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飯田周辺の御柱祭(上)

 「御柱祭と飯田お練りまつり」の記事で書いたとおり、諏訪大社の御柱祭と同じ寅年と申年の春、飯田周辺の神社30数社でもそれぞれ個別に御柱祭が行われます。江戸時代中期から始まってちょうど50回目という御射山神社(松川町上片桐)のように長い歴史を持つ地域がある一方、「面白そうだからうちもやろう」と平成に入ってから新しく始めた地域もいくつかあります。また牛牧神社(高森町牛牧)、伊勢神社(高森町上市田)では御柱祭そのものは古くから行われていますが、里曳きを行うのは今回が初めてです。
 長野県教育委員会の調査によると、昭和43(1968)年に確認された県下の御柱祭は271件(諏訪地域162件、それ以外109件)だったそうです。現在はおそらくそれより増えていると思います。郷土誌『伊那』を発行している伊那史学会の調査では、平成22(2010)年の飯田周辺の御柱祭は34件(ほかに同年のみ休止が1件)でした。
 飯田周辺の御柱祭で、文献史料などが残っていて始まった時期が分かっているものは次のとおりです。
 御射山神社(松川町上片桐)――――享保7(1722)年から
 知久平諏訪神社(飯田市下久堅)――天保元(1830)年から記録がある
 野池神社(飯田市千代)――――――天保15(1844)年より前から
 関口家諏訪大明神(飯田市千代)――嘉永(1848~53)年間から
 飯沼諏訪神社(飯田市上郷飯沼)――江戸時代から
 七久里神社(飯田市山本)―――――江戸時代後期から
 尾科諏訪神社(飯田市龍江)――――明治5(1872)年から
 和田諏訪神社(飯田市南信濃)―――明治17(1884)年から
 程野正八幡宮(飯田市上村)――――明治~大正の写真がある
 小野子諏訪神社(飯田市上久堅)――大正9(1920)年から
 竹佐伊奈神社(飯田市山本)――――昭和31(1956)年から
 関宮神社(松川町上片桐)―――――平成4(1992)年から
 春日神社(阿智村春日)――――――平成10(1998)年から
 小野子諏訪神社は昭和31(1956)年を最後に一時中断しましたが、昭和61(1986)年から若手の熱意で地域おこしのために復活しました(『上久堅村誌』には昭和62年と書いてありますが、この年は卯年で間違い。地元紙の記事で昭和61年だったことを確認しました)。柏原明神社(飯田市千代)も戦時中をはさんで一時中断し、戦後に復活したということです。
 御柱祭を行っているのは必ずしも諏訪系の神社に限らず、立石日枝神社(飯田市三穂)のように諏訪神(建御名方命など)とまったく関係のない神社もあります。もともと八幡社(主祭神が八幡神)で諏訪神が合祀されているところも、麻績神社(飯田市座光寺)、七久里神社(飯田市山本)、竹佐伊奈神社(同)、程野正八幡宮(飯田市上村)、牛牧神社(高森町牛牧)、鶴部八幡社(松川町上片桐)、市場神社(大鹿村鹿塩)などたくさんあります。逆に諏訪社(主祭神が諏訪神)で八幡神などを合祀している神社もたくさんあります。伊勢神社(高森町上市田)、秋葉神社(阿智村伍和)なども神社の名称から分かるとおり主祭神は諏訪神ではありません。
 変わっているのは市の沢諏訪神社(阿智村駒場)で、神事でなく長久寺の住職が読経します(神仏習合で寺院が神社を管理した江戸時代なら不思議でも何でもありませんが)。また関宮神社(松川町上片桐)はもともと御射山神社と氏子が重なっており、自分たちの地元でみんな参加して伸び伸びと御柱を曳いて楽しみたいという動機で始めたので、神事はないようです。

 諏訪大社の御柱祭は古代から行われていたと見られ、平安時代初頭、坂上田村麻呂が蝦夷征討を祈願して成就したお礼として、桓武天皇が信濃1国に諏訪社式年造営の永代課役を命じたといいます。この式年造営は、当初は社殿、玉垣、鳥居などすべての建造物を建て替えていたようですが、後に宝殿と御柱の建て替えになり、ともに現在まで続いています(御柱の始まりはもっとさかのぼる可能性があります)。
 鎌倉時代には源頼朝や北条氏が諏訪社を崇敬し、信濃全体の地頭に諸祭事の勤仕と費用を負担させる仕組みを強化しました。そのシステムは戦国時代まで続き、『諏訪御符礼之古書』(守矢文書)を見ると、御射山祭や五月会で伊賀良庄の小笠原氏、飯田の坂西氏、飯沼・阿島の知久氏、黒田の座光寺氏、市田の松岡氏、名子の大島氏などが御頭役を務めて多大な出費をしていることが分かります。もちろん式年造営・御柱祭も信濃全体の負担で行われました。
 この信濃全体で負担するシステムは戦国時代の武田家滅亡によって崩れ、江戸時代に入ると諏訪社は幕府から独自の領地を与えられ、祭事はもっぱら諏訪地域の負担で行われるようになりました。
 このような歴史を踏まえると、諏訪以外の各地の御柱祭は、信濃全体で諏訪社の祭事を負担していた時代が終わり、江戸時代に入ってから始まったと考えるほうが自然な気がします。ただ飯田周辺でも独自に御射山を持って御射山祭を行ってきた神社があり、御柱祭ともども、古くからの祭事についてはもっと研究しないと確かなことは言えません。

