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橋北屋台囃子と飯田・華の踊り屋台

 前回の記事で紹介した47出演団体の中から、今回は要注目の復活2題、「橋北屋台囃子」と「飯田 華の踊り屋台」について書きます。

 まず「橋北屋台囃子」ですが、「橋北」というのは、飯田城下町18か町のうちの5町(伝馬町一・二丁目、桜町一・二・三丁目)と、その周囲の侍屋敷や寺社などのあった町をあわせた地区の名前です。飯田市街地を南北に分けている谷川の橋の北側なので「橋北」と呼ばれています。この5町は元々は、安土桃山時代~江戸時代初期に新しい街道の出入り口につくられた宿場町(伝馬宿)でした。ちなみに城跡と城下町の残り13町(城の追手門前の町屋の区画)とその周辺は、橋の南側なので「橋南」地区です。
 「御柱祭と飯田お練りまつり」の記事で少し書いたとおり、戦前のお練り祭りは各町のお囃子や演芸がメインでした。そして江戸時代からずっと祭りの出し物を担ってきたのは各町の青年組織でした。
 囃子屋台に入ろうという若者は、半年も前から師匠について三味線、笛、小鼓などの練習をしたといいます。正月が明けると町内ごとに若者たちが出し物の相談をしながら集団練習を始め、2月になると子どもたちも加わってお囃子や踊りの練習をしました。
 本番が近づくと囃子屋台や踊りの町内ならしを行い、子どもたちは有力者の座敷回りをして踊りを見せました。さらに祭りが終わってからも、「狐落とし」と称して花見の頃までやっていたというのだから、のん気な時代です。そんな調子だから、若者の中にはプロ並みの腕を身に付ける者も出てきたということです。
 そんな時代にあって、とりわけ芸達者で他の町から一目置かれていたのが青龍青年(伝馬町二丁目)でした。当時、青龍では代々太鼓をたたく家が決まっていたといい、誰でもやらせてもらえるものではなかったようです。他に橋北では雲龍青年(下小伝馬町)、大王青年(大王路町)、桑弓青年(浜井町)などの囃子が上手だったと言われています。この青龍、雲龍、大王、桑弓というのは各町の源氏名で、飯田の中心市街地とその周辺のいくつかの町はそれぞれ歴史にちなむ源氏名を持ち、祭りの時などに使っています。
 そのようにして続いてきたお練り祭りの出し物ですが、昭和30年代から青年組織が急激に衰退し、本町三丁目の大名行列など一部を除いて、戦前のような各町の出し物は見られなくなってしまいました。戦後も各町には年長の経験者がいてお囃子そのものが消えたわけではありませんが、お練り祭りへの参加はありませんでした。
 昭和22(1947)年の飯田大火で屋台などが焼失した影響もないとは言いませんが、お囃子などがなくなった理由は、そういう物理的な問題よりも、青年組織の衰退や商店街の退勢といった主体の側の変化のほうが大きいと思います。火災は江戸時代から何度もあり、明治時代初期に屋台を新調した例もあり、豪華な本屋台はともかく、囃子屋台くらいなら作ることはそんなに困難ではないはずですから。
 昭和30年代から知久町、銀座、中央通り、橋北の4連合商栄会はそれぞれまとまって出し物を出す形になり、橋北は昭和55(1980)年から前回の平成22(2010)年まで6回連続で福島県会津東山温泉芸妓組合の「会津の白虎隊」を招いていました。ほとんど常連に近い出演回数で、けっこうファンもいたようです。

 この橋北では、かつて名声を博した青龍青年のお囃子を後世に残そうと、前回のお練り祭りの後、平成22(2010)年度から橋北地区伝統文化保存継承プロジェクトを立ち上げ、長野県「地域発 元気づくり支援金」、飯田市「ムトス飯田助成事業」の助成金も得て、屋台囃子復活継承事業に取り組んできました。残っていた昭和30年代の録音や譜面をもとに、和太鼓奏者・塩原良さん(高森町)の協力で「青龍」の曲を復元し、太鼓、笛、鉦をそろえ、教室を開いて練習しました。教室には子どもから大人まで40人ほどが参加し、現在は「橋北新囃子」など新曲も習得してお練り祭りに備えています。
 戦前のような「自ら演じるお練り祭り」の復活を目指す活動で、かつてお囃子などを出していた他の町内でも負けずに同様の動きが起きることが期待されます。
 「橋北屋台囃子」は26日と27日に出演します。

