« 御柱祭と飯田お練りまつり | トップページ | 飯田お練りまつり出演団体 »

大名行列と東野大獅子

 飯田お練りまつり(3月25~27日)では今回も47団体が演技を披露しますが、まずその中でメイン中のメインとなる「大名行列」と「東野大獅子」を紹介します。なお飯田お練りまつり公式ホームページでは少し動画が流れるので、そちらで大名行列の雰囲気や東野大獅子の大きさを感じてみてください。

16021201 「大名行列」は飯田城下町18か町の1つである本町三丁目の出し物。江戸時代の参勤交代で使われた本物の道具(全部ではありませんが)を使い、さまざまな所作を見せます。本町三丁目大名行列保存会ホームページに歴史と道具、所作、掛け声についての説明があり、明治~昭和中期の貴重な写真も載っています。
 本町三丁目は、江戸時代のお練り祭りでは屋台と奴踊りを出していましたが、慶応2(1866)年の火災で屋台を焼失。そこで奴踊りではなく本格的な大名行列をやろうと、大政奉還(1867年)から廃藩置県(1871年)までのごく短い間に千載一遇とも言うべきチャンスを得て、東京の大名屋敷から行列道具を買い入れました。
 大名家との間を仲介したのは、本町三丁目の小さな醤油屋に生まれた薄井龍之という人物。薄井は京都で頼三樹三郎から儒学と詩文、江戸で佐久間象山などから兵法を学び、水戸人士と交流して勤王の志士になり、天狗党の筑波山挙兵に加わって参謀役を務めました(和田峠の戦の後、郷里の飯田を通ることに賛同できず離脱。ちなみに天狗党には「天下の糸平」こと田中平八も加わっていたという面白い事実もあります)。明治維新に際し新政府軍で新兵の訓練をしたり、明治元(1868)年6月から戊辰戦争に軍監として従軍し、会津戦争後、同年11月から明治政府の官吏になりました。明治3(1870)年4月から開拓使で札幌のまちづくりにあたり、「薄野(すすきの)」の名称は薄井の1文字を取ったものとも言われています。その後、地方の官吏や判事を歴任し、名古屋裁判所長、秋田地方裁判所長などを務めました。幕府に捕まって脱獄したり、刺客に襲われて重傷を負ったり、37回も戦って身体中に17の傷があったり、逸話も多くて立派にドラマの主人公になる人物です。その薄井が官吏として落ち着くまで、飯田に残した母親が地元の人々の世話になったことから、感謝のために大名行列の道具の入手を仲介したといいます。
 道具を買い入れた時期について、『飯田のおねり祭り』(烏寒三郎著、山村書院1938年刊)には「明治元年三月二十一日に板屋金兵衛といふ者が酒井雅楽頭(近江彦根城主)から金八両三分也で買受けた」とあり、『下伊那20世紀年表』(新葉社1996年刊)もこれを踏襲していますが、明治元(1868)年3月は戊辰戦争の真っ最中(江戸城無血開城の直前)で、江戸が戦場になりかねない危険な時期なので、間違いだと思います(『飯田のおねり祭り』の記述は買い入れ先も金額も間違っています)。薄井が東京に落ち着いて母親を呼び寄せたのは、会津戦争が終ってから北海道に行くまでの間のはずで、道具の買い入れもその時期と思われます。
 買い入れに成功したのは小浜藩(若狭10万3千石、酒井氏)、仙台藩(陸奥ほか62万石、伊達氏)、姫路藩(播磨の一部15万石、酒井氏)の道具で、その品揃えは百万石の格式に相当すると言われます。道具を運ぶ費用は八両二分だったと伝えられていますが、買い入れ金額は記録がなく、大名家の立場に配慮して極秘にしたとされています。
 これらの道具は町内の土蔵に保管されていましたが、昭和22(1947)年4月5日に今宮郊戸神社の土蔵に移したところ、その2週間後に飯田大火が起きて元の土蔵は全焼、危ういところで焼失を免れました。何しろ年代物で保全が難しいため、その後も保管場所が問題になりましたが、現在は飯田市美術博物館に保管されています。
 行列の所作や芸は、明治11(1878)年に東京から先生を招き、今宮郊戸神社の原っぱで本町三丁目の住民総出で1か月かけて指導を受け、身に付けたといいます。江戸時代末期の大名行列は、いよいよ江戸に入るという時だけ本格的に人数と道具をそろえた行列を仕立てており、江戸にそれを請け負う業者があったということです。飯田に招いた先生も、元々そういう仕事をしていた経験者でした。

