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2016年2月の8件の記事

橋北屋台囃子と飯田・華の踊り屋台

 前回の記事で紹介した47出演団体の中から、今回は要注目の復活2題、「橋北屋台囃子」と「飯田 華の踊り屋台」について書きます。

 まず「橋北屋台囃子」ですが、「橋北」というのは、飯田城下町18か町のうちの5町(伝馬町一・二丁目、桜町一・二・三丁目)と、その周囲の侍屋敷や寺社などのあった町をあわせた地区の名前です。飯田市街地を南北に分けている谷川の橋の北側なので「橋北」と呼ばれています。この5町は元々は、安土桃山時代~江戸時代初期に新しい街道の出入り口につくられた宿場町(伝馬宿)でした。ちなみに城跡と城下町の残り13町(城の追手門前の町屋の区画)とその周辺は、橋の南側なので「橋南」地区です。
 「御柱祭と飯田お練りまつり」の記事で少し書いたとおり、戦前のお練り祭りは各町のお囃子や演芸がメインでした。そして江戸時代からずっと祭りの出し物を担ってきたのは各町の青年組織でした。
 囃子屋台に入ろうという若者は、半年も前から師匠について三味線、笛、小鼓などの練習をしたといいます。正月が明けると町内ごとに若者たちが出し物の相談をしながら集団練習を始め、2月になると子どもたちも加わってお囃子や踊りの練習をしました。
 本番が近づくと囃子屋台や踊りの町内ならしを行い、子どもたちは有力者の座敷回りをして踊りを見せました。さらに祭りが終わってからも、「狐落とし」と称して花見の頃までやっていたというのだから、のん気な時代です。そんな調子だから、若者の中にはプロ並みの腕を身に付ける者も出てきたということです。
 そんな時代にあって、とりわけ芸達者で他の町から一目置かれていたのが青龍青年(伝馬町二丁目)でした。当時、青龍では代々太鼓をたたく家が決まっていたといい、誰でもやらせてもらえるものではなかったようです。他に橋北では雲龍青年(下小伝馬町)、大王青年(大王路町)、桑弓青年(浜井町)などの囃子が上手だったと言われています。この青龍、雲龍、大王、桑弓というのは各町の源氏名で、飯田の中心市街地とその周辺のいくつかの町はそれぞれ歴史にちなむ源氏名を持ち、祭りの時などに使っています。
 そのようにして続いてきたお練り祭りの出し物ですが、昭和30年代から青年組織が急激に衰退し、本町三丁目の大名行列など一部を除いて、戦前のような各町の出し物は見られなくなってしまいました。戦後も各町には年長の経験者がいてお囃子そのものが消えたわけではありませんが、お練り祭りへの参加はありませんでした。
 昭和22(1947)年の飯田大火で屋台などが焼失した影響もないとは言いませんが、お囃子などがなくなった理由は、そういう物理的な問題よりも、青年組織の衰退や商店街の退勢といった主体の側の変化のほうが大きいと思います。火災は江戸時代から何度もあり、明治時代初期に屋台を新調した例もあり、豪華な本屋台はともかく、囃子屋台くらいなら作ることはそんなに困難ではないはずですから。
 昭和30年代から知久町、銀座、中央通り、橋北の4連合商栄会はそれぞれまとまって出し物を出す形になり、橋北は昭和55(1980)年から前回の平成22(2010)年まで6回連続で福島県会津東山温泉芸妓組合の「会津の白虎隊」を招いていました。ほとんど常連に近い出演回数で、けっこうファンもいたようです。

 この橋北では、かつて名声を博した青龍青年のお囃子を後世に残そうと、前回のお練り祭りの後、平成22(2010)年度から橋北地区伝統文化保存継承プロジェクトを立ち上げ、長野県「地域発 元気づくり支援金」、飯田市「ムトス飯田助成事業」の助成金も得て、屋台囃子復活継承事業に取り組んできました。残っていた昭和30年代の録音や譜面をもとに、和太鼓奏者・塩原良さん(高森町)の協力で「青龍」の曲を復元し、太鼓、笛、鉦をそろえ、教室を開いて練習しました。教室には子どもから大人まで40人ほどが参加し、現在は「橋北新囃子」など新曲も習得してお練り祭りに備えています。
 戦前のような「自ら演じるお練り祭り」の復活を目指す活動で、かつてお囃子などを出していた他の町内でも負けずに同様の動きが起きることが期待されます。
 「橋北屋台囃子」は26日と27日に出演します。

 次は「飯田 華の踊り屋台」で、これは戦後のお練り祭りの華だった飯田の芸妓さんたちの踊り屋台を再現するものです。
 飯田では明治10年代半ば頃から県外から芸妓さんが移り始め、明治19(1886)年に芸妓置屋を設置することが認可されました。その後、大正時代半ばにかけて芸妓さんの数が増え、最も多い頃は200人前後いました。芸妓さんは料亭などで歌舞音曲を披露し、花柳界を形成して飯田の文化の1つになりました。芸妓さんの出身地は飯田周辺が3分の1くらいで、名古屋、次いで東京から来た芸妓さんが多く、新潟から来た芸妓さんが増えた時期もありました。
 明治時代に最初に花街になったのが伝馬町界隈、つまり上記の橋北地区で、日頃から住民の耳にも音が聞こえる上に、芸妓さんは若者たちに演奏を教える先生役にもなったので、この頃から橋北のお囃子が上手になったのではないかと思います。
 この花街はなぜか橋南の旧城下町の周囲を反時計回りに移動していってようで、北の伝馬町から西の大横町を経て東の扇町に移り、最後に飯田城が壊された跡にできた常盤町、追手町に移りました。今でも常盤町界隈に料亭が残っているのはその頃の花街の名残りです。
 お練り祭りには、戦前も大正時代中期に「下常盤町の芸者連の立ち三味線」などが出た記録が残っています。
 戦後、昭和31(1956)年のお練り祭りに初めて「飯田料芸組合の囃子屋台」が参加し、当時の芸妓さんたち40余人と花柳界の師匠たち、料亭の旦那衆がお囃子道中をしました。囃子屋台に三味線、大太鼓、小太鼓、鼓、笛の10余人が乗り、まず常盤町を出発して華やかに銀座、伝馬町、桜町を進み、若い衆が総がかりで大宮諏訪神社の石段を曳き上げて拝殿まで上ったそうです。それからお練り祭りの3日間かけて全町をながし、通りで所望に応じて踊りを見せました。
 芸妓さんの数は徐々に減って、昭和49(1974)年のお練り祭り当時で31人。本番の2週間くらい前からお座敷の合間を縫って稽古し、飯田音頭、飯田奴音頭、東京音頭の替え歌など10余の踊りを出しました。この年から、屋台を曳く男手が足りず、トラックの荷台をお囃子の仮設屋台にしたということです。
 この「飯田料芸組合の囃子屋台」は昭和61(1986)年まで6回連続で出演しましたが、芸妓さんの減少などのため平成に入ってからは途絶えてしまいました。
 現在はコンパニオン全盛で、新しく入る人もなく、飯田に残っている「おねえさん」は数えるほどです。でも今ならまだ祝舞など見せてもらうことができるので、機会があればお座敷やお祝いの会などにお呼びください。

