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御柱祭と飯田お練りまつり

 6年(数えて7年)に1回、寅年と申年に諏訪で行われるのが「諏訪大社の御柱祭」で、今年も上社と下社でそれぞれ4月に御柱の山出し、5月に里曳き・建御柱が行われます。「人を見るなら諏訪の御柱」という言葉があるほど多くの人出で賑わいます。こちらが諏訪大社御柱祭公式ホームページです。
 この「諏訪大社の御柱祭」と同じ寅年と申年の春、飯田周辺の神社30数社(諏訪系に限りません)でもそれぞれ個別に御柱祭が行われます。また大宮諏訪神社(飯田市宮の上)のある飯田市街地では「お練りまつり」が行われ、今年は3月25~27日の3日間、地域内外・新旧のさまざまな芸能(予定47団体)が大集合して路上で演技を披露します。こちらが飯田お練りまつり公式ホームページです。

16020802 諏訪系の神社は諏訪大社を総本社として全国に1万社以上の分社があり、長野県内には約1200社あります。諏訪湖から流れ出す天竜川の流域・伊那谷では圧倒的に数が多く、私が子どもの頃に遊んだり初詣に行った神社も、引っ越していま住んでいる地域の神社も諏訪系です。鎌倉時代から飯田周辺の天竜川左岸(伴野庄)を領有した知久氏や、上伊那の保科氏、藤沢氏、中沢氏などは諏訪氏の分流なので当然、諏訪社が氏神で、源頼朝や武田信玄も諏訪大社を崇敬し、鎌倉時代から飯田郷の一部などが寄進されて諏訪大社上社の領地になっていたこともあり、諏訪系の神社が多くなるのは自然な成り行きです。
 こうした諏訪系の神社の中には諏訪大社と同じように式年御柱祭を行う神社があり、飯田周辺の御柱祭は3~4月を中心に行われます。比較的規模が大きいのは御射山神社(松川町上片桐)や、300余段の石段を曳き上げる飯沼諏訪神社(飯田市上郷)。また山の木を切るのではなく、根の付いた御柱を植樹するというユニークな御柱祭もあります。それぞれ山出し、里曳き、建御柱を行い、盛り上がります。左の写真は飯沼諏訪神社の御柱祭(1992年)で、曳き上げた御柱を社殿の前に建てているところです。
 これら各地の御柱祭については今まで意外に体系的な調査がされておらず、ここに書くのもひと苦労なのですが、できるだけ情報をまとめて引き続き書いていきたいと思います。

 諏訪系の中でも飯田市の大宮諏訪神社の式年祭は独特で、諏訪大社から御神符を迎え、神輿におさめて町内を練り歩く神幸祭(神輿渡御)を行います。これに続き、飯田市街地で「お練りまつリ」が行われます。大宮諏訪神社で御柱祭を行ったという記録はありません。「お練りまつリ」というのは、大勢の人がまちを練り歩くことからこう呼ばれるようになったと言われています。江戸時代から明治時代半ばまでは町内ごとに大きな山車を曳きながら城下町18か町を練り歩き、それと同時に趣向を凝らした出し物を通りで演じて競い合っていました。
 飯田城下町が形成されたのは安土桃山時代~江戸時代初期で、この時期に通りと町屋、宿場、侍屋敷、寺社などが整備されました。大宮諏訪神社は慶安3(1650)年に飯田藩主脇坂安元が社殿などを整備しましたが、それ以前は小さな祠でした。東隣にある長久寺は享禄3(1530)年創建で、諏訪大明神を勧請して鎮守としたというので、おそらくこれが大宮諏訪神社の始まりと考えられます。神社側は明治時代以降、神社も式年祭ももっと昔からあったと主張しています(江戸時代のお練り祭りの始まりについて、神社側が「復興」という言葉を使うのもこのためでしょう)が、根拠がありません。長久寺は明治元(1868)年の神仏分離まで大宮諏訪神社を管理し、また飯田藩主の脇坂氏、堀氏の菩提寺として藩主と深いつながりを持ちました。
 脇坂安元の家臣で儒学者の和田宗允が書いた『大宮諏訪神社縁起』によると、新しい社殿が完成して慶安4(1651)年に遷宮式を行った後、「慶安五年三月朔日、始めて祭礼を行ふ、もろもろの武器そなわりて甲冑母衣列をひく、風流のわたりもの、衣服行裳をつくし、獅子田楽いろいろのつくりもの幻戯をなし、俳優をなし…」とあり、この慶安5(1652)年の祭礼がお練り祭りの始まりとされています。
 その後、定期的に祭礼が行われたものと思われますが、寛文10(1670)年を最後に50年ほど中断します。寛文12(1672)年に脇坂氏が播磨龍野に移され、かわって堀氏が入りますが、同じ飯田藩といっても、堀氏は脇坂氏の5万5千石よりはるかに少ない2万石しか与えられない小身で、祭りどころではなかったのかもしれません。
 祭り再開のきっかけになったのは正徳5(1715)年の未(ひつじ)満水でした。伊那谷各地はこの水害で甚大な被害を受けますが、飯田の住民が高台にある大宮諏訪神社の境内に避難して加護を祈願したところ、水は北の野底川と南の松川に分かれ、城下町は大きな被害を受けずに済んだといいます。この神徳をたたえて長久寺住職や住民が祭りの再興を藩主に願い出て、享保4(1719)年に祭りが再開しました。その後は2年おきに(3年に1度)祭りを行い、享保19(1734)年から、諏訪大社の式年祭と同じ寅と申の年に(6年に1度)行うように城下町18か町で申し合わせたと伝えられています。

