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2016年3月

飯田の桜、開花宣言

16032901 飯田の桜、29日に開花宣言が出ました。観測標準木は大宮通り桜並木(中心市街地)にあるソメイヨシノで、平年より6日早い開花です。写真はこの桜並木の南端にあるヒガンザクラ(人形時計塔の桜)で、すでに満開です。4月3日には大宮通り桜まつりが開催され、歩行者天国でバンド演奏、写生大会などが行われます。
 飯田市内のヒガン系の銘桜も昨日あたりから咲き始めたようです。今後の天気にもよりますが、だいたい数日で満開になるので、飯田市内の主だった銘桜はこの週末前後にいっぺんに見ごろを迎えそうです。
 飯田お練りまつりは終わりましたが、飯田周辺の御柱祭はいよいよ佳境にさしかかります。これに合わせるように桜が開花し、まさに祭りに花を添えてくれます。

飯田お練りまつり晴天に恵まれ

 飯田お練りまつり開催中です。今回は3日間通しておだやかな晴天に恵まれそうです。朝は冷え込んで屋外で氷が張りましたが、日中は気温が上がって平年より暖かくなりました。
 私は比較的人出の少ない時間と場所をねらって土曜日の朝から見物に出かけました。もう脚立を持ち歩く元気はないので、カメラだけ持っていきましたが、おかげさまで人気の大名行列も先頭付近に陣取ってしっかり見ることができました。
 写真の右2枚は昼前の中央通り。露店も立ち並んで賑わっています。
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昭和43年、昭和19年の御柱祭

 飯田周辺の御柱祭(上)で少し触れましたが、長野県教育委員会が昭和43(1968)年度の県内の御柱祭について調査したことがあり、その結果が『長野県民俗資料調査報告12諏訪信仰習俗』(1972年刊)にまとめられています。この報告書には、『特殊神事の研究・第4輯』(長野県神社協会1939年刊)からの引用という形で、昭和13(1938)年の御柱祭のことも書かれています。昭和13年のものは県内144件(うち飯田周辺7件)で、網羅的な調査ではありません。昭和43年は県内271件(うち飯田周辺27件)が記録されていますが、明らかに調査漏れがあります。それでも参考になるので、内容の一部を紹介します。

<昭和43(1968)年の御柱祭>
 諏訪地域以外は109件。当時の市郡別の内訳は次のとおりです。
・諏訪を除く南信39件(伊那市1、上伊那郡11、飯田市8、下伊那郡19)
・北信49件(長野市15、更埴市4、埴科郡3、上高井郡3、下高井郡3、上水内郡15、下水内郡6)
・東信12件(上田市1、小県郡9、佐久市1、南佐久郡1)
・中信9件(塩尻市2、東筑摩郡5、南安曇郡2)

 上伊那郡の11社はすべて辰野町で、塩尻市の2社も辰野町境の小野地区です。上伊那郡は他に中川村や長谷村でも行われていたはずで、伊那市も1社ではないと思いますが、記載されていません。
 南安曇郡の2件はいずれも神社ではなく道祖神です。
 あと松本市にも7社ありますが、寅年・申年でなく卯年・酉年なので、この調査の対象に入っていません。

 飯田周辺の27社は次のとおりで、現在のものとは出入りがあり、上伊那などに比べるとよく網羅されていると思いますが、なぜか飯沼諏訪神社(飯田市上郷)などが漏れています(信じられない…)。浅間神社(飯田市龍江尾科)とあるのも尾科諏訪神社の間違いだと思います。
 御射山神社(松川町上片桐)、諏訪形神社(同)、神護原神社(松川町元大島)
 市場神社(大鹿村鹿塩)、葦原神社(同)、大磧神社(大鹿村大河原)、野々宮神社(同)
 萩山神社(高森町下市田)、伊勢神社(高森町上市田)、牛牧神社(高森町牛牧)
 明神社(喬木村阿島)
 知久平諏訪神社(飯田市下久堅)、野池神社(飯田市千代)、小野子諏訪神社(飯田市上久堅)
 和田諏訪神社(飯田市南信濃)、程野諏訪神社(飯田市上村)
 浅間神社(飯田市龍江尾科)、諏訪明神社(飯田市川路8区、祭典のみ)
 七久里神社(飯田市山本)、竹佐伊奈神社(飯田市竹佐)
 河内諏訪神社(阿智村伍和)、市の沢諏訪神社(阿智村駒場)、智里諏訪神社(阿智村智里)
 根羽諏訪神社(根羽村)、月瀬諏訪神社(根羽村月瀬)、中野諏訪神社(根羽村)
 平谷諏訪神社(平谷村)

<昭和13(1938)年の御柱祭>
 『特殊神事の研究・第4輯』からの引用で、諏訪地域以外は87社。それぞれの内容も記載されているので、当時の市郡別に御柱の本数をまとめてみました。
・諏訪を除く南信16社:4本が6社、2本が5社、1本が1社、不明が3社、祭典のみが1社
  上伊那郡9社:4本が6社、不明が3社
  下伊那郡7社:2本が5社、1本が1社、祭典のみが1社
・北信56社:4本が7社、2本が32社、1本が12社、不明が5社
  長野市6社:4本が3社、2本が2社、不明が1社
  埴科郡12社:2本が10社、不明が2社
  下高井郡23社:4本が3社、2本が8社、1本が12社
  上水内郡15社:4本が1社、2本が12社、不明が2社
・東信10社:2本が1社、1本が9社
  小県郡7社:1本が7社
  南佐久郡3社:2本が1社、1本が2社
・中信5社:4本が5社
  東筑摩郡2社:4本が2社
  西筑摩郡2社:4本が2社
  北安曇郡1社:4本が1社
 諏訪地域以外の県内の合計は、4本が18社、2本が38社、1本が22社で、現在の飯田周辺の御柱祭と同様に2本が最も多く、次いで1本が多くなっています。網羅的な調査ではないので、統計的な分析に意味があるかどうか分かりませんが、地域的な傾向は読み取ることができ、上伊那や中信はだいたい4本、北信は2本が多く1本も少なくない、東信はほとんど1本といった感じです。

 飯田周辺の9社(当時は上伊那郡上片桐村だった2社を含む)の御柱祭の内容は次のように記載されています。
・七久里神社(山本村・現飯田市山本)
 見立3月1日、本木祭・縄綯祭3月15日、里曳・建立4月15日。御柱の長さは男木4丈1尺6寸(約12.6m)、女木4丈(約12.2m)。拝殿の前方右側面に並行2本を1か所に建つ。大略、郷社二宮野池神社に同じ、多少省略せられたる所あり。外に式年中に御柱剣の舞を行ふ。
・諏訪神社(上郷村飯沼・現飯田市上郷飯沼)
 見立4月1日、伐採4月4日、山出し4月14~15日、里曳は建立の2日前の早朝より。建立は4月中旬、寅年は寅の日、申年は申の日。御柱の長さは一定せず太さに応ず。今回は37尺(約11.2m)と33尺(約10m)。
・神護原神社(大島村・現松川町元大島)
 4月12日、見立・伐採・山出し・里曳・建立は1日にして終る。御柱の長さは25尺5寸(約7.8m)。
・諏訪社(和田村・現飯田市南信濃和田)
 次回の御柱を見立て、7年前見立てしを伐る。伐採・山出しは旧3月、里曳・建立は旧4月で、いずれも寅年は寅の日、申年は申の日。御柱は1本で長さ7間3尺(今と同じ)。寅年は神前左、申年は神前右に建立する。
・大宮神社(河野村・現豊丘村河野)
 式年祭ごとに社掌、氏子総代全員、諏訪大社に参り、薙鎌、神札を拝戴。これを神殿に納め中祭を行う。
・郷社諏訪社(下久堅村下久堅・現飯田市下久堅)
 見立は寄進につき自ら期日なし。伐採・山出しは御柱祭当日。里曳・建立は寅年は4月寅の日、申年は4月申の日。御柱は2本で長さ7間(約12.8m)。
・諏訪神社(上久堅村・現飯田市上久堅)
 見立は郷社諏訪社の如し。伐採・山出し4月1~7日の吉日、里曳・建立4月10日。御柱は2本で長さ6間半(約11.9m)。
・諏訪神社(上片桐村諏訪形・現松川町上片桐諏訪形)
 4月18日。御柱の長さは19尺3寸(約5.9m)。
・鶴部八幡宮(上片桐村鶴部・現松川町上片桐鶴部)
 4月19日。御柱の長さは18尺7寸(約5.7m)。