 芸妓さんの数が残り少なくなる中、なんとか飯田の花街文化を後世に伝えようと、日本舞踊、三味線、琴の師匠などが集まって3年前に「芸能伝承 今昔小町の会」を結成しました。この会は飯田市の名勝天龍峡にある「龍峡亭」(女将さんが花柳流の師匠)を舞台に「和遊楽」というイベントを開催し、一般の人が邦楽や花街文化に親しむ機会をつくってきました。その一つとして昨年10月には東京品川の芸妓置屋「まつ乃家」の芸者さんたちを招いて、飯田と品川の芸能とお座敷遊びを楽しむ会を開きました。
 こうした縁があって、今回のお練りまつりに「芸能伝承 今昔小町の会」が「飯田 華の踊り屋台」を出し、「まつ乃家」の芸者さんたちも参加することになりました。「飯田料芸組合の囃子屋台」の出演が昭和61(1986)年を最後に途絶えてから、ちょうど30年ぶりの復活になります。
 今回は芸妓さんたちだけでなく一般からも踊りと三味線の参加者を募集し(締切済み)、飯田奴音頭、伊那節、飯田古意めいぶつ唄などを踊ります。
 品川はリニア新幹線の出発点で、飯田は長野県駅ができる場所。2027年には40分ほどで結ばれる見込み(現在は高速バスで飯田―新宿が4時間15分)で、こうしたことも新しい交流の動機につながっているのかもしれません。
 「飯田 華の踊り屋台」は26日に出演します。

飯田お練りまつり出演団体

 飯田お練りまつり(3月25~27日)の出演団体と出演日が2月1日、正式に決定しました。過去最多の47団体が出演します。
 前回の記事で紹介した「大名行列」と「東野大獅子」は3日間通して出演します。また11団体は26日と27日の2日間出演、19団体は26日のみ出演、15団体は27日のみ出演となります。
 出演日別の出演団体は次のとおりです(昭和40年代以降の9回のうち、1回も休まず出演している団体を「常連中の常連」、7~8回出演している団体を「常連」としました)。

<25~27日の3日間とも出演>
大名行列――――――――――メイン中のメイン
東野大獅子―――――――――メイン中のメイン

<26日と27日に出演>
羽場獅子舞―――――――――常連中の常連 地域を代表する大型屋台獅子の1つ
北方獅子舞―――――――――常連中の常連 慶事を祝い優雅に舞う雌獅子
銀座次郎長道中―――――――常連   銀座の商店主たちが次郎長一家に扮し踊る
下殿岡獅子舞――――――――常連   格調高い古参、15年前に子獅子が誕生
座光寺八木節――――――――常連   そろいの花笠を手に華やかに踊る
上山獅子舞―――――――――6回連続 蝶と戯れる獅子の静と動、最後は激しく
満嶋掛け太鼓――――――――6回連続 勇壮に悪魔を払い御神体の行列を先導
山本南平獅子舞―――――――4回連続 大神楽系で獅子とひょっとこが優雅に舞う
命響館―――――――――――2回連続 六尺太鼓を響かせ子どもたちが熊手踊り
阿智黒丑舞―――――――――2回連続 魅せることを意識した平成生まれの黒丑
橋北屋台囃子――――――――初出演  ※※※要注目・復活の囃子屋台※※※

<26日のみ出演>
天龍太鼓――――――――――常連中の常連 泰平と豊穣を祈る中央通りの伝承芸能
切石獅子舞―――――――――常連中の常連 青い親子獅子。子獅子は子どもが操る
天龍峡龍神の舞―――――――常連中の常連 天龍峡の深淵にひそむ巨龍の化身
片桐町長持行列―――――――常連中の常連 諏訪近辺の御柱行列に多く見られる
中平獅子舞―――――――――常連   青獅子の前で女の子たちがおかめ踊り
下山獅子舞―――――――――常連   珍しい一角の白い親子獅子が勇壮に競演
上殿岡獅子舞――――――――6回連続 獅子起こしの曲と演技に特徴がある
上黒田獅子舞――――――――6回連続 伊那谷唯一の伊勢流神楽獅子で勇壮典雅
駄科下平獅子舞―――――――6回目  大正時代から始まり、独自の舞を持つ
一色獅子舞―――――――――5回連続 宇天王の所作に合わせて優雅に舞う
上茶屋獅子舞――――――――4回連続 平成生まれの頭も幌も真っ黒な黒獅子
名古熊獅子舞――――――――4回連続 長い首で大きく動き、最後に舞い込み
大洲七椙神社獅子舞―――――4回連続 勇壮な獅子舞と華やかなおかめ踊り
代田獅子囃子――――――――4回目  女の子たちの稚児踊りがかわいい
信州御代田龍神太鼓・鼓響――3回連続 龍になった甲賀三郎の伝説を勇壮に
河野大宮神社獅子舞―――――3回目  おかめに操られ優雅に舞う雌獅子
上中村獅子舞――――――――2回連続 大神楽系で「母衣の舞」と「鈴の舞」
龍江一区大獅子―――――――初出演  幅1.3m、高さ90cmの巨大な獅子頭
飯田・華の踊り屋台―――――初出演  ※※※要注目・復活の芸妓屋台※※※

<27日のみ出演>
牛牧義士踊り――――――――常連中の常連 忠臣蔵の赤穂四十七士の物語を再現
麻績神社獅子舞―――――――常連   歌舞伎のような三兄弟が獅子を曳く
阿島獅子舞―――――――――常連   悪霊鎮めの荒々しい舞で暴れ獅子と呼ばれる
上村中郷獅子舞―――――――6回連続 夫婦獅子で練り、振袖姿の雌獅子が舞う
新田虎舞――――――――――5回連続 獅子でなく虎。夫婦の白狐の狐踊りも珍しい
加々須獅子舞――――――――4回連続 前半は静の「里」、後半は動の「山」
福島春日神社獅子舞―――――4回目  牡丹の花を染め抜いた幌が自慢の牡丹獅子
和太鼓・心鼓毬・彩―――――3回連続 結成17年の和太鼓グループ
山田河内獅子舞―――――――3回目  悪魔払いの屋台獅子。神楽囃子もある
鹿塩獅子舞―――――――――3回目  屋台がなく、幌に7、8人入って自在に舞う
木賊獅子舞―――――――――2回連続 三河発祥の獅子芝居。演目は「葛の葉」など
信州睦天龍―――――――――2回連続 日本神輿協会に所属する神輿好きのサークル
駄科南平獅子舞―――――――2回目  5つの曲と舞を伝承する雄獅子
寺所獅子舞―――――――――初出演  天狗が獅子を誘導。お囃子もある
韓郷神社獅子舞―――――――初出演  足を見せて豪快に所狭しと暴れまわる

 …今回の要注目は復活2題。1つは「橋北屋台囃子」で、戦前のお練りまつりの「自ら演じるわが町のお囃子」を復活させます。もう1つは「飯田 華の踊り屋台」で、戦後のお練りまつりを華やかに飾り、平成に入って途絶えていた芸妓さんの踊り屋台を再現します。次回はこの2つについて書きます。

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大名行列と東野大獅子

 飯田お練りまつり(3月25~27日)では今回も47団体が演技を披露しますが、まずその中でメイン中のメインとなる「大名行列」と「東野大獅子」を紹介します。なお飯田お練りまつり公式ホームページでは少し動画が流れるので、そちらで大名行列の雰囲気や東野大獅子の大きさを感じてみてください。

