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旧暦の大晦日と節分(8)

 前回の記事のつづきで、節分に戻り、現在の神社や寺院で行われている節分行事をいくつか紹介します。

<長田神社の古式追儺式神事>
 神戸市の長田神社では節分の日に古式追儺式神事を行います。前回の記事で紹介した兵庫県の寺院の鬼踊りと同類で、ここでは7匹の鬼が神の使いで、松明の炎で災いを焼き、太刀で不吉を切ります。室町時代から続くとされています。
 長田神社ホームページに詳しい内容や写真が掲載されていますが、「鬼面、太刀等の製作年代や古文書等より、室町時代には、境内の薬師堂に於ける修正会として、既に現況の様な形で行われていたことが伺われ」るということで、当初は神社の節分の神事ではなく、旧暦の大晦日と節分(6)で書いた仏教の薬師悔過(けか)の法会だったようです。日本はもともと神仏習合の国なので、こういうことは別に珍しくはありません。
 鬼は一番太郎鬼、赤鬼、青鬼、姥鬼、呆助鬼、餅割鬼、尻くじり鬼の7匹で、ほかに太刀役の子ども5人、肝煎りと呼ばれる世話人など数十人が参加します。餅割鬼は最大の見せ場を担うため大役鬼とも言われます。鬼と太刀役は前日からそれぞれ鬼宿、太刀役宿に入って精進潔斎し、鬼役は何度も井戸水をかぶりながら練習を重ね、当日の朝には須磨海岸で海に入って禊をします。
 鬼の演舞の流れは以下のようになります。①一番太郎鬼の演舞、②赤鬼、姥鬼、呆助鬼、青鬼、一番太郎鬼の5匹の演舞、③餅割鬼、尻くじり鬼の演舞、④赤鬼以下5匹が太刀役から太刀渡しを受け、松明と太刀を持って演舞、⑤餅割鬼、尻くじり鬼の演舞、⑥5匹の御礼参り演舞、⑦餅割鬼、尻くじり鬼の餅割演舞。最後に餅割りがあるのは兵庫県の多くの寺院と共通です。
 これを見ると、餅割鬼、尻くじり鬼の2匹と他の5匹は役割が違う感じを受けます。もしかすると元来は餅割鬼、尻くじり鬼の2匹が災いを払う側で、他の5匹が追われる側だったのかもしれません(単なる私の想像ですが)。神の使いの鬼というと、追儺の「方相氏」が転じたものとも考えられますが、上記のようにこの神事が元々は薬師悔過だったとすれば、仏教系の方にルーツがあるか、あるいは両方が入っているのではないかと思います。

<吉田神社の追儺式(鬼やらい神事)、平安神宮の大難之儀>
 京都では節分に北東(鬼門・丑寅)の吉田神社、南西(裏鬼門)の壬生寺、南東の八坂神社または伏見稲荷大社、北西の北野天満宮に参詣する風習があり、「節分四方参り」と呼ばれています。その中でも吉田神社と壬生寺は多くの参詣者でごった返します。
 吉田神社の節分祭は室町時代から続くとされ、現在は節分の前日から翌日まで3日間にわたって行い、前日の午前に疫神祭、午後6時から追儺式(鬼やらい神事)を行っています。どちらも平安時代の古式を復元したものです。こちらは吉田神社ホームページです。
 疫神祭は前回の記事の「宝積寺の鬼くすべ・疫神祭」で触れたように、疫神を饗応して鎮める祭りです。午前8時から本宮で前日祭があり、続いて山の中腹にある大元宮で疫神祭を行います。大元宮の門から外に向けて祭壇を設け、祝詞をあげて米と酒を三方にまき、疫神が荒ぶることなく山川の清き地に鎮まるように祈ります。
 追儺式(鬼やらい神事)は昭和の御大典のあった昭和3(1928)年に復元したもので、本宮前の舞殿で行います。平安時代初期の古式に則り、陰陽師が祭文を読み、方相氏が儺声を発して矛で盾を打ち、侲子とともに舞殿を巡って疫鬼を追い、最後に殿上人が桃の弓で葦の矢を放ちます。
 古式に則るといいながら、ここでは平安時代の宮中の追儺にはいなかったはずの3匹の鬼が登場します。旧暦の大晦日と節分(6)で紹介した、仏教寺院の修正会・修二会の鬼追いに登場する「三毒の煩悩」の鬼を逆輸入したようです。追儺式を復元した当初は目に見えない鬼を追っていたが、不評だったため目に見える鬼を出したという話も見かけました(これが事実かどうかは未確認です)。この鬼たちは改心して、翌日からは参詣者たちに愛想を振りまきます。
 本当に古式にこだわるなら鬼など出さなければいいと思うのですが、所詮は俗化した見せ物です。