 次は「飯田 華の踊り屋台」で、これは戦後のお練り祭りの華だった飯田の芸妓さんたちの踊り屋台を再現するものです。
 飯田では明治10年代半ば頃から県外から芸妓さんが移り始め、明治19(1886)年に芸妓置屋を設置することが認可されました。その後、大正時代半ばにかけて芸妓さんの数が増え、最も多い頃は200人前後いました。芸妓さんは料亭などで歌舞音曲を披露し、花柳界を形成して飯田の文化の1つになりました。芸妓さんの出身地は飯田周辺が3分の1くらいで、名古屋、次いで東京から来た芸妓さんが多く、新潟から来た芸妓さんが増えた時期もありました。
 明治時代に最初に花街になったのが伝馬町界隈、つまり上記の橋北地区で、日頃から住民の耳にも音が聞こえる上に、芸妓さんは若者たちに演奏を教える先生役にもなったので、この頃から橋北のお囃子が上手になったのではないかと思います。
 この花街はなぜか橋南の旧城下町の周囲を反時計回りに移動していってようで、北の伝馬町から西の大横町を経て東の扇町に移り、最後に飯田城が壊された跡にできた常盤町、追手町に移りました。今でも常盤町界隈に料亭が残っているのはその頃の花街の名残りです。
 お練り祭りには、戦前も大正時代中期に「下常盤町の芸者連の立ち三味線」などが出た記録が残っています。
 戦後、昭和31(1956)年のお練り祭りに初めて「飯田料芸組合の囃子屋台」が参加し、当時の芸妓さんたち40余人と花柳界の師匠たち、料亭の旦那衆がお囃子道中をしました。囃子屋台に三味線、大太鼓、小太鼓、鼓、笛の10余人が乗り、まず常盤町を出発して華やかに銀座、伝馬町、桜町を進み、若い衆が総がかりで大宮諏訪神社の石段を曳き上げて拝殿まで上ったそうです。それからお練り祭りの3日間かけて全町をながし、通りで所望に応じて踊りを見せました。
 芸妓さんの数は徐々に減って、昭和49(1974)年のお練り祭り当時で31人。本番の2週間くらい前からお座敷の合間を縫って稽古し、飯田音頭、飯田奴音頭、東京音頭の替え歌など10余の踊りを出しました。この年から、屋台を曳く男手が足りず、トラックの荷台をお囃子の仮設屋台にしたということです。
 この「飯田料芸組合の囃子屋台」は昭和61(1986)年まで6回連続で出演しましたが、芸妓さんの減少などのため平成に入ってからは途絶えてしまいました。
 現在はコンパニオン全盛で、新しく入る人もなく、飯田に残っている「おねえさん」は数えるほどです。でも今ならまだ祝舞など見せてもらうことができるので、機会があればお座敷やお祝いの会などにお呼びください。

 芸妓さんの数が残り少なくなる中、なんとか飯田の花街文化を後世に伝えようと、日本舞踊、三味線、琴の師匠などが集まって3年前に「芸能伝承 今昔小町の会」を結成しました。この会は飯田市の名勝天龍峡にある「龍峡亭」(女将さんが花柳流の師匠)を舞台に「和遊楽」というイベントを開催し、一般の人が邦楽や花街文化に親しむ機会をつくってきました。その一つとして昨年10月には東京品川の芸妓置屋「まつ乃家」の芸者さんたちを招いて、飯田と品川の芸能とお座敷遊びを楽しむ会を開きました。
 こうした縁があって、今回のお練りまつりに「芸能伝承 今昔小町の会」が「飯田 華の踊り屋台」を出し、「まつ乃家」の芸者さんたちも参加することになりました。「飯田料芸組合の囃子屋台」の出演が昭和61(1986)年を最後に途絶えてから、ちょうど30年ぶりの復活になります。
 今回は芸妓さんたちだけでなく一般からも踊りと三味線の参加者を募集し(締切済み)、飯田奴音頭、伊那節、飯田古意めいぶつ唄などを踊ります。
 品川はリニア新幹線の出発点で、飯田は長野県駅ができる場所。2027年には40分ほどで結ばれる見込み(現在は高速バスで飯田―新宿が4時間15分)で、こうしたことも新しい交流の動機につながっているのかもしれません。
 「飯田 華の踊り屋台」は26日に出演します。

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