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旧暦の大晦日と節分(9)

 前回の記事のつづきで、「旧暦の大晦日と節分」の最終回。これは完全におまけで、あれこれ調べている間に拾った話を並べておきます。

<江戸時代まで地方に残っていたかもしれない追儺の古俗>
 江戸時代中期の儒者・中村国香が書いた地誌『房総志料』(巻四・上総附録)に、「夷隅郡夷北村の俗に、清明の候に童部集り、木刀・竹鎗など云ふ物持ちて、鬼の仮面を装へる童を立て、金鼔を鳴し、跡より逐ふ。悪鬼を退治すと。是則、追儺の古俗。いかにして、かヽることの残れる」という記述があります。
 清明は二十四節気で春分の次で、桜の花が満開になり、そして散っていく時期。この子どもたちの行動はどう見ても追儺ですが、まったく偶然に追儺と同様の遊びをしていたのでしょうか、それとも平安時代の京の追儺が地方に伝わって、江戸時代まで子どもの遊びのような形で残っていたのでしょうか。

<柊鰯・焼き嗅がし>
 柊鰯の由来に関連して必ず引用されるのが紀貫之の『土佐日記』(935年ごろ)で、平安時代中期、京の都で正月のしめ縄に鯔(ボラ)の頭と柊をつけていたという話です。これが後の柊鰯につながるものなら、柊鰯の元となる風習は豆まきよりはるかに前から日本にあったことになります。けれども、そもそもその起源は何かということや、その後、どういう経緯で節分の柊鰯になったのかということは分かりません。
 『土佐日記』の鯔の頭について、江戸時代末期の『比古婆衣』(巻三)では、『日本書紀』(神代下・第十段)の口女(ボラ)の口から鈎が出たという故事によるのではないかと書いています。面白い説ですが、単なる想像の域を出ない感じです。
 柊鰯は「焼き嗅がし」「焼い嗅がし」とも呼ばれます。信州の最南部から愛知県の三河にかけて、「焼っ嗅がし」と呼ぶ地域もあります。読んで字のごとく、強いにおいの出るものを焼いて戸口に立て、鬼を遠ざけるおまじないです。柊でなく豆殻を使う地域もけっこう多く(両方使う場合も)、ほかの木の枝や普通の串の場合もあるようです(尖っていれば何でもいいのでしょう)。またイワシに限らずニンニク、ラッキョウなどを使う場合もあるそうです。
 京都を中心に関西、西日本では今でもイワシが節分の食べ物になっています。身のほうは食べて、残った頭を柊鰯にするということでしょうか。

<虫の口焼き>
 農村地域では節分に「虫の口焼き」という風習がありました。これは、イワシを焼くときに唾を吐きかけ、作物の害虫を退治する言葉を唱えるというものです。その言葉の形式は、「稲の虫の口焼き、麦の虫の口焼き、○○の虫の口焼き…」と作物の名前を並べていきます。地域によって「○○の虫の口もジリジリ」、「○○の虫もバリバリ」などさまざまな形があります。
 信州では「米の虫もじゃじゃ、菜の虫もじゃじゃ、粟の虫もじゃじゃ…」と唱え、イワシの頭を焼く時だけでなく、豆を炒る時に唱える地域があるようです。また、どういう由来か分かりませんが、虫封じのまじないに、紙に「十二」と書いて張る風習もあるそうです。6×4(むし)=24だから、「十二」は虫を2つに切ったという意味でしょうか(いま思いつきました。全然違うかもしれません)。
 ちなみに私は「虫の口焼き」も「十二」のまじないも実際に見たことは一度もありません。

<豆占い>
 これも農村地域の節分の風習で、全国的にあります。節分の豆を12粒(旧暦で閏月がある年は13粒)選んで囲炉裏の熱い灰に並べます。豆が白い灰になったらその月は晴れ、黒く焦げたら雨、ころがったら風、という感じで月ごとの天候を占います。農村地域からも囲炉裏が消えるとともに、この風習も失われてきたと思われます。

<初雷>
 節分の豆をとっておいて、立春を過ぎて初めて雷が鳴った時に食べると、風邪をひかないとか落雷の被害を避けられるとか言われています。安土桃山時代~江戸時代初期の公卿・西洞院時慶が書いた日記『時慶卿記』の慶長10(1605)年2月25日に「初雷ナレバ節分大豆ヲ用」とあるなど、相当古くからある風習で、全国に広がっているようです。ちなみに俳句では「初雷(はつらい)」は春の季語です。