16021201 「大名行列」は飯田城下町18か町の1つである本町三丁目の出し物。江戸時代の参勤交代で使われた本物の道具(全部ではありませんが)を使い、さまざまな所作を見せます。本町三丁目大名行列保存会ホームページに歴史と道具、所作、掛け声についての説明があり、明治~昭和中期の貴重な写真も載っています。
 本町三丁目は、江戸時代のお練り祭りでは屋台と奴踊りを出していましたが、慶応2(1866)年の火災で屋台を焼失。そこで奴踊りではなく本格的な大名行列をやろうと、大政奉還(1867年)から廃藩置県(1871年)までのごく短い間に千載一遇とも言うべきチャンスを得て、東京の大名屋敷から行列道具を買い入れました。
 大名家との間を仲介したのは、本町三丁目の小さな醤油屋に生まれた薄井龍之という人物。薄井は京都で頼三樹三郎から儒学と詩文、江戸で佐久間象山などから兵法を学び、水戸人士と交流して勤王の志士になり、天狗党の筑波山挙兵に加わって参謀役を務めました(和田峠の戦の後、郷里の飯田を通ることに賛同できず離脱。ちなみに天狗党には「天下の糸平」こと田中平八も加わっていたという面白い事実もあります)。明治維新に際し新政府軍で新兵の訓練をしたり、明治元(1868)年6月から戊辰戦争に軍監として従軍し、会津戦争後、同年11月から明治政府の官吏になりました。明治3(1870)年4月から開拓使で札幌のまちづくりにあたり、「薄野(すすきの)」の名称は薄井の1文字を取ったものとも言われています。その後、地方の官吏や判事を歴任し、名古屋裁判所長、秋田地方裁判所長などを務めました。幕府に捕まって脱獄したり、刺客に襲われて重傷を負ったり、37回も戦って身体中に17の傷があったり、逸話も多くて立派にドラマの主人公になる人物です。その薄井が官吏として落ち着くまで、飯田に残した母親が地元の人々の世話になったことから、感謝のために大名行列の道具の入手を仲介したといいます。
 道具を買い入れた時期について、『飯田のおねり祭り』(烏寒三郎著、山村書院1938年刊)には「明治元年三月二十一日に板屋金兵衛といふ者が酒井雅楽頭(近江彦根城主)から金八両三分也で買受けた」とあり、『下伊那20世紀年表』(新葉社1996年刊)もこれを踏襲していますが、明治元(1868)年3月は戊辰戦争の真っ最中(江戸城無血開城の直前)で、江戸が戦場になりかねない危険な時期なので、間違いだと思います(『飯田のおねり祭り』の記述は買い入れ先も金額も間違っています)。薄井が東京に落ち着いて母親を呼び寄せたのは、会津戦争が終ってから北海道に行くまでの間のはずで、道具の買い入れもその時期と思われます。
 買い入れに成功したのは小浜藩(若狭10万3千石、酒井氏)、仙台藩(陸奥ほか62万石、伊達氏)、姫路藩(播磨の一部15万石、酒井氏)の道具で、その品揃えは百万石の格式に相当すると言われます。道具を運ぶ費用は八両二分だったと伝えられていますが、買い入れ金額は記録がなく、大名家の立場に配慮して極秘にしたとされています。
 これらの道具は町内の土蔵に保管されていましたが、昭和22(1947)年4月5日に今宮郊戸神社の土蔵に移したところ、その2週間後に飯田大火が起きて元の土蔵は全焼、危ういところで焼失を免れました。何しろ年代物で保全が難しいため、その後も保管場所が問題になりましたが、現在は飯田市美術博物館に保管されています。
 行列の所作や芸は、明治11(1878)年に東京から先生を招き、今宮郊戸神社の原っぱで本町三丁目の住民総出で1か月かけて指導を受け、身に付けたといいます。江戸時代末期の大名行列は、いよいよ江戸に入るという時だけ本格的に人数と道具をそろえた行列を仕立てており、江戸にそれを請け負う業者があったということです。飯田に招いた先生も、元々そういう仕事をしていた経験者でした。

 大名行列はお練り祭りには明治5(1872)年から1回も休まず参加し(戦時中で祭りが行われなかった昭和19年を除く)、今回で24回目になります。
 行列は化粧傘を先頭に先箱、台傘、槍(黒車熊、天狗車熊、伊達、白車熊、富士形、大車熊、蓬莱大鳥毛)、草履・傘が続き、ほかに子どもたちが演じる御徒士・鉄砲組・御弓・鷹匠、若い娘たちが演じる薙刀・御駕籠・茶匠・腰元がつきます。このうち江戸時代からの本物の道具は、先箱(文書等の箱、2箱)、黒車熊(頭に熊の毛がついた槍、8本)、伊達(頭に椀形がついた槍、2本)、蓬莱大鳥毛(蓬莱山を表す飾りがついた槍、1本)です。
 現在、化粧傘を担当している方は平成16(2004)年から務め、今回で3回目になりますが、今回を最後に後継者にバトンタッチする予定だということです。
 また行列の前に天覧旗を立てますが、これは大正8(1919)年に東京の奠都50年祭に招待され天覧を賜ったしるしです。東京の主催者側が、天覧にふさわしい大名行列を探して長州、水戸、甲府などを見て回った後、飯田で試技を見て一目で気に入り即決したということです。本番では沿道が見物人で埋まり、神田で陸橋に人が上がり過ぎて壊れる騒ぎがあったと伝えられています。
 一方、昭和22(1947)年、飯田市制10周年記念行事に特別出演する話が出た時には、GHQに武家時代のものなどとんでもないと叱られて、取り止めたという話が残っています。
 行列の見所はまずは「道中行列所作」で、「エーハーリーワサーートーナー」といった独特の掛け声にあわせ、動きをそろえてゆったりと進みます。途中、天狗車熊、白車熊、富士形の槍は、3人1組で2本の槍を投げては受ける道中受け渡しがあります。
 さらに続く見所として「所望所作」があり、重い飾りのついた槍を回す力技、軽快な草履と傘の演技など、さまざまな所作や芸を見せます。
 左上の写真は道中行列所作で、行列の最後尾近く。見えている槍が蓬莱大鳥毛です。左下は草履と傘の所望所作で、草履を高く投げ上げてキャッチするのが1つの見せ場です。
 本町は江戸時代は飯田城の追手門からまっすぐのびる城下町のメインストリートで、明治以降も昭和中期までは問屋街として隆盛を誇りました。また本町三丁目は江戸時代から漆塗り椀の生産が盛んで東海地方の宿場などに大量に出荷し、そのほか大工、建具なども含め多くの職人が暮らしていました。
 前回の記事でも書いたとおり、本町三丁目は戦後に世帯数・人口が減少し、昭和40年代には大名行列の存続が危ぶまれる状況になりました。外部に応援を頼んだりしてみたものの練習にも顔がそろわない始末で上手くいかず、まだ町内に40戸ほどあった時代には何とか基本的に町内だけの力で、あとは市の職員が数人と近くの子どもたちが応援に入るくらいで続けていたようです。
 その後、平成に入った頃から、練習にも真面目に取り組む熱心な応援者が増えてきて、大名行列の公演を助けるようになってきました。本町三丁目は最近ではわずか10数戸しかない小さな町内になりましたが、こうした理解者の協力も得て、全国に誇る大名行列の継承を図っています。
 天覧公演で日本一の折紙が付けられた大名行列、ぜひ飯田お練りまつりで本物を見て、「日本一!」と声援をおくりましょう。