 この頃はまだ寅年は寅の日、申年は申の日という日取りを守っていた神社がいくつかありますが、全体に見立てから里曳き・建御柱までの日程は今より簡略で、3~4月に一気にやってしまう感じです。御柱の長さも今よりずいぶん短いところが多くなっています。
 私が最も注目したのは、七久里神社の「大略、郷社二宮野池神社に同じ、多少省略せられたる所あり」という記述で、この記述や2本の御柱を男木・女木と呼んでいた点などから、七久里神社の御柱祭は竜東から伝わったものと考えました。

飯田周辺の御柱祭(下)

 前回の記事に続き、飯田周辺の御柱祭を紹介します。建御柱の時間は前後する可能性もあるので、一応の目安と考えてください。

≪大鹿歌舞伎で知られる大鹿村の4社≫

<市場神社> 大鹿村鹿塩塩河
 里曳き・建御柱――4月9日(土)午前8時から里曳き、午後1時から建御柱
 毎年10月第3日曜日に大鹿歌舞伎の秋の公演が行われる神社です。
 御柱は赤松1本。獅子舞も出ます。

<大磧神社> 大鹿村大河原下市場
 里曳き・建御柱――4月10日(日)午前8時から里曳き、午前中に建御柱
 毎年5月3日に大鹿歌舞伎の春の公演が行われる神社です。
 御柱は赤松2本。獅子舞、歌舞伎も出ます。

<葦原神社> 大鹿村鹿塩梨原
 里曳き・建御柱――4月17日(日)午前9時から里曳き、午前中に建御柱
 この神社は、明治41(1908)年に鹿塩地区の他の5社の祭神を合祀してから葦原神社と呼ばれるようになり、それ以前は「諏方本社(もとやしろ)大明神」という名称でした。これは神話の時代に建御名方命が諏訪に入る前に一時ここにいたという伝説に由来するもので、この話から、大鹿村観光協会が作成した今回の御柱祭のポスターにも「諏訪大社の元祖」と書かれています。この話は立ち入るとやっかいなので、また改めて書きます。
 御柱はモミ1本で、社殿の前に建てます。戸数の少ない地域で、里曳きは地元の人でなくても参加できるようです。
 この神社にも歌舞伎舞台があり、かつては毎年春と秋に公演がありましたが、現在は6年に1度、御柱祭の時にだけ奉納公演を行います。他にも屋台獅子、鳥追い、壁塗り、手踊りなど多彩な奉納余興が伝わっています。

<野々宮神社> 大鹿村大河原上蔵
 山出し――――――3月20日(日)
 里曳き・建御柱――4月24日(日)午前8時半から里曳き
 御柱はモミ1本。福徳寺から神社まで曳き上げます。観光客なども参加します。獅子舞や歌舞伎などもなく、素朴でのどかな御柱祭です。

16030703  大鹿村の御柱祭は、かつては各神社の春祭りの前日に建て、春祭り当日は盛んに余興を奉納して楽しみました。
 大鹿歌舞伎は、原田芳雄の遺作となった映画「大鹿村騒動記」(2011年公開)によって一段と広く知られるようになりました。
 大河原村名主前島家の日記に、江戸時代中期の明和4年(1767)年3月29日に「かしを狂言」が上演されたという記述があり、これが大鹿歌舞伎の最初の記録とされています。来年で250年になりますが、明和4年の時点で鹿塩狂言という呼び名が確立しているということは、もっと前から行われていたということでしょう。
 大鹿村では大正時代ころまで芝居のことを一般に狂言と呼び、特に鹿塩地区で早くから盛んに地狂言(地芝居)が行われたようです。その後、江戸時代後期から明治時代にかけて村内各地に舞台が建てられ、自分たちで地芝居をしたり、旅役者の興行を呼んだりするようになりました。
 明治時代までに村内に建てられた舞台は13か所もありましたが、取り壊したり集会所に改造したりで、現在残っているのは4か所。それが大磧神社、市場神社、葦原神社、野々宮神社で、いずれも6間×4間の規模で直径3間の回り舞台を持っています。御柱祭を行っている神社とぴったり一致しているのは、何かの偶然でしょうか。
 毎年5月3日に大河原の大磧神社で春の公演、10月第3日曜日に鹿塩の市場神社で秋の公演があり、他に葦原神社では現在は御柱祭の時だけ公演を行っています。
 写真は平成4(1992)年4月19日に葦原神社で行われた6年に1度の御柱祭公演。演目は「一谷嫩軍記・熊谷陣屋の段」。前日に御柱を建て、この日の午前中に本祭、午後から各種の演芸を行って最後に歌舞伎で、この時はもう夜になっていたと思います。

 大鹿村から秋葉街道を北上して分杭峠を越えた伊那市長谷(旧長谷村)にも、山間の3地区(市野瀬、杉島、浦)に御柱祭が伝わっています。いずれも御柱は1本で、大鹿村と同じ1つのグループと考えていいのではないかと思います。長谷から北上すると伊那市高遠(旧高遠町)で、さらに杖突街道を北上すると諏訪地域に出るのですが、中間の高遠では御柱祭の話は聞かないので、大鹿村や長谷の御柱祭がどのようにして始まったのか謎です。