 御柱祭に際し、諏訪大社から薙鎌や御符を拝戴する神社があります。上でも引用した伊那史学会の平成22(2010)年の調査によると、薙鎌と御符を拝戴するのは御射山神社(松川町上片桐)、神護原神社(松川町元大島)、飯沼諏訪神社(飯田市上郷)、知久平諏訪神社(飯田市下久堅)、小野子諏訪神社(飯田市上久堅)、萩山神社(高森町下市田)、牛牧神社(高森町牛牧)、伊勢神社(高森町上市田)、また御符だけもらうのが尾科諏訪神社(飯田市龍江)となっています。昔は薙鎌をもらっていたが、今はもらっていないというのが野池神社(飯田市千代)、和田諏訪神社(飯田市南信濃)、鶴部八幡社(松川町上片桐)です。
 御符と薙鎌の目録は、すべて同じかどうか分かりませんが、私が写真で見たもの(複数)は次のような文面です。御符は御柱祭を行う地域に与えられ、一方、薙鎌は神社に与えられています。

16030502 「御符」
 (住所)○○郷
 本年外縣御頭番之事
 依恒例指定畢
 守旧規可勤仕者也
 (年月日)
 信濃国一之宮諏訪大社

 「薙鎌の目録」
 (住所)○○神社
 一、薙鎌壹口
 右故分社以當式年御柱大祭
 授與候也
 (年月日)
 信濃国一之宮諏訪大社

 この薙鎌は各神社で御神体として扱われます(諏訪大社では御神体として扱うことはありません)。今はそのまま神社でまつっておくところが多いようですが、知久平諏訪神社では薙鎌を御柱に打ち込んで地中に埋めます。それによって御柱が神になるわけです。御柱祭に関連する祭りとして、長野県内外(小谷村、石川県能登半島)の神社で薙鎌を生木に打ち込む祭りを行うところがありますが、これもそれによって木が神になるということでしょう(薙鎌は風鎮めの神器、また小谷村の薙鎌打ちは国境を示すという説が一般的ですが)。
 『豊丘村誌』には、明治42(1909)年に足倉諏訪社(豊丘村河野滝川の山中の小祠)で赤松の大木を伐採したところ、木の中から薙鎌2つと鉄剣が出てきたという話が書かれています。この薙鎌は諏訪大社の天正時代のものと様式が一致するということです。
 各地の御柱祭の歴史の解明はまだ進んでいませんが、文献史料などの掘り起こしとともに、各地の神社に残っている薙鎌の鑑定などを行うと、何か分かるかもしれません。また体系的に各地の御柱祭の共通点と相違点を整理するだけでも、何か分かってくるのではないでしょうか。
 (右上の写真は萩山神社御柱祭の里曳きで段差のある泥田の中を通る場面です)

 長野県内で御柱祭を行っている地域には濃淡があり、諏訪以外では南信の飯田市以北、北信の長野市周辺などが特に多いようです。飯田周辺では北部と東部に規模の大きな御柱祭が多く、西部も国道153号に沿って愛知県境の根羽村まで見られますが、南部の阿南町、下條村、天龍村などにはまったく見られません。こうした地域的な濃淡には、次のような理由が考えられます。
(1)領主や土地が諏訪社と関係が深かった地域では古くから行われている――飯田周辺では北部の片桐氏や東部の知久氏などが諏訪氏や諏訪社との関係が深かったため、それらの地域の神社は古くから諏訪社の神器である薙鎌を拝戴し、御柱祭も早く始まったことが考えられます。
(2)近隣のまねをして始めた地域と、まだ伝わっていない地域がある――最近でも新しく始める地域があるくらいなので、昔からそうだったのでしょう。近隣地域で御柱祭のやり方に共通性が見られることからも、それが裏付けられると思います。一方、まだ伝わっていなかったり、また何らかの事情でやりたくてもできなかった地域もあるのかもしれません。
(3)お練り祭りがあるので御柱祭は行わない――飯田市中心部(大宮諏訪神社)です。(2)の関連で、これが壁になって御柱祭が南部に伝わっていないのかもしれません。飯田のお練り祭りが御柱祭と同じ寅年と申年に行われるようになったのは享保19(1734)年から(それ以前は3年に1度)で、御射山神社(松川町上片桐)の御柱祭が始まったのはその12年前なので、飯田のお練り祭りは御射山神社の御柱祭をまねて6年に1度にしたとも想像できます。
(4)過去には行われていたが、途絶えてしまった――上記の足倉諏訪社の例にも見られるように、知久氏の領地だった豊丘村など古くから諏訪社と深いつながりを持っていた地域では、何らかの祭事が行われていた可能性があります。

