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旧暦の大晦日と節分(7)

 前回の記事のつづきで、近畿から北九州にかけて、仏教寺院に伝わっている修正会・修二会の鬼追いのいくつかを紹介します。場所によりかなり特色があります。中には地域の高齢化や人口減などによって存続が危ぶまれている行事もあります。

<宝積寺の鬼くすべ・疫神祭>
 京都府大山崎町の宝積寺は4月18日に「大厄除追儺式」を行います。疫鬼を煙でいぶし出すというユニークな鬼払いで、「鬼くすべ」と呼ばれています。
 護摩火にヒバの葉をくべて本堂内に煙を充満させます。本堂の鴨居には75個の鏡餅がかけてあり、桃の弓と蓬の矢で鬼を追うと、鬼は鏡餅にうつる自分の姿に驚いて逃げていくのだそうです。
 現在の行事は山伏、5匹の鬼、七福神などの行列が門外から入るところから始まります。山伏が法螺貝を吹き鳴らします。鬼たちはおとなしく護摩火の前で加持祈祷を受け、それから松明を持って少し暴れ、弓矢で追われて外に出て行きます。何だか意味がよく分からない進行です。終了後、七福神が福餅をまきます。
 この行事が始まった時期は不明です。寺伝によると、宝積寺は神亀元(724)年に行基が開いたとされ(『行基年譜』には出てきません)、例の『続日本紀』慶雲3(706)年の「是年、天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」を引き、文武天皇が行基に疫病払いを命じたとされているそうです。

 宝積寺のある山崎の地は山城と摂津の境です。
 『続日本紀』宝亀元(770)年6月23日に「祭疫神於京師四隅、畿内十堺」とあり、また『延喜式』(927年成立)の「第三巻・神祇三・臨時祭」の中に宮城四隅疫神祭と畿内堺十処疫神祭の供え物の記述があることから、奈良・平安時代に山城と周囲の国境10か所で疫病を鎮める疫神祭が行われていたことが分かります。疫病が街道づたいに広がることを認識していたのでしょう。平安時代後期には、その中でも南西の山崎、南東の逢坂、北東の和迩、北西の大江が重視され、この4か所で行われる疫神祭を四境祭と呼びました。
 また『続日本紀』では宝亀2(771)年3月5日の「令天下諸国祭疫神」を皮切りに、宝亀9(778)年までの8年間に6回にわたり諸国や五畿内で疫神祭を行っています。
 行基は天平3(731)年に山崎の地に山崎院を開いています(現在は跡しか残っていません)。山崎の疫神祭がここで行われ、のちに宝積寺に移ったということは十分に考えられるでしょう。

 もし宝積寺の鬼くすべが本当に奈良時代に始まったものだとすると、『内裏式』(821年成立)で確認できる平安時代の宮中の追儺よりも早い時代に行われた儺の儀式として、とんでもなく重要な意味を持っていることになるのですが…。鬼や山伏や七福神は後から加えたに決まっていますが、煙でいぶす鬼払いの形式や鏡餅がどういう由来でいつから行われているのか、知りたいところです。

<兵庫県の寺院の鬼踊り>
 兵庫県の神戸・播磨周辺では、今でも20数か所の寺社で鬼踊りの行事が行われています。兵庫県立歴史博物館ホームページの「歴史ステーション―ひょうごの祭りと芸能―鬼」のコーナーにまあまあの内容でまとめられていますが、ここに載っている以外にもあります。開催日は新暦1月上旬か旧暦1月が多く、それ以外もあります。神社では長田神社(神戸市)の古式追儺式神事が有名で、これは次回の記事で紹介します。
 「追儺会」や「鬼追い」という言葉が使われてはいても内容は「鬼踊り」で、この地域の鬼は払われるべき悪鬼ではなく、災厄を追い払い五穀豊穣をもたらす善鬼です。よく指摘されているとおり、下で紹介する大分県国東半島の修正鬼会と共通性が見られます。
 鬼は毘沙門天と不動明王の化身とされているところが多く、明王寺(神戸市)や転法輪寺(同)の「婆々鬼」は天照大神とも呼ばれています(なぜここに日本神話の最高神が出てくるのか不思議ですが)。随願寺(姫路市)の「空鬼」や神積寺(福崎町)の「山の神」は本尊の薬師如来の化身・使者で、他の鬼を従えています。また朝光寺(加東市)では鬼の前に住吉明神の翁が祓の踊りをします。
 松明と斧、槌、鉾、剣などを持ち、力を封じるため身体が藤づるや縄で縛られている(鬼絡み)ところが多く見られます。松明を振って飛び跳ねたり、四股を踏んだり床を踏みならす所作をし、餅割り・餅切りをするところが多いのも兵庫県の鬼踊りの特徴です。
 小鬼が出るところも多く、近江寺(神戸市)では大人でなく多くの子どもたちが小鬼になり、婆々鬼について本堂の周囲をまわり、本堂に入って鬼の踊りの合間に2人1組で棒を打ち鳴らしながら踊ります。