 大名行列はお練り祭りには明治5(1872)年から1回も休まず参加し(戦時中で祭りが行われなかった昭和19年を除く)、今回で24回目になります。
 行列は化粧傘を先頭に先箱、台傘、槍(黒車熊、天狗車熊、伊達、白車熊、富士形、大車熊、蓬莱大鳥毛)、草履・傘が続き、ほかに子どもたちが演じる御徒士・鉄砲組・御弓・鷹匠、若い娘たちが演じる薙刀・御駕籠・茶匠・腰元がつきます。このうち江戸時代からの本物の道具は、先箱(文書等の箱、2箱)、黒車熊(頭に熊の毛がついた槍、8本)、伊達(頭に椀形がついた槍、2本)、蓬莱大鳥毛(蓬莱山を表す飾りがついた槍、1本)です。
 現在、化粧傘を担当している方は平成16(2004)年から務め、今回で3回目になりますが、今回を最後に後継者にバトンタッチする予定だということです。
 また行列の前に天覧旗を立てますが、これは大正8(1919)年に東京の奠都50年祭に招待され天覧を賜ったしるしです。東京の主催者側が、天覧にふさわしい大名行列を探して長州、水戸、甲府などを見て回った後、飯田で試技を見て一目で気に入り即決したということです。本番では沿道が見物人で埋まり、神田で陸橋に人が上がり過ぎて壊れる騒ぎがあったと伝えられています。
 一方、昭和22(1947)年、飯田市制10周年記念行事に特別出演する話が出た時には、GHQに武家時代のものなどとんでもないと叱られて、取り止めたという話が残っています。
 行列の見所はまずは「道中行列所作」で、「エーハーリーワサーートーナー」といった独特の掛け声にあわせ、動きをそろえてゆったりと進みます。途中、天狗車熊、白車熊、富士形の槍は、3人1組で2本の槍を投げては受ける道中受け渡しがあります。
 さらに続く見所として「所望所作」があり、重い飾りのついた槍を回す力技、軽快な草履と傘の演技など、さまざまな所作や芸を見せます。
 左上の写真は道中行列所作で、行列の最後尾近く。見えている槍が蓬莱大鳥毛です。左下は草履と傘の所望所作で、草履を高く投げ上げてキャッチするのが1つの見せ場です。
 本町は江戸時代は飯田城の追手門からまっすぐのびる城下町のメインストリートで、明治以降も昭和中期までは問屋街として隆盛を誇りました。また本町三丁目は江戸時代から漆塗り椀の生産が盛んで東海地方の宿場などに大量に出荷し、そのほか大工、建具なども含め多くの職人が暮らしていました。
 前回の記事でも書いたとおり、本町三丁目は戦後に世帯数・人口が減少し、昭和40年代には大名行列の存続が危ぶまれる状況になりました。外部に応援を頼んだりしてみたものの練習にも顔がそろわない始末で上手くいかず、まだ町内に40戸ほどあった時代には何とか基本的に町内だけの力で、あとは市の職員が数人と近くの子どもたちが応援に入るくらいで続けていたようです。
 その後、平成に入った頃から、練習にも真面目に取り組む熱心な応援者が増えてきて、大名行列の公演を助けるようになってきました。本町三丁目は最近ではわずか10数戸しかない小さな町内になりましたが、こうした理解者の協力も得て、全国に誇る大名行列の継承を図っています。
 天覧公演で日本一の折紙が付けられた大名行列、ぜひ飯田お練りまつりで本物を見て、「日本一!」と声援をおくりましょう。

 「東野大獅子」は大宮諏訪神社の宮本である東野地区の出し物です。
 獅子舞というと全国に多く見られるのは1人か2人で舞うものですが、飯田周辺に多いのは大型の屋台獅子で、東野大獅子もその1つです。胴体は屋台の上に竹を半円形に曲げた骨組みをつけて幌をかぶせたもので、その中に舞い手と交代要員、太鼓・笛の囃子が入ります。小さいもので10数人、大きなものだと40~50人が胴体に入っています。東野大獅子は特に大きく、頭から尾まで長さ25m、背中の高さは3m以上あります。今年は18年ぶりに幌を新調しています。
16021203 東野大獅子では獅子曳き役の「宇天王」が獅子の前に立ちます(地元では昔から「王様」とか「大王」と呼んでいます)。宇天王は手綱を手にして舞うように獅子を操り、獅子はそれにあわせて起きて暴れたり鎮まったりします。宇天王の優美な所作と大獅子の勇壮な舞が見所です。
 東野大獅子を含め、この地域の屋台獅子は、高森町(飯田市の北隣)に伝わる大嶋山瑠璃寺の獅子舞を源流としています。この獅子舞は賑やかな神楽獅子とは異なる優雅な趣きが特徴で、宇天王の所作は舞楽の舞と共通するとされ、学術的にも注目されています(これらの獅子舞の話はまた改めて書きます)。
 前回の記事で書いたとおり大宮諏訪神社は慶安3(1650)年に整備され、慶安5(1652)年に最初のお練り祭りとされる祭礼が行われましたが、この時に獅子田楽が出たという記録があり、東野の獅子舞もこの種のものだったと考えられています。明治時代半ばまでは屋台獅子ではありませんでした。
 「大獅子」になったのは明治35(1902)年からで、当初は竹を籠のように編んで縦横1.6mの巨大な籠獅子を作りました。これは本町三丁目の大名行列に対抗して、何か珍しい大物を出そうと考えた結果、生み出されたものだそうです。当時の写真が残っていて、確かに大人の身長に近い巨大な頭で見物人が大喜びしそうです。宇天王の登場は明治41(1908)年からで、上荒町(中央通り)にいた井出市蔵という彫刻の名人に彫ってもらったといいます。
 その後、大正3(1914)年のお練り祭りに向けて、関係者の親戚がいた高森町牛牧から本格的な獅子舞を習い、大嶋山瑠璃寺の獅子舞の流れを汲む優美な舞を取り込みました。さらに大正9(1920)年に向けて、名古屋に大きな獅子頭を発注して買い入れました。出来上がって届いたところが飾り用の巨大な獅子頭で、高さ60cm、幅63cm、重さ30kgもあり、とても操ることができないので、内側を削って重さを18kgくらいにしたといいます。
 18kgといえば、よく使う18リットルの灯油用ポリタンクに水を一杯に入れた重さなので、想像してみてください。非常に力がいるため舞い手は筋トレをして練習を重ねますが、それでも長くは続けられないので、本番中は胴体の幌の中で頻繁に交代します。
 この獅子頭は昭和49(1974)年まで使い、現在は飯田市美術博物館に保存。昭和55(1980)年からはまったく同じ大きさで作った2代目の獅子頭を使っています。