 「東野大獅子」は大宮諏訪神社の宮本である東野地区の出し物です。
 獅子舞というと全国に多く見られるのは1人か2人で舞うものですが、飯田周辺に多いのは大型の屋台獅子で、東野大獅子もその1つです。胴体は屋台の上に竹を半円形に曲げた骨組みをつけて幌をかぶせたもので、その中に舞い手と交代要員、太鼓・笛の囃子が入ります。小さいもので10数人、大きなものだと40~50人が胴体に入っています。東野大獅子は特に大きく、頭から尾まで長さ25m、背中の高さは3m以上あります。今年は18年ぶりに幌を新調しています。
16021203 東野大獅子では獅子曳き役の「宇天王」が獅子の前に立ちます(地元では昔から「王様」とか「大王」と呼んでいます)。宇天王は手綱を手にして舞うように獅子を操り、獅子はそれにあわせて起きて暴れたり鎮まったりします。宇天王の優美な所作と大獅子の勇壮な舞が見所です。
 東野大獅子を含め、この地域の屋台獅子は、高森町(飯田市の北隣)に伝わる大嶋山瑠璃寺の獅子舞を源流としています。この獅子舞は賑やかな神楽獅子とは異なる優雅な趣きが特徴で、宇天王の所作は舞楽の舞と共通するとされ、学術的にも注目されています(これらの獅子舞の話はまた改めて書きます)。
 前回の記事で書いたとおり大宮諏訪神社は慶安3(1650)年に整備され、慶安5(1652)年に最初のお練り祭りとされる祭礼が行われましたが、この時に獅子田楽が出たという記録があり、東野の獅子舞もこの種のものだったと考えられています。明治時代半ばまでは屋台獅子ではありませんでした。
 「大獅子」になったのは明治35(1902)年からで、当初は竹を籠のように編んで縦横1.6mの巨大な籠獅子を作りました。これは本町三丁目の大名行列に対抗して、何か珍しい大物を出そうと考えた結果、生み出されたものだそうです。当時の写真が残っていて、確かに大人の身長に近い巨大な頭で見物人が大喜びしそうです。宇天王の登場は明治41(1908)年からで、上荒町(中央通り)にいた井出市蔵という彫刻の名人に彫ってもらったといいます。
 その後、大正3(1914)年のお練り祭りに向けて、関係者の親戚がいた高森町牛牧から本格的な獅子舞を習い、大嶋山瑠璃寺の獅子舞の流れを汲む優美な舞を取り込みました。さらに大正9(1920)年に向けて、名古屋に大きな獅子頭を発注して買い入れました。出来上がって届いたところが飾り用の巨大な獅子頭で、高さ60cm、幅63cm、重さ30kgもあり、とても操ることができないので、内側を削って重さを18kgくらいにしたといいます。
 18kgといえば、よく使う18リットルの灯油用ポリタンクに水を一杯に入れた重さなので、想像してみてください。非常に力がいるため舞い手は筋トレをして練習を重ねますが、それでも長くは続けられないので、本番中は胴体の幌の中で頻繁に交代します。
 この獅子頭は昭和49(1974)年まで使い、現在は飯田市美術博物館に保存。昭和55(1980)年からはまったく同じ大きさで作った2代目の獅子頭を使っています。

 東野大獅子はお練りまつりの前日、「大門口の舞」で6年の眠りから覚め、その日は地元で町内ならしをします。3日間の本番では、「大門口の舞」のほか最も基本の「道中起こしの舞」や、明治時代の大籠獅子の舞だったという「まだかの舞」などを舞い、1日の最後には他では見られない独特の「寝かしの舞」を舞います。祭りの最後に大宮諏訪神社に戻って奉納の舞を行い、夜の境内で名残りを惜しむように100人以上の舞い手全員が交代しながら長時間にわたって舞い続け、最後に大あくびをして大獅子は再び眠りにつきます。
 6年に1度しか目を覚まさない門外不出の東野大獅子ですが、これまでに長野冬季五輪の閉会式(1998年)や、飯田市で開催された第13回全国獅子舞フェスティバル(2010年)に要請を受けて特別公演を行い、今年は6月5日に長野県で行われる全国植樹祭の記念式典アトラクションに参加して天皇皇后両陛下の前で演技を披露することが決まっています。地元以外の遠征公演は長野五輪以来18年ぶり。これらはいずれもお練りまつりと同じ年だからできたことで、大勢の協力が必要なだけでなく屋台づくりや練習にも時間がかかるため、通常は飯田お練りまつり以外で目にすることはできません。

 …6年前に撮ったはずの写真がなかなか見つからず、アップするのが遅れてしまいました。パソコンを交換した時にDVDディスクに移して変な場所にしまってあり、やっと見つかりました。
 2月1日に開かれた催し物団体会議で今回の参加団体が確定しているので、次回から紹介します。あ、御柱祭も13日に山出しをする神社があるから、そちらも紹介しなければ…

<3月11日追記>
 東野大獅子の登場は明治35(1902)年からでした。記事を公開した時点では明治35年か明治41年かはっきりせず、併記しておきましたが、飯田市美術博物館が昨年3月に発行した『飯田お練り祭り本屋台調査報告書』の中に信頼性の高い史料が引用されていたので、明治35年で間違いないと判断し、記事を修正しました。
 伊那史学会が発行した『伊那の芸能』(村沢武夫著、1967年刊)には、地元の古老2人から聞いた話として、明治35年からと書いてあります。しかし地元の東野公民館が発行した『東野の百年誌』(1970年刊)には明治41年と書いてあり、近年の他の文献でも明治41年と書いたものが多く、最近の行政の発行物でも明治41年としているので、どうなっているのかと思っていたのですが…。
 『飯田お練り祭り本屋台調査報告書』の中で、学芸員の櫻井弘人さんが書いた「飯田お練り祭り―その歴史と本屋台」は、当時の地元紙「南信」(明治35年4月1日付)の記事を引用し、明治35年の出し物の中に東野の獅子舞があったことを明らかにしています。これが東野大獅子の始まりと考えて間違いないでしょう。
 この本の存在は、私はうかつにも昨日まで知りませんでした。お練り祭りの歴史について、江戸時代から昭和前期まで回を追って細かく書かれているので、興味のある方はご覧ください。

御柱祭と飯田お練りまつり

 6年(数えて7年)に1回、寅年と申年に諏訪で行われるのが「諏訪大社の御柱祭」で、今年も上社と下社でそれぞれ4月に御柱の山出し、5月に里曳き・建御柱が行われます。「人を見るなら諏訪の御柱」という言葉があるほど多くの人出で賑わいます。こちらが諏訪大社御柱祭公式ホームページです。
 この「諏訪大社の御柱祭」と同じ寅年と申年の春、飯田周辺の神社30数社(諏訪系に限りません)でもそれぞれ個別に御柱祭が行われます。また大宮諏訪神社(飯田市宮の上)のある飯田市街地では「お練りまつり」が行われ、今年は3月25~27日の3日間、地域内外・新旧のさまざまな芸能(予定47団体)が大集合して路上で演技を披露します。こちらが飯田お練りまつり公式ホームページです。