≪霜月祭りで知られる遠山郷の2社≫

<和田諏訪神社> 飯田市南信濃和田
 山出し―――――――3月12日(土)
 里曳き・建御柱―――4月3日(日)午前10時から里曳き、午後3時から建御柱
 和田諏訪神社の御柱祭は明治17(1884)年から始まったとされ、それ以降の献木者のリストがあります(多くは写真も)。山持ちの住民が多いのですが(宿場町で火災が多いので、その備えと聞いたことがあります)、献木者は山出しや里曳きの際に大盤振舞する慣わしがあって大変なようで、リストには同じ家の名前がいくつも見えます。その代わり神輿や御柱が立ち寄るので、本当に神様を家に迎えることになります。また木遣り唄に名前を入れて「遠山谷の名門」と持ち上げてもらえます。…とは言え、献木者個人にこんな負担をかけるやり方は和田特有で、他に例を知りません。御柱祭は地域の結集の場であって、誰か個人をたたえる祭りではないので、もうやり方を変えたほうがいいと私は思います。
 御柱は樹種不定(杉が多い)1本で、直径40cmほど、長さ7間3尺ですが、郷土誌『伊那』2010年3月号によると5尺を1間としているというので、38尺(約11.6m)でしょうか。1本ですが、前々回のものを更新し、寅年は社殿に向かって右側、申年は左側に建てます。
 1月17日に斧入れ式を行って伐採。3月12日に山出しし、急斜面を曳き落とした後、道路を曳行して遠山中学校の駐車場に安置しました。皮を剥かないのは珍しいです。3月27日に室堀式・行列準備を行います。室掘式というのは御柱を建てる穴を掘ることです。私は「宝掘式」と空目して、何だろうと思っていましたが、よく見たら違いました(^-^;
 4月3日の里曳きでは、まず御神体を移した神輿が神社から出発し、献木者の家に御神体を上げて神事をします。それから神幸行列を整えて御柱安置所まで御柱を迎えに行き、いよいよ里曳きとなります。神幸行列は総勢80人を超えます。里曳きは和田のまちを約1.5km曳行し、途中で何回か休止して氏子の繁盛安全を祈願します。献木者の家では大盤振舞を受けます。
 和田諏訪神社の祭事(御射山祭り、霜月祭り、御柱祭)については、荒井学さんの書かれた「遠山谷の諏訪社」(2004年刊)という本が出ています。ウェブ版もあります。

<程野諏訪大明神> 飯田市上村程野
 里曳き・建御柱――4月30日(土)午前9時から里曳き、午後3時から建御柱
16032001 この神社は八幡社で、普段は程野正八幡宮と呼ばれます。諏訪神は元は境内の別の小祠にまつられていましたが、昭和26(1951)年に八幡宮のほうが火災で焼失し、それを再建した際に諏訪神も合祀したということです。社殿の中に霜月祭りの湯立て神楽で使うかまどがあります(霜月祭りの話は、祭りが近づい頃にまた書きます)。
 御柱はヒノキ1本で、近年はしらびそ高原あたりの山から出し、直径70cm近い大木が出ることがあります。長さ7間3尺(約13.7m)となっていますが、『遠山谷の民俗』(1977年刊)によると、それより短くても伐採した時に「この柱は7間3尺すっぱり」と宣言するのだそうです。また以前、献木した家で不幸が続いて献木する人がいなくなり、仕方なく木を買い上げて氏子中の名前で出したこともあるそうです。
 以前は山出し祭も行っていましたが、現在は前年のうちに集落近くの安置所まで下ろしてしまいます。写真は昨年10月24日に斧入れ・山出しをした御柱で、今回は直径50cmほどです。安置所は三遠南信自動車道の矢筈トンネル出口の近くです。かつて程野は遠山郷の最奥の地でしたが、平成6(1994)年にこのトンネルが開通して遠山郷の玄関口に変わりました。
 4月30日の里曳きは、集落を通る国道152号を片側通行にして御柱を曳行します。50戸ほどの集落ですが、御柱祭の時は出身者、親戚、程野ファン(?)など人口の数倍の人が集まるという話もあります。獅子舞が出たり、前回は昼休みに上太鼓の演奏やヨサコイソーランの演舞もあったそうです。
 和田ほど豪勢ではありませんが、ほとんど同じ木遣り唄があり、やり方も似通っているので、やはり遠山郷で同じ1つのグループでしょう。

 上村程野は遠山郷の北端、南信濃和田はほぼ南端にあります。南アルプスと伊那山地にはさまれた谷間、中央構造線が通る場所で、大鹿村のところで触れた秋葉街道の沿線です。
 秋葉街道A:高遠―長谷―(分杭峠)―大鹿村―(地蔵峠)―遠山郷(上村―南信濃)―(青崩峠)―静岡県
 秋葉街道B:飯田市中心部―下久堅―上久堅―(小川路峠)―遠山郷(上村―南信濃)―(青崩峠)―静岡県
 遠山郷から谷間に沿って北上する道と、伊那山地の小川路峠を越えて飯田市中心部に出る道と、両方を秋葉街道と呼びます。そこで、遠山郷の御柱祭はどちらのルートで伝わったのかが問題になります。大鹿村・長谷と同じグループなのか、飯田市の竜東地域(下久堅、上久堅、千代)と同じグループなのか、3つそれぞれ違うのか、あるいはこれら全部が1つのグループなのか、今後の研究・解明が待たれます。

≪根のついたヒノキを植樹する2社≫

<明神社> 喬木村阿島北
 阿島祭――――――4月2・3日(土・日)
 里曳き・建御柱――4月4日(月)午後1時から里曳き、3時から植栽
 毎回、阿島祭の翌日の月曜日に行います。根のついたヒノキ2本を木ぞりに乗せ、北と南から出発して神社に曳き上げ、境内に植栽します。

<下ノ宮諏訪神社> 飯田市松尾代田
 里曳き・建御柱――4月8日(金)午前10時から区内巡行、午後3時から植栽
 獅子舞巡行――――4月9・10日(土・日)
 毎回、春祭りの前日に行います。根のついたヒノキ1本で、松尾城址公園から出発して区内巡行した後、神社に植栽します。

 この2社のほか、郷土誌『伊那』2010年3月号によると、豊丘村の壬生沢諏訪神社もかつては根のついたヒノキの植栽を行っており、植える場所がなくなって中止したということです。

≪飯田市内のその他の御柱祭≫

<立石日枝神社> 飯田市三穂
 山出し・里曳き・建御柱――4月3日(日)午前8時から
 御柱は2本(樹種不定)で直径30cm、長さ6mほど。

<竹佐伊奈神社> 飯田市山本竹佐
 里曳き・建御柱――4月10日(日)午前8時から里曳き、午後3時から建御柱、4時から餅投げ
 昭和31(1956)年からで11回目。モミ2本で直径65cm、長さ13mほど。

<柏原明神社> 飯田市千代
 里曳き・建御柱――4月16日(土)午前9時半から里曳き、11時半~建御柱・餅投げ
 戦中戦後に一時中断したものの復活。山間の10戸ほどの集落で続けています。ヒノキ2本で、男木は直径20cm、長さ8m、女木はやや小ぶり。集落をひと回りし神社に曳き上げます。

<尾科諏訪神社> 飯田市龍江
 山出し――――――3月12日(土)
 里曳き・建御柱――4月17日(日)午前8時半から里曳き、午後1時から建御柱、2時過ぎ式典・祝宴、4時過ぎ餅投げ
 明治5(1872)年から始まり、戦時中は女性たちの力で継続したということです。現在は龍江4区全体で行います。赤松2本で直径15cm、長さ13mほど。神社手前でイタチヶ沢の川越えがあり、坂を上って神社に入ります。

<麻績神社> 飯田市座光寺
 里曳き・建御柱――4月24日(日)午前11時から里曳き
 八幡社と諏訪社の社殿が同じ大きさで並んで建てられています。明治8(1875)年から麻績神社と呼ばれるようになりましたが、諏訪社は江戸時代まで大宮大明神社と呼ばれ、古い時代には地域の中心的な存在だったものとも考えられます。
 ヒノキ4本で直径25cmほど。拝殿裏の4隅に建てます。

<小野子諏訪神社> 飯田市上久堅
 山出し――――――4月3日(日)
 里曳き・建御柱――4月30日(土)午前8時半から里曳き、午後3時から建御柱、4時から餅投げ
 大正9(1920)年から始まり、昭和31(1956)年を最後に中断しましたが、地域を盛り上げようという若手の熱意で昭和61(1986)年に復活しました。諏訪大社から薙鎌と御符を拝戴します。
 赤松2本で直径70cm、長さ15mの大木です。男木と女木で、2kmほど曳き、途中で2本を重ねたり、10mほど下の田に落として引き上げたりします。