 平安神宮も昭和49(1974)年から追儺式を復元し、節分当日の節分祭で「大難之儀」として行っています。猪熊兼繁京都大学名誉教授の時代考証を受けて式次第、作法、祭具、衣裳を綿密に再現したということで、この「大難之儀」では鬼を出さず、その後の、鬼が出てくる「鬼の舞・豆まき」と区切っています。こちらは平安神宮ホームページです。
 平安時代のやり方を再現した儀式の進行や色とりどりの衣裳、独特の所作などはなかなか目を引くものです。主役の方相氏の面がもう少しどうにかならないのかと思うのと、あとは「鬼の舞」の時に「祓い清められたはずの場所にどうして鬼がのこのこ入って来るんだ」と突っ込む人がいっぱいいますが…。室町時代以降の日本では、鬼を豆で追い払うのが節分なので、仕方ないのでしょう。

<新宮神社(高知県南国市)の追儺の式>
 高知県南国市十市の新宮神社では、節分祭に合わせて古式の「追儺の式」を行い、桃弓で葦矢を放ち疫神を追い払います。京都以外の地方で桃弓・葦矢を用いる追儺式を行うのは珍しいと思います。
 新宮神社ホームページによると、同神社では古くから追儺の神事を行い、宮司ら神職が深夜に行燈の火明かりのもとで行ってきたということです。
 新宮神社にこうした神事があるのは、幕末から明治初期にかけて土佐が神道復古に特異的に熱心(それだけ廃仏毀釈も激烈)な土地だったからではないかとも思います。

<壬生狂言の「節分」>
 京都の裏鬼門にあたる壬生寺の節分厄除大法会は節分の前日から翌日まで3日間で、前日と当日、壬生狂言(国重要無形民俗文化財)の「節分」が上演されます。こちらは壬生寺ホームページです。
 壬生寺の厄除けは白河天皇の発願によって始められたと言い伝えられています。平安時代後期のことになります。
 壬生狂言は鎌倉時代に円覚上人が創始しました。寺伝によると、円覚上人は正安2(1300)年に壬生寺で大念仏会を行い、そこで詰めかけた多くの聴衆に教えを分かりやすく説くために、身ぶり手ぶりの無言劇で伝えることを考えつきました。これが壬生狂言の始まりと伝えられています。その後、大衆娯楽として発展し、能や物語などから新しい話を取り入れましたが、宗教劇としての性格を今日まで残しています。
 現在の演目は30番。定例の公開は年3回(計12日間)で、春の大念仏会(4月29日~5月5日の7日間)、秋の特別公開(10月の連休の3日間)、そして節分厄除大法会(2日間)です。節分厄除大法会では「節分」のみを8回上演します。