 城下町18か町はそれぞれ3種類の屋台(本屋台、幡屋台、囃子屋台)を保有し、本屋台は正面が神殿造りで左右後に幔幕をはり、舞台で能・狂言を演じました。幡屋台は大きな幟を立てます。囃子屋台では太鼓、笛、三味線で囃子神楽を演奏しました。本屋台は欅造りで、白木造りもあれば朱や黒の漆塗りもあり、金色や銀色の金具がつき、3階建てで高さ数mという豪華な山車。手の込んだ装飾彫刻や、美しい刺繍が施された幕も見事な工芸美術品でした。
 江戸時代中期以降、享保年間や寛政年間などには幕府から倹約令が出され、飯田藩も徹底を図っていますが、祭りは派手になりがちでした。寛政6(1794)年には藩から質素にするようにとお触れが出ているのに、本町一丁目、番匠町(通り町一丁目)、大横町、伝馬町一丁目、伝馬町二丁目が高名な宮大工だった諏訪和四郎の門弟金四郎を招いて本屋台を新調したといいます。
 ただ、天明の大飢饉や浅間山大噴火に見舞われた直後の天明8(1788)年の祭りは形だけで盛り上がりませんでした。米が高騰して物が売れず、不景気で職人は仕事がなく、数年の間に城下町で70軒近く夜逃げが出ているという有り様では無理もありません。また「床屋火事」(1823年)と呼ばれる大火で13か町(橋南)の大半が焼失した翌年、文政7(1824)年の祭りは延期して4年後に行ったといいます。

 昭和3(1928)年に作成された『大宮諏訪神社縁起絵詞』には、江戸時代の様子と見られる屋台の曳き回しや、明治時代以降と見られる獅子舞が描かれています。また詞書に、明治5(1872)年と明治11(1878)年のお練り祭りは各町が3種類の屋台を新調して盛大に行い、地元の古老もかつて見たことがないと言うほどだったと書かれています。飯田藩による規制もなくなって伸び伸びと行えるようになり、明治11(1878)年から大正3(1914)年までの7回が戦前のお練り祭りの最盛期だったと見られます。現在のお練り祭りの目玉になっている大名行列や東野大獅子もこの時期に始まりました。
 なお、お練り祭りは元々は旧暦3月1日から行われていましたが、明治6(1873)年に新暦にかわってから、昭和43(1968)年まではおおむね新暦4月1~3日に行われました。雨の多い時期でもあり、昔は雨天順延で、晴れるまで待って行ったようです。