<魔目・魔滅>
 節分の豆まきの由来について、「マメ」が「魔目」や「魔滅」に通じるからという説明をしばしば見聞きします。「魔」はサンスクリット語に起源があり、もともと仏教で使われる言葉なので、お寺さんが広げた語呂合わせではないかという気がします。日本語には基本的にしっくりきません。
 これに比べると、豆を「炒る」のは「射る」に通じるから、というのは気が利いている感じです。

<撒豆節>
 豆まきの由来に関連して、中国の節分や立春の行事を調べていた時、「撒豆節」という言葉が目に入って、「おー、中国にも豆をまく風習があるのか」と思ったのも束の間、これは日本の節分行事を説明するために中国で使っている言葉でした。中国には豆をまく風習はないようです(一部には撒豆や撒米があるのかもしれませんが)。
 とある中国関連サイトを見ていたら、「大豆のような貴重な食べ物を投げてしまって良いのかという素朴な疑問も残る。(略)食べ物を投げるという行為は、どうしても日本の文化や日本人の精神構造として、そぐわないような気がしてならない」と書かれていて、今更ながら「そうだよなー」と思ってしまいました。大豆でなく落花生をまき、あとで拾って食べるという地域もありますが…。

<厄払い>
 節分の夜、街中を「厄払いましょう」と呼んで歩き、厄年の人がいる家で銭をもらうかわりに祝詞をのべ、最後に鷄の鳴き真似をします。江戸時代に広がって、節分だけでなく大晦日や1月6日、1月14日まで行われた時期があり、群れをなして街中を歩いていたとか。これも江戸時代の文献に書かれていて、江戸、京、大阪の3都にそろってあり、地方でもありました。明治時代末期まで見られたそうです。
 祝詞はいろいろあり、年ごとに工夫もしたようですが、「厄払い」という落語の中にその1つの形が残っています。私は昨年、TBSチャンネル「落語研究会」の桂米朝さん追悼の回で、ありし日の米朝さんの名演を聞くことができました。

   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 …やっと終わりました。いやいや、てこずりました。
 元はというと、大晦日の「お年取り」の記事を書いた時に「年取りイワシ」のことがよく分からなかったのが発端でした。そのうちに、追儺は意味から見れば節分の行事のはずなのに、なぜ昔は大晦日に行ったのかという疑問に移行しました。日本人は飛鳥時代にはすでに暦(太陰太陽暦)と二十四節気のずれをきちんと知っていたので、「旧暦では立春の頃が正月だったから」というような単純な説明で済む話ではありません。いろいろ調べているうちに中国の『通典』にたどりついて、なんとか答えが見つかりました。
 追儺の疑問が解けた後、節分について書こうとすると、これがまた謎だらけの行事で…。豆まきの由来1つとってもまだまだ謎が解けていないので、今後も調べてみたいと思います。
 1回公開した記事でも、後から新しいことが分かると反復的に手直ししました。これからも手直ししたり書き足したりすることがあると思います。

 今回、ネットで調べ始めてみると、特に追儺については、いい加減なことを書いているサイトや、それをそのままコピーしているサイトがあまりにも多くて、余計な手間がかかってしまいました。途中でこれはおかしいと気付き、問題のある情報を排除して最初からやり直し。結局、可能な限り原典にさかのぼって調べ直しました。
 ネット上に和漢の古典籍や研究論文のデータベースがあって助かりました(いい時代です)。また個人サイトの中にも良質で参考になるところがいくつかありました。時間がかかって苦労しましたが、自ら学びて考える、また楽しからずや、という感じです。

 思わぬことに入れ込んで、あまり信州や飯田と関係のない話を長々と書いてしまいました。まあ、ちょうど節分なので、いいことにしましょう(してください(^-^;)。
 本当は正月明けに「新野の雪祭り」(1月14~15日)のことを書く予定だったのですが、もう2月になってしまいました。そう言えば「新野の雪祭り」の主役「幸法(さいほう)」は、面も装束も持ち物も「方相氏」に似ているなあとちょっと思いました。けれども「新野の雪祭り」は京の都の追儺のようなインスタントな行事ではなく、内容の濃さが段違いです。「新野の雪祭り」の話は、また来年書きます。

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