<五條天神社(東京上野)うけらの神事>
 東京の上野公園内にある五條天神社では節分の日の夕方、「うけらの神事」という珍しい神事を行います。「うけら」を焚きながら「蟇目式」、「病鬼との問答」を行い、弓矢で病鬼を払ったり、方相氏が病鬼を追い払います。
 五條天神社の祭神は大己貴命(大国主命)と少彦名命で、医薬の神様です。大己貴命は因幡の白兎を助けた話が有名で、少彦名命は人間に医薬と農業を教えた神様です。このため同神社では病鬼を退散させる神事を行い、その1つとして節分に行うのが「うけらの神事」です。
 「うけら」(オケラ)というのは漢方薬に使われるキク科の多年草で、万葉集に出てきます。神事の間、これを焚き続け、邪気をはらいます。
 節分祭で祝詞を奏上した後、蟇目式で宮司が神弓・神矢で氏子町内の鬼を払います。続いて病鬼の赤鬼・青鬼との問答が行われ、鬼が過ちを悟って退散しますが、さらに方相氏が桃の弓と葦の矢を手に「鬼は外」と叫んで鬼を追い払います。最後に豆まきを行いますが、ここでは「福は内」とは唱えません。病鬼を追い払えば、それ以上のものを望む必要はないということでしょう。
 翌日の立春の日に、この神社で受けられる「うけら」を焚きながら「うけら餅」を食べると、1年間無病息災で過ごせると言われています。
 「うけらを焚く」というのは今ではほとんど意味も通じませんが、邪気を払うものとして、かつては正月や節分の日に境内のかがり火にくべるなどしたようです。元々は湿気を払うものとして、家庭でも梅雨時になると土蔵、物置、戸棚などで焚く風習があったそうです。俳句では「うけら焚く」「おけら焚く」「蒼朮を焼く」などは梅雨時(仲夏)の季語になっています。
 五條天神社の「うけらの神事」のことは江戸時代の文献によく書かれています。寛文3(1663)年の『世諺問答』に「問て云、節分に、せうのもちゐとてくひ侍るは、なにのゆへぞや、答、この事さらにしりがたし、また五條天神に侍るよし申(略)。問て云、節分に、おけらをたくは、何のゆへぞや、答、白朮(うけら)は風気をさる薬にて侍るうへ、餘薫あしきゆへに、疫疾の神の夜行する夜なれば、是をたきておそれしめんがためにて侍る」とあり、節分に「うけら」を焚くことが一般的な風習で、その意味は、悪臭で疫神を遠ざけるものと解釈されていたことが分かります。
 また延宝4(1676)年の『日次紀事』に「節分の夜は、五條の天神にまいり、餅白朮をうけてかへることあり、五條天神は少彦名命にて、天下の疫癘を守らんとちかひ給ふ神なるゆへ、一年中の疫癘をいのらんためにまいる事なり、白朮は湿はらふ薬なれば、風湿疫癘をのぞくの心にて、神前にてうけて帰り、火にてたくなり」、さらに天保9(1838)年の『東都歳事記』にも「下谷五條天神宮神事 酉の刻追儺あり、白朮餅を出す、これを服して邪気を避るといふ、少彦名命の祭事なり」と記されています。

<浅草寺の節分会>
 江戸時代末期に書かれた『東都歳事記』には、江戸の寺社の節分行事として、上記の下谷五條天神宮神事のほかに、神田社疫神祭、本郷四丁目天満宮、浅草寺観音節分会、亀戸天満宮追儺の神事、雜司が谷鬼子母神堂追儺についての記述があります。
 神田社の疫神祭というのは、本社のわきに疫神塚を立てて祝詞をあげ、疫神祭の札を出したようです。亀戸天満宮追儺の神事は、「雙角四目青赤の二鬼に出立する者、猿の皮をかぶり、鹿角の杖をつき、社前に進出づ」とあるので、方相氏が鬼になっていたと思われ、それに対して「巫出て問答し、幣杖にて鬼を打つ、其餘五人の巫、牛王杖を持て追ひ退く」となっています。さらに、この神事は筑前大宰府の例にならったと書いてあります。本当でしょうか。
 浅草寺観音節分会は、般若心経を唱えた後で豆を打ち、それから「外陣の左右の柱に高く架を構へ、これに登りて、節分祈祷の守札をまきあたふ、諸人挑み拾ひて、堂中混雜せり、但し申の刻に行ふ」とあります。
 浅草寺の節分会は江戸時代中期の元禄時代ごろから行われ、江戸のまちの人気イベントになりました。上記のお札の話は、柱の上から大団扇であおいで約3千枚のお札をまいたというもので、多くの人が争って拾い、危険なので明治17(1884)年から禁止されました。
  現在は法要終了後に年男による豆まき、福聚の舞(七福神の舞)などを行い、お札はお守授与所で配っています。浅草寺では、観音さまの前には鬼はいないとして「鬼は外」とは唱えず、「千秋万歳福は内」と発声しています。

 また浅草寺では大晦日から7日間、修正会を行い、天下泰平・五穀豊穣などを祈願します。この修正会にあわせて毎夜、追儺の儀式があり、僧侶の1人が鬼となり、もう1人が柳の杖を持って鬼を追いかけます。本堂で鉦や太鼓、拍子木の音が鳴り響くなか、杖で激しく床をたたきながら本尊を納めている厨子の周囲をまわります。
 これも江戸時代の文献に出てきて、享和3(1803)年の『俳諧歳時記』には「乃チ初更の頃、鬼形の者一人堂外に出、又一人方相氏の假面を被りたるもの、これを追ふて堂を巡る、後除疫の札三千枚を撤して諸人に與ふ、參詣の人各あらそひ拾ふて、持かへりて自家の門戸に貼」とあります。

 …今回は内容が薄かったです。いくらか目新しいのは「うけら」の話ぐらいでしょうか。次回が「旧暦の大晦日と節分」の最終回で、いろいろ拾った話を並べておきます。

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