 東光寺(加西市)では鬼会の前に「田遊び」という行事があり、それを合わせて国重要無形民俗文化財に指定されています。「田遊び」では、面をつけ鍬を持った「福太郎」「福次郎」が田起こし、苗代づくり、種まき、田植えから稲刈りなどまで一連の稲作の作業を演じ、豊作を祈願します。室町時代末期にはすでに行われていたそうです。
 鶴林寺(加古川市)では鬼踊りの前に、12の土器に燈明をともしてその年の天候を占ったり、竹で作った「鬼の花」の垂れ具合で豊作を占ったりします。

 これらの鬼踊りが始まった時期はまちまちで、鎌倉時代(神積寺、随願寺)、室町時代(東光寺)、安土桃山時代(太山寺)、江戸時代初期(性海寺)、江戸時代中期(高薗寺)などとされており、比較的新しい時代に始まったものもあるようです。

<福岡県の火祭り>
 福岡県には「大善寺玉垂宮の鬼夜」(久留米市)、「鬼すべ」(太宰府市)、「熊野神社の鬼の修正会」(筑後市)と、年の初めに「鬼」のつく大きな火祭りがあります。鬼はあまり目立ちませんが、次に紹介する大分県国東半島の修正鬼会と共通性が見られるため、簡単に紹介します。
 「大善寺玉垂宮の鬼夜」は大晦日の夜から正月7日まで続く「鬼会」の最後に行われるもので、国重要無形民俗文化財に指定されています。小正月の火祭りに追儺の儀式が結び付いたものと考えられています。長さ13m、火口の直径1m、重さ1.2tの大松明6本が火の粉を散らしながら本殿などをまわります。鬼はシャグマの子どもたちに囲まれて姿を隠したまま鬼の堂回りをし、川で禊をして神殿に帰ります。起源は仁徳天皇56(368)年て、古墳時代前期なんですけど…。
 「熊野神社の鬼の修正会」はもともと隣にあった坂東寺の行事で、明治の廃仏毀釈で坂東寺がなくなったために熊野神社に移されました。まず子どもたちが松明を持って本殿をまわる小松明行事があり、その後、長さ13m、火口の直径1.5mという大松明3本が本殿をまわります。松明に点火するための御神火を火打石で起こし、これを「鬼火」と呼びますが、鬼は出ません。

<大分県国東半島の修正鬼会>
 大分県国東半島の3寺院(豊後高田市長岩屋天念寺、国東市国東町岩戸寺、同成仏寺)で続いている修正鬼会(しゅじょうおにえ)は国重要無形民俗文化財に指定されています。鬼が松明を持って演舞し、五穀豊穣や無病息災を祈願する法会で、鬼走りと火祭りが組み合わされた修正会の行法とされています。上に書いたとおり、鬼については兵庫県の鬼踊りと、また火祭りについては福岡県の火祭りと共通性が見られます。
 成仏寺は旧暦1月5日、岩戸寺と天念寺は旧暦1月7日で、国東の岩戸寺と成仏寺は1年交代で行ってきましたが、2016年の番だった成仏寺が地元の高齢化で休止(昼の勤行のみ行う)を決めたため、国東では2016年は行われないことになりました。
 ここの鬼も悪鬼ではなく、先祖が姿を変えた一種の来訪神ととらえられています。愛染明王と不動明王の化身とも言われています。鬼の舞は古い法呪師の芸を伝えるものとされ、また全体として行法や祈祷が芸能に移り変わる道筋が見られる貴重なものとされています。
 周辺の10ほどの天台寺院の僧侶が集まり、導師や鬼役などを分担します。
 昼の勤行は法華懺法を修したり千仏名経を唱えます。
 夜になると「垢離とり」があり、鬼役の僧侶、トシノカンジョウ(住民の代表)、タイレシ(大松明を献灯する住民)が川で水行をして身を清めます。その後、院主とタイレシの間で盃の儀が行われます。
 夜の前半の山場はタイアゲ(大松明の献灯)で、住民が作った長さ数m、重さ100kg以上のオオダイ(大松明)に点火して境内に担ぎ上げ、献灯します。オオダイをぶつけて火の粉を上げる場面もあります。オオダイの数は近年はだんだん少なくなっています。
 夜の勤行はまず坐っての読経や声明が続き、その後、僧侶が法衣をぬぎ立役に移ると雰囲気が一変。お囃子のなか2人の僧侶が「香水棒」を持って舞う賑やかな法舞が続き、「四方固」で太刀を手に呪文を唱えて四天王の力で結界を設けます。
 ここで男女一対の「鈴鬼」の登場となり、右手に鈴、左手に御幣を持って鈴鬼作法の所作を行い、最後にいよいよ「荒鬼」を招き入れます。「荒鬼」は力を封じるために全身が縄で縛られており(オニカラゲ)、堂に入ってから鬼の面をつけます。
 長岩屋の天念寺の荒鬼は「災払鬼」と「鎮鬼」の2匹で、松明をぶつけ合い火の粉をまき散らしながら激しく舞います。天念寺では鬼は外には出ません。
 国東の岩戸寺の荒鬼も2匹、成仏寺は3匹になります。国東では鬼が堂内で舞った後、堂から走り出て境内で参詣人に加持祈祷し、寺から出て手分けして地区の家をまわります。鬼はそれぞれの家で仏壇を拝み、家族一人ひとりの無病息災を加持祈祷し、もてなしを受けます。
 国東半島の六郷満山の修正鬼会は奈良時代の養老年間(717~724年)に仁聞菩薩から「鬼会式」「修正導師作法」「法呪式」などを授かって始まったとする伝承がありますが、これはそのまま信頼することはできません。しかし、豊後高田市の富貴寺に伝わる鈴鬼の面は、裏に久安3(1147)年の修正会で使ったという墨書があり、平安時代末期には何らかの形式のものが行われていたと見られます。近畿周辺で修正会・修二会の鬼追いが広がった鎌倉時代よりかなり早く、密教か陰陽道が元と思われる古い修法がよく残っている点からも、畿内から伝わったのではなくこちらが発祥ではないかという印象すら受けます。また兵庫県の鬼踊りの鬼とは「オニカラゲ」などの特徴が似ていて、どこかに国東半島と兵庫県を結ぶ線があるはずで、それが分かると面白いのですが…。
 仁安3(1168)年の『六郷二十八山本寺目録』によると六郷満山は末寺を合わせて65寺院あり、江戸時代までは各地で寺院単独で修正鬼会を行っていたようです。明治の神仏分離・廃仏毀釈で多くの寺院が衰退した時代に、寺院を東、中、西の3組に分け、それぞれ組の中で助け合って修正鬼会を行うようになり、戦前には20寺院で行われていました。
 少し調べてみただけでも、寺院にとっても地元住民にとっても大変な労力のいる行事だということが分かりました。本当に貴重な民俗文化財であり、成仏寺でも何とか現在の危機を乗り越えて存続する知恵が見出されればと思います。