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 明治30年代になると通りに電線や電話線が引かれ始め、高さ数mもある本屋台は曳くことが難しくなりました。当初は電線を持ち上げて屋台を通したといいますが、まもなく曳き回しは行われなくなり、自慢の本屋台は祭りの間それぞれ自分の町に飾っておくだけになりました。その後、どこかに売ってしまう町が出てきたり、さらに昭和22(1947)年の飯田大火によってほとんどが失われました。それでも本町一丁目の本屋台が開善寺(飯田市上川路)の茶室になって残っているほか、この屋台の装飾だった龍の彫刻、池田町(通り町二丁目)の舟形屋台の龍形船首はじめ各種彫刻類、松尾町二丁目の本屋台の彫刻と幕、番匠町(通り町一丁目)の本屋台の幕などが残っており、往時をしのばせています。
 本屋台が動かせなくなっても囃子屋台と幡屋台は曳けたので、戦前のお練り祭りは各町のお囃子や演芸がメイン。つまり多くの住民にとって「自ら参加する祭り」で、大店の旦那衆が意外な芸を披露したり、芸達者な若者たちがいいところを見せたりといったことがこの祭りの風情でした。各町の若者たちは半年も前から師匠について三味線や笛、小鼓などの稽古に励み、子どもたちは学校を休んで祭りに出ました。祭りの3日間は商店も休み、表通りに紅白の幕をめぐらせ、客を迎えて接待しました。
 こんなに盛んだった祭りに、力が入らなかったのは大正9(1920)年。というのは、伊那電気鉄道(現JR飯田線)の飯田駅を現在の場所に誘致するために、駅と路線の用地を飯田町で買収して伊那電気鉄道に無償で渡すことになり、住民に多額の寄付をせまられたからだそうです。それでも呼び物の本町三丁目の大名行列、松尾町一丁目の獅子舞、東野大獅子といくつかの囃子屋台は出て、後年、飯田の文筆家・武田太郎氏は「やりゃなんとかやれる見本」と書いています。ちなみにこの祭りの直後、第一次世界大戦終結後の戦後恐慌で生糸の価格が大暴落し、飯田でも倒産が相次ぎました。
 昭和に入ると祭りにも軍国主義の影響が色濃く現れ、満州事変が起きた半年後、昭和7(1932)年のお練り祭りでは江戸町の子どもたちが「古賀連隊長」と「肉弾三勇士」の創作剣舞をやり、竹籠で作った戦車の屋台を曳いたという記録が残っています。戦時中、昭和19(1944)年のお練り祭りは享保4(1719)年の再興以来、唯一の中止になりました。

 終戦後、上記のように昭和22(1947)年に飯田大火があって各町の屋台などがほとんど失われるとともに、昭和30年代に周辺11か村と合併し、昭和30~40年代の高度成長時代には地域の姿も大きく変わり、お練り祭りは新しいスタイルを模索する時代を迎えました。
 大火からの復興途上にあった昭和25(1950)年のお練り祭りには、大名行列、東野大獅子と各町からのいくつかの出し物のほか、市外の獅子舞が参加しました。「昭和の大合併」の時期に入ると周辺の村々に広く参加を呼びかけたのか、昭和31(1956)年には市外の獅子舞の数がますます増えて20にもなりました。
 ところが昭和43(1968)年になると、周辺町村でも多くの伝統芸能が存続の危機を迎えていて、市外の獅子舞はわずか3つに減りました(昭和30年代に参加した獅子舞が、遅くまで所望を求めて回ったり酔っ払って騒いだりで、住民の不興を買った部分もあったようです)。一方、獅子舞のほかに牛牧の義士踊り、上片桐の長持行列、天龍峡の龍神の舞、座光寺の八木節などが参加し始め、これらは現在まで参加を続けています。
 昭和30年代から地元町内の出し物は知久町、銀座、中央通り、橋北の4つの連合商栄会ごとにまとまって出す形になり、中央通りは自前の天龍太鼓を確立し、銀座も次郎長道中を始めましたが、知久町と橋北は毎回、頭を悩ませながら外部から出し物を呼んで来る状況になりました。昭和49(1974)年には図らずも4つ全て太鼓になったことがありました。
 またこの頃、飯田の芸妓さんたち総出の囃子屋台は華があって人気がありましたが、代表的な伝統芸能だった松尾町一丁目の獅子舞は大火で大獅子頭が焼失、松尾町三丁目の鹿島踊りは昭和43(1968)年を最後に出演が途絶え、本町三丁目の大名行列も担い手不足で存続が危ぶまれる状況になっていました。
 飯田の商家は元々は職住一体でしたが、昭和40年代ぐらいになると、何かと手狭な中心市街地から上飯田、鼎、上郷などの郊外に住処を移し、昼間だけ商売のために通ってくるという家がかなり増えました。大人のつきあいは継続したとしても、子どもが育つ場所が変わる影響は小さくなく、こうした変化も祭りの姿に影響したと考えられます。
 一方、人出の方はというと、まだまだ娯楽も少ない時代で近郷近在から見物客が押し寄せ、飯田の言葉で「ねやねや」という状態。昭和中期、商店が並ぶ銀座、知久町、中央通りは大変な賑わいでした。小売店や飲食店にとっては、もう店を休んで参加する祭りではなく、稼ぎ時になっていました。