≪北部のその他の御柱祭≫

<牛牧神社> 高森町牛牧
 里曳き・建御柱――3月6日(日)午前8時から里曳き、9時から建御柱
 牛牧神社は八幡社で、建御名方命が合祀されています。御柱祭は古くから行われ、諏訪大社から薙鎌と御符を拝戴しています。
 前回までは氏子総代など少人数で御柱を建てるだけでしたが、今回初めて地域イベントとして子どもたち主体に里曳きを行いました。今回の御柱はヒノキ2本で直径20cm、長さ7mほど。山側から1kmほど曳き下ろし、参道から約60段の石段を曳き上げました。
 『高森町史』によると、牛牧神社の御柱は昔は4本で、昭和40年代には2本になっていたようです。

<伊勢神社> 高森町上市田
 里曳き・建御柱――3月21日(月)雨天の場合は里曳きは中止
  午前8時20分から里曳き、10時15分から建御柱
  11時半から餅投げ、11時45分から記念祭&アトラクション
 伊勢神社の主祭神は天照大神で、大正2(1913)年に近くの荒神社にまつられていた諏訪神、八幡神などを合祀しました。御柱祭はこの合祀の前から荒神社で行われていたようです。ここも薙鎌と御符を拝戴します。御柱は赤松2本です。
 今回は「式年御柱記念祭・合祀100年記念祭」として初めて里曳きを行い、アトラクションで太鼓、バンド演奏、踊りなどを楽しみ、木遣りで締めます。

<萩山神社> 高森町下市田
 里曳き・建御柱――3月27日(日)午前9時15分から里曳き、午後2時から建御柱・餅投げ
 萩山神社は平安時代末期に松岡氏が建御名方命を勧請して創建したとされています。秋の御射山祭が現代まで伝わっています。
 御柱祭は春祭りの日に例年の獅子舞を休んで行います。ここも薙鎌と御符を拝戴します。
 御柱は赤松2本で、長さ3丈3尺3寸(約10m)。かつては巡礼沢の社有林から出しましたが、現在は大島川上流の下市田区山林から出します。
 3月27日の里曳きは南の巡礼沢、北の大丸山の2か所からスタート。出発してまもなく南コースは瀬落とし、北コースは木落としがあり、その後に両コースとも子どもが曳く区間を設けています。南コースは国道まで下って北上、北コースは国道を渡ってJR市田駅前を通ります。12時ころ参道入り口で合流し、神社まで曳き上げます。建御柱にあわせ浦安の舞を奉納します。

<鶴部八幡社> 松川町上片桐鶴部
 山出し――――――3月5日(土)
 里曳き・建御柱――3月27日(日)午前8時から里曳き、午後1時から建御柱・餅投げ
 御柱は4本(樹種不定)で直径40cm、長さ7mほど。社殿の4隅に建てます。
 里曳きでは4本をそれぞれ若手男性、中高年男性、女性、子どもが曳きます。50戸ほどの集落で、御柱祭には出身者や親戚なども集まります。

<神護原神社> 松川町元大島名子
 山出し――――――2月13日(土)
 宵祭・大煙火―――4月2日(土)
 里曳き・建御柱――4月3日(日)午前9時半から里曳き、午後2時から建御柱
 名子は松川町の中心部で人口が増加しています。かつては上片桐の片桐氏から分かれた名子氏・大島氏の領地で、御柱祭が始まった時期は不明ですが、近年、回を追うごとに盛んになっています。諏訪大社上社から薙鎌と御符を拝戴し、山出しの際、「伐採の儀」で一之柱に薙鎌を打ち込みます。
 御柱は赤松2本で直径70cm、長さ11mです。2月13日に西部山麓の町有林で伐採して山出しし、皮を剥いて里曳き出発点に安置しました。
 里曳きは2本とも同じ場所から出発し、東コース、西コースに分かれて3kmほど地区内を曳行し、神社近くで合流します。途中で田畑を通ったりします。沿道では住民が食べ物や飲み物を用意して接待します。獅子舞、子どものおかめ踊り、花踊りなどの余興もあり賑わいます。

<諏訪形神社> 松川町上片桐諏訪方
 山出し――――――3月6日(日)
 宵祭―――――――4月8日(金)
 里曳き・建御柱――4月9日(土)午前7時半から里曳き、12時から建御柱
 御柱は4本(樹種不定)で直径45cm、現在の長さは7.2mほどで、毎回2寸ずつ長くしています。66戸ほどで、里曳きは2本ずつ2回に分けて曳くようです。社殿の4隅に建てます。

<関宮神社> 松川町上片桐大沢北部
 里曳き・建御柱――4月10日(日)
 平成4(1992)年から始まり5回目。御射山神社の氏子に含まれる地域ですが、地元の神社で独自に行って楽しみます。
 御柱は赤松2本、直径60cm、長さ4mほどで、毎回2寸ずつ長くしています。里曳きの距離は500mほどです。

≪西部のその他の御柱祭≫

<月瀬神社> 根羽村月瀬
 山出し・里曳き・建御柱――3月20日(日)午前8時から
 御柱は朴1本で直径30cm、長さ6mほどで、少しずつ長くしています。根羽川の南と北で交互に出します。かつての里曳きは川に落として曳いたということです。前々回の御柱を更新します。

<河内諏訪神社> 阿智村伍和
 里曳き・建御柱――3月26日(土)午前8時から里曳き、10時から建御柱
 モミ2本で直径45cm、長さ15m。昨年8月に斧入れ式を行い、県有林で伐採して皮を剥き、山出ししました。阿智村の御柱祭は規模の小さいものが多く、ここが最大です。

<黒地若宮社> 根羽村黒地
 斧入れ・山出し・里曳き・建御柱――3月27日(日)
 杉1本で直径30cm、長さ10m。前々回の御柱を更新します。伐採から建御柱まで1日で全部行います。里曳きの距離は200mほどで、最後に急斜面を曳き上げて神社に入ります。

<秋葉神社> 阿智村伍和
 里曳き・建御柱――4月2日(土)午前中に建御柱
 健御名方命が合祀されています。御柱は2本で直径25cm、長さ5.3m。

<春日神社> 阿智村春日
 里曳き・建御柱――4月9日(土)正午から建御柱
 末社として境内に諏訪社があります。御柱祭は平成10(1998)年から始まり4回目。面白そうだからと始め、氏子総代など数人でやってしまうということです。御柱はヒノキ2本で直径10cm、長さ5mほど。

<神坂神社> 阿智村園原
 里曳き・建御柱――4月10日(日)午前中に建御柱
 サワラ1本で直径15cm、長さ7mほど。前々回の御柱を更新します。近くの山林から伐り出し、ここも十数人でやってしまうようです。

<市の沢諏訪神社> 阿智村駒場
 里曳き・建御柱――4月下旬(未定)
 杉2社で直径15cm、長さ6m。裏山から伐り出し、社殿の裏に建てます。この神社は今でも長岳寺が管理しており、御柱祭でも住職が般若心経を読みます。