 飯田周辺では、御柱の本数は4本が4社、2本が22社、1本が9社で、各社4本に決まっている諏訪と違い、2本のところが最も多く、1本のところも少なくありません。本数は御柱の意味にも関連し、本来の姿は1本だという説もあります。
 1本のところでも、和田諏訪神社(飯田市南信濃)、神坂神社(阿智村園原)、月瀬神社(根羽村)、黒地若宮社(同)では前回の御柱をそのまま残して前々回の御柱を更新し、常に2本が建っていることになります。また2本の野池神社(飯田市千代)でも、前回の御柱を残して前々回の御柱を更新するため、常に4本が建っている形になります。
 御柱は大きい順に一之御柱、二之御柱…とするのが普通ですが、野池神社、小野子諏訪神社(飯田市上久堅)などでは2本を男木と女木とし、里曳きの途中で面白いこと(?)をします。

 飯田周辺の御柱祭は、祭りの規模や御柱の大きさも大小さまざまです。
 氏子の参加範囲で見た場合、最も大きいのは上下伊那をまたぐ旧片桐郷7か村が集まる御射山神社(松川町上片桐)です。御柱祭には多くの人数が必要なため、中山間地ではだんだん参加範囲が広がる傾向が見られます。一方、10戸くらいしかない集落でずっと継続しているところもあり、それはそれでアットホームな雰囲気で楽しいようです。小さいほうでは、数人の氏子総代などだけでやってしまい、地元でもあまり知られていないところもあります。また諏訪地域の小宮祭と同様に個人の氏神や、岩にまつった祭神(根羽村堂の入)に御柱を建てる例もあります。
16030501  日程面でも、飯沼諏訪神社(飯田市上郷)のように前々年の見立てから始まって時間をかけるところがある一方、1日で伐採から建御柱まで全部やってしまうところもあります。
 内容的には、大々的に獅子舞や踊りなどの余興を行うところや、春祭りに合わせて行うところがあります。葦原神社(大鹿村鹿塩梨原)では6年に1度、御柱祭の時だけ歌舞伎を行います。また最後に餅投げを行うところが多く見られます。
 御柱の大きさはやはり御射山神社が最高で、諏訪大社でも一之御柱として通用する直径1m超(目通り周囲323cm)のモミの大木が出たことがあります。それに次いで、飯沼諏訪神社、七久里神社(飯田市山本)、神護原神社(松川町元大島)、小野子諏訪神社(飯田市上久堅)、程野正八幡宮(飯田市上村)などでは直径70cm超の大木が出ることがあります。長さは長いもので15m以上で、最高は飯沼諏訪神社の18.5mです。逆に最も小さなものは直径10cm、長さ5mで、人が乗ったりはできません。(写真は里曳きを待つ今年の飯沼諏訪神社の御柱です)
 昔はどんな大きな御柱も人力で建てましたが、今は建御柱にはクレーンを使うところが増えています。
 あと変わったところで、下ノ宮諏訪神社(飯田市松尾代田)と明神社(喬木村阿島)では、根のついたヒノキを御柱として神社に運んで植樹します。
 里曳きのコースもさまざまで、わざわざ道路を外れて田畑を通ったり、川越しをするところもあります。また飯田周辺は神社が段丘の上にあることが多いため、最後に坂道や石段の曳き上げをするところが多くなっています。その典型が飯沼諏訪神社で、巨大な御柱を落差60m以上、309段の石段に沿って曳き上げます。

 諏訪大社の御柱祭のことを「天下の奇祭」と言うことがありますが、これは天下に知られた大きな祭りの中で他に例を見ない独特の祭りという意味でしょう。内容が奇妙な祭りなら、他にもっと奇妙で意味不明な祭りが全国各地にいくらでもあります。
 御柱の意味については依り代、四方の守り(四神)、境界、結界、縄文建築など20以上の説があるそうですが、解釈はどうにでもでき、解明することは不可能なので、並べて考えてみても仕方がありません(柳田国男が言った通り社殿造営の代替などではありえないと思いますが)。しかし、この祭りが現在も途絶えることなく続けられている今日的な意味は、祭りそのものを見れば明らかです。
 飯田周辺の木遣り唄にも「奥山の大木が里に下りて神となる」とあります。元々そこに「神がある」のではなく、多くの人にまつられることによって奥山の大木が「神となる」わけです。
 大木を立てるのは、どれだけ多くの人が力を寄せ合ったかを示す象徴であり、地域の力を示すシンボル。御柱は地域の力の結集を示すもので、それが御柱祭を行うことの意味なのだと思います(もう1つ付け加えるなら、そういう大木のある山を守り続けているということも)。

 …次回、飯田周辺のおもな御柱祭の日程や特徴について紹介します。

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