 東野大獅子はお練りまつりの前日、「大門口の舞」で6年の眠りから覚め、その日は地元で町内ならしをします。3日間の本番では、「大門口の舞」のほか最も基本の「道中起こしの舞」や、明治時代の大籠獅子の舞だったという「まだかの舞」などを舞い、1日の最後には他では見られない独特の「寝かしの舞」を舞います。祭りの最後に大宮諏訪神社に戻って奉納の舞を行い、夜の境内で名残りを惜しむように100人以上の舞い手全員が交代しながら長時間にわたって舞い続け、最後に大あくびをして大獅子は再び眠りにつきます。
 6年に1度しか目を覚まさない門外不出の東野大獅子ですが、これまでに長野冬季五輪の閉会式(1998年)や、飯田市で開催された第13回全国獅子舞フェスティバル(2010年)に要請を受けて特別公演を行い、今年は6月5日に長野県で行われる全国植樹祭の記念式典アトラクションに参加して天皇皇后両陛下の前で演技を披露することが決まっています。地元以外の遠征公演は長野五輪以来18年ぶり。これらはいずれもお練りまつりと同じ年だからできたことで、大勢の協力が必要なだけでなく屋台づくりや練習にも時間がかかるため、通常は飯田お練りまつり以外で目にすることはできません。

 …6年前に撮ったはずの写真がなかなか見つからず、アップするのが遅れてしまいました。パソコンを交換した時にDVDディスクに移して変な場所にしまってあり、やっと見つかりました。
 2月1日に開かれた催し物団体会議で今回の参加団体が確定しているので、次回から紹介します。あ、御柱祭も13日に山出しをする神社があるから、そちらも紹介しなければ…

<3月11日追記>
 東野大獅子の登場は明治35(1902)年からでした。記事を公開した時点では明治35年か明治41年かはっきりせず、併記しておきましたが、飯田市美術博物館が昨年3月に発行した『飯田お練り祭り本屋台調査報告書』の中に信頼性の高い史料が引用されていたので、明治35年で間違いないと判断し、記事を修正しました。
 伊那史学会が発行した『伊那の芸能』(村沢武夫著、1967年刊)には、地元の古老2人から聞いた話として、明治35年からと書いてあります。しかし地元の東野公民館が発行した『東野の百年誌』(1970年刊)には明治41年と書いてあり、近年の他の文献でも明治41年と書いたものが多く、最近の行政の発行物でも明治41年としているので、どうなっているのかと思っていたのですが…。
 『飯田お練り祭り本屋台調査報告書』の中で、学芸員の櫻井弘人さんが書いた「飯田お練り祭り―その歴史と本屋台」は、当時の地元紙「南信」(明治35年4月1日付)の記事を引用し、明治35年の出し物の中に東野の獅子舞があったことを明らかにしています。これが東野大獅子の始まりと考えて間違いないでしょう。
 この本の存在は、私はうかつにも昨日まで知りませんでした。お練り祭りの歴史について、江戸時代から昭和前期まで回を追って細かく書かれているので、興味のある方はご覧ください。

« 御柱祭と飯田お練りまつり | トップページ | 飯田お練りまつり出演団体 »

観光おすすめ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/602624/63202105

この記事へのトラックバック一覧です: 大名行列と東野大獅子:

« 御柱祭と飯田お練りまつり | トップページ | 飯田お練りまつり出演団体 »