16020802 諏訪系の神社は諏訪大社を総本社として全国に1万社以上の分社があり、長野県内には約1200社あります。諏訪湖から流れ出す天竜川の流域・伊那谷では圧倒的に数が多く、私が子どもの頃に遊んだり初詣に行った神社も、引っ越していま住んでいる地域の神社も諏訪系です。鎌倉時代から飯田周辺の天竜川左岸(伴野庄)を領有した知久氏や、上伊那の保科氏、藤沢氏、中沢氏などは諏訪氏の分流なので当然、諏訪社が氏神で、源頼朝や武田信玄も諏訪大社を崇敬し、鎌倉時代から飯田郷の一部などが寄進されて諏訪大社上社の領地になっていたこともあり、諏訪系の神社が多くなるのは自然な成り行きです。
 こうした諏訪系の神社の中には諏訪大社と同じように式年御柱祭を行う神社があり、飯田周辺の御柱祭は3~4月を中心に行われます。比較的規模が大きいのは御射山神社(松川町上片桐)や、300余段の石段を曳き上げる飯沼諏訪神社(飯田市上郷)。また山の木を切るのではなく、根の付いた御柱を植樹するというユニークな御柱祭もあります。それぞれ山出し、里曳き、建御柱を行い、盛り上がります。左の写真は飯沼諏訪神社の御柱祭(1992年)で、曳き上げた御柱を社殿の前に建てているところです。
 これら各地の御柱祭については今まで意外に体系的な調査がされておらず、ここに書くのもひと苦労なのですが、できるだけ情報をまとめて引き続き書いていきたいと思います。

 諏訪系の中でも飯田市の大宮諏訪神社の式年祭は独特で、諏訪大社から御神符を迎え、神輿におさめて町内を練り歩く神幸祭(神輿渡御)を行います。これに続き、飯田市街地で「お練りまつリ」が行われます。大宮諏訪神社で御柱祭を行ったという記録はありません。「お練りまつリ」というのは、大勢の人がまちを練り歩くことからこう呼ばれるようになったと言われています。江戸時代から明治時代半ばまでは町内ごとに大きな山車を曳きながら城下町18か町を練り歩き、それと同時に趣向を凝らした出し物を通りで演じて競い合っていました。
 飯田城下町が形成されたのは安土桃山時代~江戸時代初期で、この時期に通りと町屋、宿場、侍屋敷、寺社などが整備されました。大宮諏訪神社は慶安3(1650)年に飯田藩主脇坂安元が社殿などを整備しましたが、それ以前は小さな祠でした。東隣にある長久寺は享禄3(1530)年創建で、諏訪大明神を勧請して鎮守としたというので、おそらくこれが大宮諏訪神社の始まりと考えられます。神社側は明治時代以降、神社も式年祭ももっと昔からあったと主張しています(江戸時代のお練り祭りの始まりについて、神社側が「復興」という言葉を使うのもこのためでしょう)が、根拠がありません。長久寺は明治元(1868)年の神仏分離まで大宮諏訪神社を管理し、また飯田藩主の脇坂氏、堀氏の菩提寺として藩主と深いつながりを持ちました。
 脇坂安元の家臣で儒学者の和田宗允が書いた『大宮諏訪神社縁起』によると、新しい社殿が完成して慶安4(1651)年に遷宮式を行った後、「慶安五年三月朔日、始めて祭礼を行ふ、もろもろの武器そなわりて甲冑母衣列をひく、風流のわたりもの、衣服行裳をつくし、獅子田楽いろいろのつくりもの幻戯をなし、俳優をなし…」とあり、この慶安5(1652)年の祭礼がお練り祭りの始まりとされています。
 その後、定期的に祭礼が行われたものと思われますが、寛文10(1670)年を最後に50年ほど中断します。寛文12(1672)年に脇坂氏が播磨龍野に移され、かわって堀氏が入りますが、同じ飯田藩といっても、堀氏は脇坂氏の5万5千石よりはるかに少ない2万石しか与えられない小身で、祭りどころではなかったのかもしれません。
 祭り再開のきっかけになったのは正徳5(1715)年の未(ひつじ)満水でした。伊那谷各地はこの水害で甚大な被害を受けますが、飯田の住民が高台にある大宮諏訪神社の境内に避難して加護を祈願したところ、水は北の野底川と南の松川に分かれ、城下町は大きな被害を受けずに済んだといいます。この神徳をたたえて長久寺住職や住民が祭りの再興を藩主に願い出て、享保4(1719)年に祭りが再開しました。その後は2年おきに(3年に1度)祭りを行い、享保19(1734)年から、諏訪大社の式年祭と同じ寅と申の年に(6年に1度)行うように城下町18か町で申し合わせたと伝えられています。

 城下町18か町はそれぞれ3種類の屋台(本屋台、幡屋台、囃子屋台)を保有し、本屋台は正面が神殿造りで左右後に幔幕をはり、舞台で能・狂言を演じました。幡屋台は大きな幟を立てます。囃子屋台では太鼓、笛、三味線で囃子神楽を演奏しました。本屋台は欅造りで、白木造りもあれば朱や黒の漆塗りもあり、金色や銀色の金具がつき、3階建てで高さ数mという豪華な山車。手の込んだ装飾彫刻や、美しい刺繍が施された幕も見事な工芸美術品でした。
 江戸時代中期以降、享保年間や寛政年間などには幕府から倹約令が出され、飯田藩も徹底を図っていますが、祭りは派手になりがちでした。寛政6(1794)年には藩から質素にするようにとお触れが出ているのに、本町一丁目、番匠町(通り町一丁目)、大横町、伝馬町一丁目、伝馬町二丁目が高名な宮大工だった諏訪和四郎の門弟金四郎を招いて本屋台を新調したといいます。
 ただ、天明の大飢饉や浅間山大噴火に見舞われた直後の天明8(1788)年の祭りは形だけで盛り上がりませんでした。米が高騰して物が売れず、不景気で職人は仕事がなく、数年の間に城下町で70軒近く夜逃げが出ているという有り様では無理もありません。また「床屋火事」(1823年)と呼ばれる大火で13か町(橋南)の大半が焼失した翌年、文政7(1824)年の祭りは延期して4年後に行ったといいます。

 昭和3(1928)年に作成された『大宮諏訪神社縁起絵詞』には、江戸時代の様子と見られる屋台の曳き回しや、明治時代以降と見られる獅子舞が描かれています。また詞書に、明治5(1872)年と明治11(1878)年のお練り祭りは各町が3種類の屋台を新調して盛大に行い、地元の古老もかつて見たことがないと言うほどだったと書かれています。飯田藩による規制もなくなって伸び伸びと行えるようになり、明治11(1878)年から大正3(1914)年までの7回が戦前のお練り祭りの最盛期だったと見られます。現在のお練り祭りの目玉になっている大名行列や東野大獅子もこの時期に始まりました。
 なお、お練り祭りは元々は旧暦3月1日から行われていましたが、明治6(1873)年に新暦にかわってから、昭和43(1968)年まではおおむね新暦4月1~3日に行われました。雨の多い時期でもあり、昔は雨天順延で、晴れるまで待って行ったようです。