<平谷諏訪神社> 平谷村
 里曳き・建御柱――5月14日(土)午前8時から伐採・山出し、10時から里曳き、午後2時から建御柱
 平谷村は人口500人ちょっとで、長野県で最も小さい村。里曳きには出身者や観光客などが加わり、人口を超える人数になります。
 御柱はツガ2本で直径40cm。男木と女木です。
 伐採して皮を剥き、平谷高原スキー場に運んで里曳きを開始。ラッパに合わせて勢いよく曳き、3kmほど曳行する間、休憩所ごとに出し物があって賑わいます。

 …他にも小さな御柱祭がありますが、とりあえず今回の紹介はここまでです。

飯田周辺の御柱祭(中)

 飯田周辺のおもな御柱祭の日程と特徴を紹介します。今回は歴史や内容、規模などをもとに私が独断で選んだ特薦5社です(里曳き・建御柱の日付順)。建御柱の時間は前後する可能性もあるので、一応の目安と考えてください。

<知久平諏訪神社> 飯田市下久堅知久平宮の平
 山出し――――――3月13日(日)
 里曳き・建御柱――3月26日(土)午前9時から里曳き、午後3時から建御柱
 正大祭――――――3月27日(日)
 知久平諏訪神社は鎌倉時代、諏訪氏分流の知久氏が伴野庄を領有してまもなく、諏訪上社から勧請したとされています。知久氏は知久平城、のち神之峰城(飯田市上久堅)に本拠を置き、天文23(1554)年の武田侵攻の際には最後まで抵抗しました(生き残りが徳川氏の庇護を受けて後にカムバックします)。
 御柱祭は史料に残っているものとしては江戸時代末期の天保元(1830)年からで、今回で32回目になります。鎌倉時代からという伝承もあり、諏訪上社とのつながりを考えると、今のような御柱祭だったかどうかは別にして、その頃から何らかの祭事があってもおかしくありません。
 御柱はモミ2本で、今回は虎岩区の個人から寄進されました(虎岩区から御柱を出すのは初めてだそうです)。今回の御柱は直径50cm強で、伐採後に諏訪大社の四之御柱と同じ長さ4丈(約12.2m)にします。知久平には用材確保のために昭和3(1928)年に地元の午未同年衆8人が寄進したという御柱山もあり、個人からの寄進がない時はこの山から御柱を出します。
 知久平諏訪神社の御柱祭は諏訪大社上社から薙鎌と御符を拝戴します。特に注目されるのは薙鎌の扱いです。まず「本見立ての儀」で、一之柱に決まった木に、諏訪大社と同じように薙鎌を打ち込みます。これは見立ての後でいったん外しますが、建御柱の際、一之柱の根元に打ち込んで地中に埋めます。
 3月13日の山出しは、二之柱は事前に伐採して仮安置場まで出してありますが、一之柱は当日伐採して山から曳き出します。2本とも安置所まで運びます。
 3月26日の里曳きでは知久平区内を曳きまわします。神社入り口で木落としがあり、水を張った田に御柱を落としますが、この時に互いに落としあったり引っ張り込んだりして大勢が田に入り、30分ほど泥合戦を繰り広げるそうです。
 正大祭では各地区から御輿を繰り出して盛大にきおいます。
 下久堅地区まちづくり委員会が運営している「しもひさかた」ホームページの「お知らせ」コーナーで、「御柱特集」として今回の進行状況を連載しています。御柱祭祭典委員会の広報班の方がまとめているもので、昨年6月の道作りと「本見立ての儀」から始まり、小学生への教室、てこ棒作りと使い方の講習、御輿作り、灯籠・行灯作り、薙鎌拝戴、縄打ちなどの準備の様子がよく分かります。縄打ちはワラを木槌で叩いてやわらかくするところからやっています。写真が多く、御柱祭に向けた地元の雰囲気がよく分かるので、ぜひ見てください。

<御射山神社> 松川町上片桐城
 山出し――――――3月20日(日)
 宵祭・大煙火―――4月1日(金)
 里曳き・建御柱――4月2日(土)午前9時半から里曳き、午後2時から建御柱
 御射山神社は松川町と中川村にかかる船山城跡(県史跡)の中にあります。船山城は中世の片桐氏の居城で、飯田周辺に多い段丘先端の崖を利用した平山城の1つです。戦国時代に武田氏が修築したと見られ、天正10(1582)年の織田侵攻により廃城になりました。御射山神社は、片桐氏が建暦元(1211)年に大巳貴命を勧請し、後に建御名方命(諏訪神)、事代主命を勧請したとされています。大巳貴命は大国主命のことで、建御名方命と事代主命はその子ども。つまり、いずれも出雲系です。
 江戸時代中期の享保7(1722)年に社殿を修築して祭典を行い、諏訪上社下社にならって御柱祭を行うようになったということで、今回でちょうど50回目(足かけ295年)になります。御柱の本数をはじめ、御柱祭のやり方も諏訪にならっている部分が多いようです。
 旧片桐郷7か村にあたる松川町上片桐(片桐町、上片桐)、中川村片桐(田島、前沢、小平)、飯島町七久保、中川村葛島の4地区合同で行い、各地区から1本ずつ御柱を寄進します。
 まず3月20日に各地区で山出しを行い、御柱を里曳き出発点の旧片桐町(片桐宿)に向かって曳きます。
 地元の上片桐では、本当に西部山麓の山中から大勢で綱を引いて、集落上部の片桐神社まで数時間がかりで曳き出します。御柱は事前に伐採し、皮を剥いて綱をつける穴を開けてあります。みんな竹筒のぐい飲みを腰に下げていて、お神酒の力を借りながら勢いにまかせて曳きます。途中の谷間では木落としもあり、なかなかの見ものです。山出しの面白さは里曳きより勝るでしょう。
 毎回この上片桐の御柱が一之柱に決まっていて、直径1m前後あり、諏訪大社の御柱にも引けを取りません(今回は諏訪大社4宮の一之御柱が4本とも太くて負けていますが)。長さは毎回2寸ずつ長くして今回で5間5尺8寸(約10.9m)というので、4間2尺(約7.9m)から始まって1間3尺8寸(約3m)長くなっている計算になります(次回でぴったり6間になります)。それでもまだ太さの割には短く、ずんぐりしていて、諏訪大社の一之御柱の5丈5尺(約16.7m)に追いつくのは96回先(576年後)になります。
 一方、他の3地区では集落内を曳行し、山出しというより、この日が「地元の御柱祭」になります。今回、七久保では午前中に千人塚公園から大宮七窪神社まで下ろし、午後から集落内を南下して高遠原まで曳きます。片桐は横前から小平地区内、葛島は葛北地区内で曳行するそうです(実は私も、この3地区のやり方は今回あらためて調べて初めて知りました。上伊那の情報は飯田にはあまり入ってこないので…)。各地区の御柱は前年11月の見立祭で太さを測って順番を決め、今回は葛島が二之柱、片桐が三之柱、七久保が四之柱に決まりました。
 山出しの後、4本の御柱は里曳き出発点まで運ばれます。
 曳き綱は毎回4本とも里曳き出発点の旧片桐町が作ります(今回は2月27日に行いました)。4本の御柱がすべて通るというご利益があるので、そのくらいしなければいけません。綱は太さ15cm、長さ30mほどもあります。御射山神社の曳き綱は、ワラで作った大きな「蛇頭(じゃがしら)」がつくのが特徴で、昭和55(1980)年からつけるようになり(経緯や由来は不明)、ここと近くの諏訪形神社の2社の御柱祭でしか見られないという珍しいものです。
 4月2日の里曳きは一之柱から順番に出発し、東へ2kmほど下って御射山神社の境内に曳き入れます。途中、JR飯田線の上片桐駅北踏切を越えたあたりで昼休みになります。建御柱では、諏訪と違って4本とも社殿の前に建てます。
 御射山神社も諏訪大社上社から薙鎌と御符を拝戴します。里曳きの日には神輿巡行を行い、最後は神輿が先に神社の境内に入り、それに続いて御柱が境内に入ります。獅子舞、長持行列、おかめ踊り、きつね踊り、義士踊りなど多彩な余興があります。
 写真は4枚とも平成4(1992)年のもの。左上は上片桐の一之柱の山出しで、この時は御柱が窪みにはまって引っ張り出すのに苦労していました。右上は建御柱。左下は神輿が鳥居をくぐって境内に入ったところで、これに続いて御柱が入ってきます。右下は神社わきの濠に浮かべた「明神丸」の上で踊りを披露する子どもたち。ちょうど境内の桜も満開の時期で、御射山神社の御柱祭はどこを撮っても絵になります。
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<七久里神社> 飯田市山本
 里曳き・建御柱――4月3日(日)午前9時から里曳き、午後1時半から建御柱、3時半から餅投げ
 七久里神社は八幡社(主祭神が八幡神)で、建御名方命(諏訪神)が合祀されています。最近、秋季祭典の裸祭りが有名になり、今年テレビのダイドードリンコスペシャル「日本の祭り」で取り上げられる予定になっています。御柱祭は江戸時代後期に始まったとされ、竜東(下久堅、上久堅、千代)から天竜川をまたいで伝わったようです。
 御柱はモミ2本で、昨年12月、山本地区の南北の山林で1本ずつ伐採しました。直径75cmの大木で、長さは諏訪大社の一之御柱と同じ5丈5尺(約16.7m)です。現在は北の御柱、南の御柱と呼びますが、郷土誌『伊那』2004年1月号によると平成10(1998)年の時点では一の柱(男木)と二の柱(女木)で、二の柱を少し短くしていました。この年は里曳き当日の朝から山出しを行ったところ、一の柱が太過ぎて時間がかかり、里曳きで先に神社に着いた二の柱が待ちきれず、お神酒の勢いもあって先に神社に入ってしまいました。また以前は建てるのも人力でしたが、この年からクレーンを使うようになりました。
 4月3日の里曳きは北の御柱、南の御柱それぞれ午前中いっぱい山本区内を曳行します。田に落として引き上げたり、お神酒も手伝って大騒ぎになるそうです。里曳きでは公式に子どもや地区外の一般の参加を受け入れているので、曳いてみたい方はぜひどうぞ。
 平成20(2008)年に新設された中央道の飯田山本インターから神社まで車で3分くらいです。