16020801 昭和48(1973)年にオイルショックが起きて高度成長時代が終わり、翌年のお練り祭りは沈滞ぎみのムードで迎えることになります。この頃、郊外に卸団地が完成し、大きな問屋が中心市街地から集団移転しました。この祭りの直後に中心市街地に大型店2店がオープンし、次の年に中央道(名古屋方面)が開通と、いよいよ地域の大変化が目に見える形で現れてきました。
 こうした激動の中で、昭和49(1974)年のお練り祭りは日程変更を決断し、それ以前の4月1~3日から3月末の土日曜日を含む3日間に変わりました。「祭り」から「イベント」に変わったとも言えますが、日程だけでなく内容的にもこの前後がターニングポイントで、人出の多さとは裏腹に、この昭和30~40年代がお練り祭りの歴史の中で最も難しい時期だったと見ることができるでしょう。城下町が特権的・独占的な商業取引によって栄えた江戸時代以来の姿から変化し、相対的に周辺地域の力が上がってくる中で、新しい時代の祭りを模索した時代とも言えます。この時期に祭りを守り続けた人たちには頭が下がります。
 参加団体の数は昭和43(1968)年が18団体、昭和49(1974)年が23団体、昭和55(1980)年が25団体、昭和61(1986)年が27団体と、じりじりと増えました。
 昭和後期には各地で伝統芸能の価値が見直され始めます。飯田周辺町村でも、祭りの担い手だった青年団の組織が昭和30年代に急速に衰え、多くの伝統芸能が継承の危機を迎えましたが、昭和40年代後半を中心に各地で保存会が結成され、立て直しが進みました。お練り祭りはこれらの伝統芸能を披露する晴れ舞台として、新しい意味を持ってきます。

 平成に入ると、新しい時代のお練り祭りがいよいよ花開いてきます。平成4(1992)年は35団体、平成10(1998)年は43団体と、一気に参加団体が増えました。保存会体制を整えて復活した周辺町村の獅子舞などが積極的に参加します。担い手不足で存続が危ぶまれていた大名行列も、近隣から熱意のある応援者が加わるようになって危機を脱しました。さらに21世紀に入った平成16(2004)年からは、伝統芸能だけでなく近年誕生したパワフルな新しい芸能団体も参加しています。
 中心市街地を取り巻く環境は平成に入ってますます厳しく、郊外に新しく整備された幹線道路沿いに商業集積が進み、中心市街地の大型店は平成7(1995)年に撤退し、それを追うように商店の数も急激に減少しました。一方、90年代に「りんご並木」の再整備が行われ、21世紀に入って再開発ビルが相次いで完成し、まちの新しい魅力づくりも進んでいます。
 現在のお練りまつりは多くの参加団体にとって6年に1度の大きな晴れ舞台。一方、中心市街地にとっても自らの存在を広くアピールする大きな機会です。車両の進入を止め、まち全面を使ってこうしたイベントができる場所はここしかなく、中心市街地の新たな価値を感じさせる舞台になっています。

 …お練りまつりのあらましの歴史を書いてみました。現在のお練りまつりではメイン中のメインとされている出し物が2つあり、それが「大名行列」と「東野大獅子」です。次回、この2つの内容を紹介します。
 3月のお練りまつり本番に先立ち、市街地の2か所(中央通り3丁目、知久町1丁目)に「お練りサロン」が開かれ、大名行列の道具や獅子頭などを展示しています。また関連グッズも販売しています。お練りまつり前に飯田を訪れる方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

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