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 明治30年代になると通りに電線や電話線が引かれ始め、高さ数mもある本屋台は曳くことが難しくなりました。当初は電線を持ち上げて屋台を通したといいますが、まもなく曳き回しは行われなくなり、自慢の本屋台は祭りの間それぞれ自分の町に飾っておくだけになりました。その後、どこかに売ってしまう町が出てきたり、さらに昭和22(1947)年の飯田大火によってほとんどが失われました。それでも本町一丁目の本屋台が開善寺(飯田市上川路)の茶室になって残っているほか、この屋台の装飾だった龍の彫刻、池田町(通り町二丁目)の舟形屋台の龍形船首はじめ各種彫刻類、松尾町二丁目の本屋台の彫刻と幕、番匠町(通り町一丁目)の本屋台の幕などが残っており、往時をしのばせています。
 本屋台が動かせなくなっても囃子屋台と幡屋台は曳けたので、戦前のお練り祭りは各町のお囃子や演芸がメイン。つまり多くの住民にとって「自ら参加する祭り」で、大店の旦那衆が意外な芸を披露したり、芸達者な若者たちがいいところを見せたりといったことがこの祭りの風情でした。各町の若者たちは半年も前から師匠について三味線や笛、小鼓などの稽古に励み、子どもたちは学校を休んで祭りに出ました。祭りの3日間は商店も休み、表通りに紅白の幕をめぐらせ、客を迎えて接待しました。
 こんなに盛んだった祭りに、力が入らなかったのは大正9(1920)年。というのは、伊那電気鉄道(現JR飯田線)の飯田駅を現在の場所に誘致するために、駅と路線の用地を飯田町で買収して伊那電気鉄道に無償で渡すことになり、住民に多額の寄付をせまられたからだそうです。それでも呼び物の本町三丁目の大名行列、松尾町一丁目の獅子舞、東野大獅子といくつかの囃子屋台は出て、後年、飯田の文筆家・武田太郎氏は「やりゃなんとかやれる見本」と書いています。ちなみにこの祭りの直後、第一次世界大戦終結後の戦後恐慌で生糸の価格が大暴落し、飯田でも倒産が相次ぎました。
 昭和に入ると祭りにも軍国主義の影響が色濃く現れ、満州事変が起きた半年後、昭和7(1932)年のお練り祭りでは江戸町の子どもたちが「古賀連隊長」と「肉弾三勇士」の創作剣舞をやり、竹籠で作った戦車の屋台を曳いたという記録が残っています。戦時中、昭和19(1944)年のお練り祭りは享保4(1719)年の再興以来、唯一の中止になりました。

 終戦後、上記のように昭和22(1947)年に飯田大火があって各町の屋台などがほとんど失われるとともに、昭和30年代に周辺11か村と合併し、昭和30~40年代の高度成長時代には地域の姿も大きく変わり、お練り祭りは新しいスタイルを模索する時代を迎えました。
 大火からの復興途上にあった昭和25(1950)年のお練り祭りには、大名行列、東野大獅子と各町からのいくつかの出し物のほか、市外の獅子舞が参加しました。「昭和の大合併」の時期に入ると周辺の村々に広く参加を呼びかけたのか、昭和31(1956)年には市外の獅子舞の数がますます増えて20にもなりました。
 ところが昭和43(1968)年になると、周辺町村でも多くの伝統芸能が存続の危機を迎えていて、市外の獅子舞はわずか3つに減りました(昭和30年代に参加した獅子舞が、遅くまで所望を求めて回ったり酔っ払って騒いだりで、住民の不興を買った部分もあったようです)。一方、獅子舞のほかに牛牧の義士踊り、上片桐の長持行列、天龍峡の龍神の舞、座光寺の八木節などが参加し始め、これらは現在まで参加を続けています。
 昭和30年代から地元町内の出し物は知久町、銀座、中央通り、橋北の4つの連合商栄会ごとにまとまって出す形になり、中央通りは自前の天龍太鼓を確立し、銀座も次郎長道中を始めましたが、知久町と橋北は毎回、頭を悩ませながら外部から出し物を呼んで来る状況になりました。昭和49(1974)年には図らずも4つ全て太鼓になったことがありました。
 またこの頃、飯田の芸妓さんたち総出の囃子屋台は華があって人気がありましたが、代表的な伝統芸能だった松尾町一丁目の獅子舞は大火で大獅子頭が焼失、松尾町三丁目の鹿島踊りは昭和43(1968)年を最後に出演が途絶え、本町三丁目の大名行列も担い手不足で存続が危ぶまれる状況になっていました。
 飯田の商家は元々は職住一体でしたが、昭和40年代ぐらいになると、何かと手狭な中心市街地から上飯田、鼎、上郷などの郊外に住処を移し、昼間だけ商売のために通ってくるという家がかなり増えました。大人のつきあいは継続したとしても、子どもが育つ場所が変わる影響は小さくなく、こうした変化も祭りの姿に影響したと考えられます。
 一方、人出の方はというと、まだまだ娯楽も少ない時代で近郷近在から見物客が押し寄せ、飯田の言葉で「ねやねや」という状態。昭和中期、商店が並ぶ銀座、知久町、中央通りは大変な賑わいでした。小売店や飲食店にとっては、もう店を休んで参加する祭りではなく、稼ぎ時になっていました。

16020801 昭和48(1973)年にオイルショックが起きて高度成長時代が終わり、翌年のお練り祭りは沈滞ぎみのムードで迎えることになります。この頃、郊外に卸団地が完成し、大きな問屋が中心市街地から集団移転しました。この祭りの直後に中心市街地に大型店2店がオープンし、次の年に中央道(名古屋方面)が開通と、いよいよ地域の大変化が目に見える形で現れてきました。
 こうした激動の中で、昭和49(1974)年のお練り祭りは日程変更を決断し、それ以前の4月1~3日から3月末の土日曜日を含む3日間に変わりました。「祭り」から「イベント」に変わったとも言えますが、日程だけでなく内容的にもこの前後がターニングポイントで、人出の多さとは裏腹に、この昭和30~40年代がお練り祭りの歴史の中で最も難しい時期だったと見ることができるでしょう。城下町が特権的・独占的な商業取引によって栄えた江戸時代以来の姿から変化し、相対的に周辺地域の力が上がってくる中で、新しい時代の祭りを模索した時代とも言えます。この時期に祭りを守り続けた人たちには頭が下がります。
 参加団体の数は昭和43(1968)年が18団体、昭和49(1974)年が23団体、昭和55(1980)年が25団体、昭和61(1986)年が27団体と、じりじりと増えました。
 昭和後期には各地で伝統芸能の価値が見直され始めます。飯田周辺町村でも、祭りの担い手だった青年団の組織が昭和30年代に急速に衰え、多くの伝統芸能が継承の危機を迎えましたが、昭和40年代後半を中心に各地で保存会が結成され、立て直しが進みました。お練り祭りはこれらの伝統芸能を披露する晴れ舞台として、新しい意味を持ってきます。

 平成に入ると、新しい時代のお練り祭りがいよいよ花開いてきます。平成4(1992)年は35団体、平成10(1998)年は43団体と、一気に参加団体が増えました。保存会体制を整えて復活した周辺町村の獅子舞などが積極的に参加します。担い手不足で存続が危ぶまれていた大名行列も、近隣から熱意のある応援者が加わるようになって危機を脱しました。さらに21世紀に入った平成16(2004)年からは、伝統芸能だけでなく近年誕生したパワフルな新しい芸能団体も参加しています。
 中心市街地を取り巻く環境は平成に入ってますます厳しく、郊外に新しく整備された幹線道路沿いに商業集積が進み、中心市街地の大型店は平成7(1995)年に撤退し、それを追うように商店の数も急激に減少しました。一方、90年代に「りんご並木」の再整備が行われ、21世紀に入って再開発ビルが相次いで完成し、まちの新しい魅力づくりも進んでいます。
 現在のお練りまつりは多くの参加団体にとって6年に1度の大きな晴れ舞台。一方、中心市街地にとっても自らの存在を広くアピールする大きな機会です。車両の進入を止め、まち全面を使ってこうしたイベントができる場所はここしかなく、中心市街地の新たな価値を感じさせる舞台になっています。