16030702<飯沼諏訪神社> 飯田市上郷飯沼
 宵祭―――――――4月9日(土)
 里曳き・建御柱――4月10日(日)
  午前8時から里曳き
  11時半から二之御柱の建御柱
  午後2時から一之御柱の建御柱
  3時半から餅投げ
 飯沼諏訪神社の境内はかつて飯沼城の主郭だった場所で、段丘の先端にあります。境内直下をJR飯田線の上郷トンネル(飯田駅以北で唯一のトンネル)が通っています。現在は東側の段丘崖に石段が設けられ、こちらが神社の表の入り口になっています。私も高校時代に体育の授業でこの石段を駆け上がりましたが、今ではとても無理です。
 上記の知久氏が飯沼を領有した時代があり、諏訪社とのつながりを持ったことが考えられます。御柱祭は江戸時代に始まったとされ、諏訪大社上社から薙鎌と御符を拝戴します。
 御柱はモミ2本で、直径75cm、長さ18.5m。長さは諏訪大社の一之御柱を上回り、もしかすると日本一かもしれません。一昨年11月に野底山財産区有林で本見立祭を行い、昨年11月に本伐祭を行って伐採し、同月中に山出しを行って里曳き出発点まで運びました。
 4月10日の里曳きは約1kmのほぼ直線のルートを曳行して石段の入り口付近に曳き付けます。コースは前回まで3通りありましたが、今回から一本化して「御柱街道」と名付けました。
 飯沼諏訪神社の御柱祭の見所は何と言っても落差60m以上、309段の石段に沿って御柱を曳き上げる場面。この石段を曳き上げるのは大変なので、午前中に二之御柱、午後から一之御柱と2回に分け、全員で力を合わせて曳き上げます。右上の写真は石段を埋め尽くす曳き手たち。右下は御柱が曳き上げられる様子ですが、御柱が石段のわきを通っていることが分かると思います。ここに普段は雨水が流れる溝があるのですが、御柱祭のために、この溝が御柱の形と大きさに合わせた円弧状につくられています。
 石段の周囲は山桜が多く、ちょうど御柱祭の頃に満開になります。里曳きには獅子舞も出て御柱を先導します。
 上郷飯沼はリニア中央新幹線の長野県駅ができる場所です。品川―名古屋間が予定通り11年後の平成39(2027)年に開業すれば、次々回の御柱祭は駅から降りてすぐに見られることになります。

<野池神社> 飯田市千代野池
 小場出し―――――4月3日(日)
 里曳き・建御柱――4月10日(日)午前8時から里曳き、午後3時から建御柱・餅投げ
 江戸時代末期の天保15(1844)年に書かれた『二ノ宮野池大明神由緒書』に「寅、申七ヶ年毎に四月御柱之祭礼仕候」とあるので、その頃にはすでに御柱祭が定着していたと考えられます。
 野池神社は飯田市千代の山間の野池山のふもとにあります。かつては南山郷36か村の総鎮守だったとされ、御柱祭には現在の上久堅南部から泰阜村北部までを含む広い範囲の氏子が参加していたようです。千代公民館が発行した『千代風土記』(1983年刊)によると、明治22(1889)年に千代村と千栄村が合併して新しい千代村になった頃からだんだん千代地区独自の祭りになり、第二次世界大戦後には野池と芋平の2集落で行った時期があったものの、その後、再び千代地区全体の祭りになったということです。野池と芋平は野池山を取り巻く山間の集落です。
 御柱は杉2本で、直径55cm、長さ15m。昨年11月に野池山で元木祭を行って伐採し、米川付近まで下ろして皮を剥きました。2本ですが、前回の御柱を残して前々回の御柱を更新するので、常に4本が建っていることになります。昭和初期までは社殿の両横に建てていましたが、周囲の樹木の根が張って穴が掘れなくなったため、社殿の前に建てるようになったということです。縄打ちの日に御柱移しと木休めを行い、前々回の御柱を倒してそこに前回の御柱を移します。新しい御柱は前回の御柱があった場所に建てます。
 4月3日の小場出しで1kmほど下の里曳き出発点まで曳き出します。まずは小手調べといったところです。
 4月10日の里曳きは米川に沿って集落内を曳行します。かつては途中から米川に落として川の中を曳きましたが、河川愛護のため平成16(2004)年からやめたということです。ずっと道路を曳くようになり、この年から女性や子どもも里曳きに参加できるようになりました。
 野池神社は小高い場所にあり、坂にかかる手前で昼休み。午後から「東坂の曳き上げ」と呼ばれる見せ場になります。2本の御柱は男木と女木(やや小ぶり)で、女木は男木より前に出てはいけないことになっていますが、坂を上って神社が見えたあたりで女木がぎりぎりまで前に出て男木と競り合います。男木と女木の曳き子が入り乱れて練り合うため、「けんか祭り」とも言われます。
 御柱がこの辺まで来ると、神社から御柱迎えの行列が出て、この行列が御柱を先導して神社に入ります。