<竹崎観世音寺修正会鬼祭>
 佐賀県太良町の竹崎観世音寺修正会鬼祭も国重要無形文化財です。童子舞という他では見られない芸能があり、行事全体にも古風な民俗が残っているとされています。
 旧来は1月5~6日の行事で、5日の夜に「初夜の行」、6日の朝に「後夜の行」、6日の昼に「日中の行」を行いましたが、現在は2~3日で、内容も簡略化されて「後夜の行」がなくなり、2日の夜に「初夜の行」、3日の午後に「日中の行」となっています。
 それぞれの行は、まず観音堂で院主が観音経や太鼓経を唱え、フレイ経という経を唱えている間に男児2人による童子舞が行われます。フレイ経の最後には童子が法螺貝の中の種籾をこぼしながら舞います。
 3日の「日中の行」では、堂内の行の後に童子が境内に出て鈴振の舞、牛王杖の舞、翁面の舞、青蓮華・赤蓮華の舞などをし、最後に太刀を持って舞います。童子は1曲ごとに堂内に入ったり出たりしますが、大人が抱きかかえて運び、移動の間は童子の足を決して地につけません。童子舞の四股踏み、足踏み、膝つきなどの所作は陰陽道の秘技の遺風で、古呪禁の法を表現しているとされています。
 この童子舞の前と途中の2回、「大聖棒(だいしょうぼう)打切り」があり、鬼副(おにぞえ)の若者が樫の棒(牛王杖)の束を階段の角に叩き付けてばらばらにすると、見物人が群がって棒を奪い合います。
 本来はこの後、鬼副4人が観音堂から鬼箱を持ち出して逃げようとし、それを若者たちがつかまえる「鬼攻め」という見せ場があるのですが、若者の数が足りなくなり、2008年を最後に行われていません。竹崎は有明海に囲まれた小さな島。諌早湾干拓の影響もあるのか漁業が低迷し、近年はタイラギ漁ができない年が続いて、若者の流出に拍車がかかっていると言われています。
 竹崎には、夜灯鼻という岬の沖に住む鬼と、観音堂の鬼箱の中に納められている鬼が夫婦で、2匹が再会すると竹崎島が転覆するという伝説があり、それを阻止するのがこの祭りで、5日の夜の満潮の頃に「初夜の行」を行い、気勢を上げたのだそうです。鬼箱の中には鬼面が入っているそうですが、誰も見てはいけないことになっています。境内で褌姿の若者たちがぶつかり合うところから、「裸祭り」とも呼ばれています。
 地元の伝説を取り入れたせいか、多くの鬼追いや鬼踊りとは違う特殊な形式で、これもルーツが違うのではないかとも思われますが、鬼祭なのに肝心の「鬼攻め」ができないのは残念なことです。

 …節分と関係のない修正会・修二会の鬼の話に2回かかりました。次回は節分に戻り、現在の神社や寺院で行われている節分行事について書きます。

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