 …お練りまつりのあらましの歴史を書いてみました。現在のお練りまつりではメイン中のメインとされている出し物が2つあり、それが「大名行列」と「東野大獅子」です。次回、この2つの内容を紹介します。
 3月のお練りまつり本番に先立ち、市街地の2か所(中央通り3丁目、知久町1丁目)に「お練りサロン」が開かれ、大名行列の道具や獅子頭などを展示しています。また関連グッズも販売しています。お練りまつり前に飯田を訪れる方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

旧暦と二十四節気(覚え書き)

16020402 今日は立春。晴天に恵まれ、おだやかな暖かい一日でした。一年で一番寒い時期を過ぎて、少しずつ春らしくなっていくでしょう。
 飯田の冬はどのくらいの寒さかというと、中心市街地あたりで氷点下10度まで下がる日が年に1回あるかないかくらいです(もちろん標高の高いところはもっと寒いです)。1987年まではほぼ毎年ありましたが、1988年から1995年までは8年間に1度もなく、それ以後、氷点下10度以下を記録する年のほうが珍しくなっています。2000年から2015年までの16年間では2回しかありませんでした。今年は1月25・26日に記録し、4年ぶりの冷え込みとなりました。それでも1月の平均気温は平年より0.9度高く、全体としては暖冬でした。
 うちの近所の農家の畑ではもう農作業が始まっています。あの畑でいつも春先に作っているのは、確か露地物のリーフレタスだったかと…

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 「旧暦の大晦日と節分」の記事を書いた時に、日本古来の伝統的な年中行事について考えるには、旧暦と二十四節気の関係をきちんと理解することが不可欠だと改めて思いました。あちこちのサイトに似たような説明がありますが、一応信頼できるものとして以下の4つを上げておきます。

 国立国会図書館ホームページ―電子展示会―日本の暦
 海上保安庁海洋情報部ホームページ―天文・暦情報―天文と暦のQ&A
 国立天文台ホームページ―暦計算室―暦Wiki
 国立天文台ホームページ―よくある質問―暦に関する質問

 以下は私の覚え書きです。改めて調べてみると、双春年と無春年の話など面白かったので、まとめてみました(説明を省略したために厳密に言うと正確ではない部分もあります)。

<日本で使われてきた暦・旧暦と新暦>
 日本で使われてきた暦は大きく分けると次のように分けられます。
(A)6世紀半ばから明治5年12月2日(新暦1872年12月31日)まで使われた太陰太陽暦(旧暦)
 (a)貞享元年12月30日(新暦1685年2月3日)まで中国暦(元嘉暦、儀鳳暦、大衍暦、宣明暦)
 (b)貞享2年1月1日(新暦1685年2月4日)から日本独自の暦(貞享暦、宝暦暦、寛政暦、天保暦)
(B)明治6(1873)年1月1日から使われている太陽暦のグレゴリオ暦(新暦)

 上記の「○○暦」というのは暦法のことで、中国暦といっても毎年の暦の内容まですべて中国で作られたものという意味ではありません。日本で使われた中国暦は当初は百済で作られたものか、百済から来た暦博士が作ったものでしたが、飛鳥時代の推古12(604)年から、中国暦の暦法に従って日本人が作ったものを使ったとされています。
 律令制のもとでは、朝廷の陰陽寮の暦博士が暦の作成を行いました。養老律令(757年施行)の「雑令六 造暦条」に「凡陰陽寮。毎年預造来年暦。十一月一日。申送中務。中務奏聞。内外諸司。各給一本。並令年前至所在」とあり、翌年の暦を11月1日に中務省を通じて天皇に奏聞し、それを諸司に配っていました。

 陰陽寮が作成したのは漢文で書かれた具注暦で、民間には普及しませんでしたが、平安時代末期からそれを仮名で書いた仮名暦が現れました。さらに暦師の移住などで暦を作る知識・技術が流出し、各地で地方暦と呼ばれる暦が作られ、鎌倉時代からは木版で印刷した暦が民間にも出回るようになりました。代表的なものに伊豆の三島暦があり、鎌倉時代に関東では三島暦が使われたと言われています。
 室町時代~戦国時代にあったと見られる暦は京暦、三島暦、会津暦、南都暦(奈良)、丹生暦(伊勢)などです。これらの暦の間では暦日が食い違うことがあり、最も古い例では応安7(1374)年に京暦と三島暦が1日違っていたという記録があります。もっと大きな食い違いでは、閏月の入れ方の間違いによって月がずれたことがあります。京暦は天正11(1583)年1月の後に閏1月を入れましたが、三島暦は天正10(1582)年12月の後に閏12月を入れてしまいました。正しかったのは京暦で、この間違いによって三島暦を使っていた地域では天正11年の始まりが1か月遅れたことになります。ちなみに天正10年は「本能寺の変」のあった年です。
 江戸時代になると伊勢暦、江戸暦、仙台暦なども出てきて、ますます地方暦の種類が増えてきました。そこで幕府は貞享2(1685)年に貞享暦を施行した後、暦を発行する権利を江戸、伊勢、三島、会津、南都などに限るとともに、幕府天文方が作成したもの以外の内容の暦を発行することを禁止して全国の暦を統一しました。
 このうち、全国的に知られ江戸時代を代表する暦になったのが伊勢暦でした。もとは丹生暦を取り入れ、戦国時代に伊勢神宮の御師が全国各地の檀那回りをする時に大麻(お札)と一緒に配り、人気があったそうです。そのうちに地元の山田や宇治で暦を作るようになって伊勢暦が生まれ、江戸時代初期の寛永9(1632)年の暦から印刷して発行するようになりました。
 伊勢暦には1年の日数、月の大小の並びに始まり、その年の方角の吉凶、二十四節気、雑節(土用、節分、彼岸、八十八夜、入梅、二百十日など)が書かれており、この暦の普及にあわせて節分行事なども全国に広がったものと思われます。

 旧暦から新暦への切り替えは、明治政府が明治5年11月9日にいきなり「旧暦を廃して太陽暦を用い、12月3日を明治6年1月1日にする」という改暦の布告を出して強行しました。施行まで1か月もない急な布告で、国民生活に多大な混乱が生じたことは容易に想像できます。
 こんな無茶なことをした理由は、大隈重信(当時参議)の回想録『大隈伯昔日譚』(円城寺清著、1895年刊)によると、旧暦だと閏年には公務員に13か月分の月給を払わなければならないためでした(もう翌年に閏年がせまっていました)。他に、当時は5日に1回が休日だったので、七曜制にして休日を減らすという目的もありました。
 切り替えの理由は理解できますが、本来はもっと十分に余裕をもって国民に知らせる必要があるはずで、こういう強引なやり方はいかにも明治政府らしいところです。

 現在の日本の暦は国立天文台天文情報センター暦計算室が計算し、暦要項に春分の日・秋分の日、日曜表、二十四節気、朔弦望、日食・月食などの情報をまとめて発表しています。