 …次回、残りの御柱祭を紹介します。

飯田周辺の御柱祭(上)

 「御柱祭と飯田お練りまつり」の記事で書いたとおり、諏訪大社の御柱祭と同じ寅年と申年の春、飯田周辺の神社30数社でもそれぞれ個別に御柱祭が行われます。江戸時代中期から始まってちょうど50回目という御射山神社(松川町上片桐)のように長い歴史を持つ地域がある一方、「面白そうだからうちもやろう」と平成に入ってから新しく始めた地域もいくつかあります。また牛牧神社(高森町牛牧)、伊勢神社(高森町上市田)では御柱祭そのものは古くから行われていますが、里曳きを行うのは今回が初めてです。
 長野県教育委員会の調査によると、昭和43(1968)年に確認された県下の御柱祭は271件(諏訪地域162件、それ以外109件)だったそうです。現在はおそらくそれより増えていると思います。郷土誌『伊那』を発行している伊那史学会の調査では、平成22(2010)年の飯田周辺の御柱祭は34件(ほかに同年のみ休止が1件)でした。
 飯田周辺の御柱祭で、文献史料などが残っていて始まった時期が分かっているものは次のとおりです。
 御射山神社(松川町上片桐)――――享保7(1722)年から
 知久平諏訪神社(飯田市下久堅)――天保元(1830)年から記録がある
 野池神社(飯田市千代)――――――天保15(1844)年より前から
 関口家諏訪大明神(飯田市千代)――嘉永(1848~53)年間から
 飯沼諏訪神社(飯田市上郷飯沼)――江戸時代から
 七久里神社(飯田市山本)―――――江戸時代後期から
 尾科諏訪神社(飯田市龍江)――――明治5(1872)年から
 和田諏訪神社(飯田市南信濃)―――明治17(1884)年から
 程野正八幡宮(飯田市上村)――――明治~大正の写真がある
 小野子諏訪神社(飯田市上久堅)――大正9(1920)年から
 竹佐伊奈神社(飯田市山本)――――昭和31(1956)年から
 関宮神社(松川町上片桐)―――――平成4(1992)年から
 春日神社(阿智村春日)――――――平成10(1998)年から
 小野子諏訪神社は昭和31(1956)年を最後に一時中断しましたが、昭和61(1986)年から若手の熱意で地域おこしのために復活しました(『上久堅村誌』には昭和62年と書いてありますが、この年は卯年で間違い。地元紙の記事で昭和61年だったことを確認しました)。柏原明神社(飯田市千代)も戦時中をはさんで一時中断し、戦後に復活したということです。
 御柱祭を行っているのは必ずしも諏訪系の神社に限らず、立石日枝神社(飯田市三穂)のように諏訪神(建御名方命など)とまったく関係のない神社もあります。もともと八幡社(主祭神が八幡神)で諏訪神が合祀されているところも、麻績神社(飯田市座光寺)、七久里神社(飯田市山本)、竹佐伊奈神社(同)、程野正八幡宮(飯田市上村)、牛牧神社(高森町牛牧)、鶴部八幡社(松川町上片桐)、市場神社(大鹿村鹿塩)などたくさんあります。逆に諏訪社(主祭神が諏訪神)で八幡神などを合祀している神社もたくさんあります。伊勢神社(高森町上市田)、秋葉神社(阿智村伍和)なども神社の名称から分かるとおり主祭神は諏訪神ではありません。
 変わっているのは市の沢諏訪神社(阿智村駒場)で、神事でなく長久寺の住職が読経します(神仏習合で寺院が神社を管理した江戸時代なら不思議でも何でもありませんが)。また関宮神社(松川町上片桐)はもともと御射山神社と氏子が重なっており、自分たちの地元でみんな参加して伸び伸びと御柱を曳いて楽しみたいという動機で始めたので、神事はないようです。

 諏訪大社の御柱祭は古代から行われていたと見られ、平安時代初頭、坂上田村麻呂が蝦夷征討を祈願して成就したお礼として、桓武天皇が信濃1国に諏訪社式年造営の永代課役を命じたといいます。この式年造営は、当初は社殿、玉垣、鳥居などすべての建造物を建て替えていたようですが、後に宝殿と御柱の建て替えになり、ともに現在まで続いています(御柱の始まりはもっとさかのぼる可能性があります)。
 鎌倉時代には源頼朝や北条氏が諏訪社を崇敬し、信濃全体の地頭に諸祭事の勤仕と費用を負担させる仕組みを強化しました。そのシステムは戦国時代まで続き、『諏訪御符礼之古書』(守矢文書)を見ると、御射山祭や五月会で伊賀良庄の小笠原氏、飯田の坂西氏、飯沼・阿島の知久氏、黒田の座光寺氏、市田の松岡氏、名子の大島氏などが御頭役を務めて多大な出費をしていることが分かります。もちろん式年造営・御柱祭も信濃全体の負担で行われました。
 この信濃全体で負担するシステムは戦国時代の武田家滅亡によって崩れ、江戸時代に入ると諏訪社は幕府から独自の領地を与えられ、祭事はもっぱら諏訪地域の負担で行われるようになりました。
 このような歴史を踏まえると、諏訪以外の各地の御柱祭は、信濃全体で諏訪社の祭事を負担していた時代が終わり、江戸時代に入ってから始まったと考えるほうが自然な気がします。ただ飯田周辺でも独自に御射山を持って御射山祭を行ってきた神社があり、御柱祭ともども、古くからの祭事についてはもっと研究しないと確かなことは言えません。

 御柱祭に際し、諏訪大社から薙鎌や御符を拝戴する神社があります。上でも引用した伊那史学会の平成22(2010)年の調査によると、薙鎌と御符を拝戴するのは御射山神社(松川町上片桐)、神護原神社(松川町元大島)、飯沼諏訪神社(飯田市上郷)、知久平諏訪神社(飯田市下久堅)、小野子諏訪神社(飯田市上久堅)、萩山神社(高森町下市田)、牛牧神社(高森町牛牧)、伊勢神社(高森町上市田)、また御符だけもらうのが尾科諏訪神社(飯田市龍江)となっています。昔は薙鎌をもらっていたが、今はもらっていないというのが野池神社(飯田市千代)、和田諏訪神社(飯田市南信濃)、鶴部八幡社(松川町上片桐)です。
 御符と薙鎌の目録は、すべて同じかどうか分かりませんが、私が写真で見たもの(複数)は次のような文面です。御符は御柱祭を行う地域に与えられ、一方、薙鎌は神社に与えられています。

