の歌舞伎公演が行われました。ちなみに、現在でも大鹿歌舞伎の春の定期公演は5月3日と決まっています。

 昭和36(1961)年に保存会が発足。村は昭和49(1974)年に大鹿歌舞伎を村無形文化財に指定し、翌昭和50(1975)年には中学校に歌舞伎クラブが発足して、歌舞伎への愛着や誇りを継承するとともに、後継者育成の基礎となりました。
 昭和52(1977)年に県無形民俗文化財、平成8(1996)年に国選択無形民俗文化財に指定されました。
 平成12(2000)年には地芝居として初めて国立劇場(大阪府)で上演。また、これまでにオーストリア、ドイツなど海外でも公演しています。

 伝わっている演目は約30で、人気のある十八番は「一谷嫩軍記 熊谷陣屋の段」、「絵本太功記十段目 尼ヶ崎の段」、「菅原伝授手習鑑 寺子屋の段」、「奥州安達原三段目 袖萩祭文の段」など。
 演目の中でも、平家の生き残り悪七兵衛景清が頼朝に戦いを挑む「六千両後日之文章 重忠館の段」は、中央の歌舞伎を含め他では全国どこにも見られない、大鹿歌舞伎にしか伝わっていない演目とされています。映画「大鹿村騒動記」に登場するのもこの演目で、原田芳雄が景清を演じ、歌舞伎のあらすじと絡み合いながら映画の物語が進行します。
 一方、あまり上演されない演目もあり、平成12(2000)年には大鹿中学校歌舞伎クラブが50年近く上演されず「幻の外題」と呼ばれてきた「源平咲別躑躅 扇屋の段」を上演し、話題を呼びました。

 大鹿村では江戸後期から明治中期にかけ、村内各地の神社やお堂の境内13か所に舞台が建てられました。その後、取り壊したり集会所に改造したりで、現在も残っているのは7か所。春秋の定期公演が行われるのは大磧神社と市場神社の舞台で、いずれも間口6間、奥行き4間の大きさで直径3間の回り舞台を持っています。

 客席は春秋の風が流れる青天井の神社境内で、観客はそこで弁当を広げ、酒を酌み交わしながら芝居を楽しみます。まったく堅苦しさのない開放的な空間と、見せ場で声援が飛び、おひねりが飛び、やがて舞台と客席の間に生まれる一体感。そこに何とも言えない心地良さがあります。最後の手打ち「おしゃしゃのしゃん」まで体験すれば、その思い出は一生忘れられないものになります。

 今回の文化審議会の解説資料によると、大鹿歌舞伎は「我が国を代表する地芝居」で、「近世以来の地方の村落における芸能の受容や展開を示すとともに、独自の演技・演目を有するなど地域的特色や芸能の変遷の過程を示すものとして重要」。また「舞台装置や演技・演出に大鹿歌舞伎独自の形がみられ、村民の手で長く伝承されてきたことを示している」と評価されています。

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