16030502 「御符」
 (住所)○○郷
 本年外縣御頭番之事
 依恒例指定畢
 守旧規可勤仕者也
 (年月日)
 信濃国一之宮諏訪大社

 「薙鎌の目録」
 (住所)○○神社
 一、薙鎌壹口
 右故分社以當式年御柱大祭
 授與候也
 (年月日)
 信濃国一之宮諏訪大社

 この薙鎌は各神社で御神体として扱われます(諏訪大社では御神体として扱うことはありません)。今はそのまま神社でまつっておくところが多いようですが、知久平諏訪神社では薙鎌を御柱に打ち込んで地中に埋めます。それによって御柱が神になるわけです。御柱祭に関連する祭りとして、長野県内外(小谷村、石川県能登半島)の神社で薙鎌を生木に打ち込む祭りを行うところがありますが、これもそれによって木が神になるということでしょう(薙鎌は風鎮めの神器、また小谷村の薙鎌打ちは国境を示すという説が一般的ですが)。
 『豊丘村誌』には、明治42(1909)年に足倉諏訪社(豊丘村河野滝川の山中の小祠)で赤松の大木を伐採したところ、木の中から薙鎌2つと鉄剣が出てきたという話が書かれています。この薙鎌は諏訪大社の天正時代のものと様式が一致するということです。
 各地の御柱祭の歴史の解明はまだ進んでいませんが、文献史料などの掘り起こしとともに、各地の神社に残っている薙鎌の鑑定などを行うと、何か分かるかもしれません。また体系的に各地の御柱祭の共通点と相違点を整理するだけでも、何か分かってくるのではないでしょうか。
 (右上の写真は萩山神社御柱祭の里曳きで段差のある泥田の中を通る場面です)

 長野県内で御柱祭を行っている地域には濃淡があり、諏訪以外では南信の飯田市以北、北信の長野市周辺などが特に多いようです。飯田周辺では北部と東部に規模の大きな御柱祭が多く、西部も国道153号に沿って愛知県境の根羽村まで見られますが、南部の阿南町、下條村、天龍村などにはまったく見られません。こうした地域的な濃淡には、次のような理由が考えられます。
(1)領主や土地が諏訪社と関係が深かった地域では古くから行われている――飯田周辺では北部の片桐氏や東部の知久氏などが諏訪氏や諏訪社との関係が深かったため、それらの地域の神社は古くから諏訪社の神器である薙鎌を拝戴し、御柱祭も早く始まったことが考えられます。
(2)近隣のまねをして始めた地域と、まだ伝わっていない地域がある――最近でも新しく始める地域があるくらいなので、昔からそうだったのでしょう。近隣地域で御柱祭のやり方に共通性が見られることからも、それが裏付けられると思います。一方、まだ伝わっていなかったり、また何らかの事情でやりたくてもできなかった地域もあるのかもしれません。
(3)お練り祭りがあるので御柱祭は行わない――飯田市中心部(大宮諏訪神社)です。(2)の関連で、これが壁になって御柱祭が南部に伝わっていないのかもしれません。飯田のお練り祭りが御柱祭と同じ寅年と申年に行われるようになったのは享保19(1734)年から(それ以前は3年に1度)で、御射山神社(松川町上片桐)の御柱祭が始まったのはその12年前なので、飯田のお練り祭りは御射山神社の御柱祭をまねて6年に1度にしたとも想像できます。
(4)過去には行われていたが、途絶えてしまった――上記の足倉諏訪社の例にも見られるように、知久氏の領地だった豊丘村など古くから諏訪社と深いつながりを持っていた地域では、何らかの祭事が行われていた可能性があります。

 飯田周辺では、御柱の本数は4本が4社、2本が22社、1本が9社で、各社4本に決まっている諏訪と違い、2本のところが最も多く、1本のところも少なくありません。本数は御柱の意味にも関連し、本来の姿は1本だという説もあります。
 1本のところでも、和田諏訪神社(飯田市南信濃)、神坂神社(阿智村園原)、月瀬神社(根羽村)、黒地若宮社(同)では前回の御柱をそのまま残して前々回の御柱を更新し、常に2本が建っていることになります。また2本の野池神社(飯田市千代)でも、前回の御柱を残して前々回の御柱を更新するため、常に4本が建っている形になります。
 御柱は大きい順に一之御柱、二之御柱…とするのが普通ですが、野池神社、小野子諏訪神社(飯田市上久堅)などでは2本を男木と女木とし、里曳きの途中で面白いこと(?)をします。

 飯田周辺の御柱祭は、祭りの規模や御柱の大きさも大小さまざまです。
 氏子の参加範囲で見た場合、最も大きいのは上下伊那をまたぐ旧片桐郷7か村が集まる御射山神社(松川町上片桐)です。御柱祭には多くの人数が必要なため、中山間地ではだんだん参加範囲が広がる傾向が見られます。一方、10戸くらいしかない集落でずっと継続しているところもあり、それはそれでアットホームな雰囲気で楽しいようです。小さいほうでは、数人の氏子総代などだけでやってしまい、地元でもあまり知られていないところもあります。また諏訪地域の小宮祭と同様に個人の氏神や、岩にまつった祭神(根羽村堂の入)に御柱を建てる例もあります。
16030501  日程面でも、飯沼諏訪神社(飯田市上郷)のように前々年の見立てから始まって時間をかけるところがある一方、1日で伐採から建御柱まで全部やってしまうところもあります。
 内容的には、大々的に獅子舞や踊りなどの余興を行うところや、春祭りに合わせて行うところがあります。葦原神社(大鹿村鹿塩梨原)では6年に1度、御柱祭の時だけ歌舞伎を行います。また最後に餅投げを行うところが多く見られます。
 御柱の大きさはやはり御射山神社が最高で、諏訪大社でも一之御柱として通用する直径1m超(目通り周囲323cm)のモミの大木が出たことがあります。それに次いで、飯沼諏訪神社、七久里神社(飯田市山本)、神護原神社(松川町元大島)、小野子諏訪神社(飯田市上久堅)、程野正八幡宮(飯田市上村)などでは直径70cm超の大木が出ることがあります。長さは長いもので15m以上で、最高は飯沼諏訪神社の18.5mです。逆に最も小さなものは直径10cm、長さ5mで、人が乗ったりはできません。(写真は里曳きを待つ今年の飯沼諏訪神社の御柱です)
 昔はどんな大きな御柱も人力で建てましたが、今は建御柱にはクレーンを使うところが増えています。
 あと変わったところで、下ノ宮諏訪神社(飯田市松尾代田)と明神社(喬木村阿島)では、根のついたヒノキを御柱として神社に運んで植樹します。
 里曳きのコースもさまざまで、わざわざ道路を外れて田畑を通ったり、川越しをするところもあります。また飯田周辺は神社が段丘の上にあることが多いため、最後に坂道や石段の曳き上げをするところが多くなっています。その典型が飯沼諏訪神社で、巨大な御柱を落差60m以上、309段の石段に沿って曳き上げます。

 諏訪大社の御柱祭のことを「天下の奇祭」と言うことがありますが、これは天下に知られた大きな祭りの中で他に例を見ない独特の祭りという意味でしょう。内容が奇妙な祭りなら、他にもっと奇妙で意味不明な祭りが全国各地にいくらでもあります。
 御柱の意味については依り代、四方の守り(四神)、境界、結界、縄文建築など20以上の説があるそうですが、解釈はどうにでもでき、解明することは不可能なので、並べて考えてみても仕方がありません(柳田国男が言った通り社殿造営の代替などではありえないと思いますが)。しかし、この祭りが現在も途絶えることなく続けられている今日的な意味は、祭りそのものを見れば明らかです。
 飯田周辺の木遣り唄にも「奥山の大木が里に下りて神となる」とあります。元々そこに「神がある」のではなく、多くの人にまつられることによって奥山の大木が「神となる」わけです。
 大木を立てるのは、どれだけ多くの人が力を寄せ合ったかを示す象徴であり、地域の力を示すシンボル。御柱は地域の力の結集を示すもので、それが御柱祭を行うことの意味なのだと思います(もう1つ付け加えるなら、そういう大木のある山を守り続けているということも)。

 …次回、飯田周辺のおもな御柱祭の日程や特徴について紹介します。

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