<旧暦(太陰太陽暦)とは>
 太陰太陽暦では、まず月の満ち欠け(平均約29.5日周期)に合わせて1か月の始まりと終わりを決めます。毎月1日は新月の日で、1か月は29日(小の月)か30日(大の月)になります。
 これで12か月(多くは小の月と大の月が6回ずつ)を1年とすると、1年が約354日しかなく、太陽の動き(季節)と暦が年ごとにどんどんずれていってしまいます(16年ぐらいで夏と冬が逆転し、32年ぐらいで1周して元に戻ります)。そこで19年の間に7回の閏月を入れて、季節とのずれが一定以上に広がらないようにします。平年は12か月で353~355日しかなく、閏年は13か月で384~385日もあります。
 あとはどの月を何月にするかですが、立春前後に元日が来て11月に冬至が来るように決めました。具体的には、二十四節気の雨水がある月を1月にし、他の月も同様に決めます。こうすると、元日は必ず立春の前後十数日以内に入る新月の日になります。
 (正節) (中気)
  立春  雨水  雨水がある月を1月にする
  啓蟄  春分  春分がある月を2月にする
  清明  穀雨  穀雨がある月を3月にする
  立夏  小満  小満がある月を4月にする
  芒種  夏至  夏至がある月を5月にする
  小暑  大暑  大暑がある月を6月にする
  立秋  処暑  処暑がある月を7月にする
  白露  秋分  秋分がある月を8月にする
  寒露  霜降  霜降がある月を9月にする
  立冬  小雪  小雪がある月を10月にする
  大雪  冬至  冬至がある月を11月にする
  小寒  大寒  大寒がある月を12月にする
 小の月は29日なので、二十四節気の中気の間隔より短く、時々、中気のない月が発生します。その月が閏月になります。
 最初に明確にこのように決めたのは中国の太初暦で、前漢の太初元(紀元前104)年から使われました。
 新月の時刻は経度によって変わるので、同じ太陰太陽暦でも日本の暦と中国の暦は若干違うものになります。

<紀元前の中国で生まれた二十四節気>
 中国では古代王朝の時代から太陰太陽暦が使われていたと考えられています。
 太陰太陽暦では季節と暦のずれは一定の範囲内に収まりますが、それでも年によって30日近く前後します。これでは農業などに不便なので、中国では古代から太陽の動きを観測して夏至や冬至、春分、秋分などを知り、太陰太陽暦とあわせて使いました。これが発展して二十四節気ができました。二十四節気は実質的に太陽暦そのものなので、太陰太陽暦を使いつつ補助的に太陽暦を併用していたとも言えます。
 二十四節気は中国の戦国時代(紀元前4~3世紀)の間に徐々に整備され、前漢の太初暦が使われ始めた頃にはすでに確立していました。立春、雨水、啓蟄…と続く二十四節気の名称は当時から今までほとんど変わっていません。

<旧暦の元日と立春の関係・双春年と無春年>
 「旧暦は立春が元日で節分が大晦日だった」というのは時々見かける誤解(それでは実質的に太陽暦)ですが、実際に旧暦の元日と立春の日が重なるのは平均して30年に1回くらいで、「朔旦立春」と呼ばれて非常に縁起の良い日とされています。前回は1992年で、次回は2038年です。
 旧暦では元日は立春の前後十数日以内にあり、逆に旧暦の元日からみると、立春は新年の年初にあったり前年の年末にあったりします。旧暦の閏年で年初に立春がある場合、年末に必ずまた立春が来て、立春が年に2回あることになります(双春年)。逆に立春がない年も出てきます(無春年)。双春年は縁起が良く、無春年は縁起が悪いなどと言うこともありますが、双春年も無春年もしょっちゅうあるので気にしても意味がないでしょう。
 例えば今年は立春過ぎの2月8日が旧暦の元日で、来年の1月27日に旧暦の大晦日が来るので、無春年にあたります。一方、来年は旧暦の閏年で双春年になります。近年を見ると、2012年、2014年、2017年、2020年は双春年、2013年、2016年、2019年、2021年は無春年です。

<新暦と旧暦の元日のずれ>
 旧暦の月は新暦の月より1か月くらい遅れていますが、これは太陰太陽暦と太陽暦の違いではありません。元日の決め方の違い(文明の違い)です。
 太陽暦でも立春の日を元日と決めれば、旧暦の元日とのずれは前後十数日以内に収まります。しかし西洋(キリスト教圏)では春分の日を3月21日にすると決めました。日本もその暦を導入したために立春の日は2月4日あたりになり、旧暦の元日は平均して1か月以上、新暦の元日より遅れることになりました。
 旧暦の元日は早くて新暦の1月21日、遅くて新暦の2月20日になります。
 日本では昔から1月から12月までを順に睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月、師走と呼んできましたが、これらは旧暦にあわせて使っていたものなので、新暦にあわせて使うと違和感のある月もあります。また季節の行事の中にも新暦にはそぐわないものがあります。
 なお、これらの月の名前は日本書紀や万葉集にも出てくるなど、かなり古くから使われていますが、その多くの起源や意味は不明です。辞典類などでもっともらしい説明を見かけることがありますが、ほとんどはマユツバです。これも書いてみると面白そうですが、やめておきます。

旧暦の大晦日と節分(9)

 前回の記事のつづきで、「旧暦の大晦日と節分」の最終回。これは完全におまけで、あれこれ調べている間に拾った話を並べておきます。

<江戸時代まで地方に残っていたかもしれない追儺の古俗>
 江戸時代中期の儒者・中村国香が書いた地誌『房総志料』(巻四・上総附録)に、「夷隅郡夷北村の俗に、清明の候に童部集り、木刀・竹鎗など云ふ物持ちて、鬼の仮面を装へる童を立て、金鼔を鳴し、跡より逐ふ。悪鬼を退治すと。是則、追儺の古俗。いかにして、かヽることの残れる」という記述があります。
 清明は二十四節気で春分の次で、桜の花が満開になり、そして散っていく時期。この子どもたちの行動はどう見ても追儺ですが、まったく偶然に追儺と同様の遊びをしていたのでしょうか、それとも平安時代の京の追儺が地方に伝わって、江戸時代まで子どもの遊びのような形で残っていたのでしょうか。

<柊鰯・焼き嗅がし>
 柊鰯の由来に関連して必ず引用されるのが紀貫之の『土佐日記』(935年ごろ)で、平安時代中期、京の都で正月のしめ縄に鯔(ボラ)の頭と柊をつけていたという話です。これが後の柊鰯につながるものなら、柊鰯の元となる風習は豆まきよりはるかに前から日本にあったことになります。けれども、そもそもその起源は何かということや、その後、どういう経緯で節分の柊鰯になったのかということは分かりません。
 『土佐日記』の鯔の頭について、江戸時代末期の『比古婆衣』(巻三)では、『日本書紀』(神代下・第十段)の口女(ボラ)の口から鈎が出たという故事によるのではないかと書いています。面白い説ですが、単なる想像の域を出ない感じです。
 柊鰯は「焼き嗅がし」「焼い嗅がし」とも呼ばれます。信州の最南部から愛知県の三河にかけて、「焼っ嗅がし」と呼ぶ地域もあります。読んで字のごとく、強いにおいの出るものを焼いて戸口に立て、鬼を遠ざけるおまじないです。柊でなく豆殻を使う地域もけっこう多く(両方使う場合も)、ほかの木の枝や普通の串の場合もあるようです(尖っていれば何でもいいのでしょう)。またイワシに限らずニンニク、ラッキョウなどを使う場合もあるそうです。
 京都を中心に関西、西日本では今でもイワシが節分の食べ物になっています。身のほうは食べて、残った頭を柊鰯にするということでしょうか。

<虫の口焼き>
 農村地域では節分に「虫の口焼き」という風習がありました。これは、イワシを焼くときに唾を吐きかけ、作物の害虫を退治する言葉を唱えるというものです。その言葉の形式は、「稲の虫の口焼き、麦の虫の口焼き、○○の虫の口焼き…」と作物の名前を並べていきます。地域によって「○○の虫の口もジリジリ」、「○○の虫もバリバリ」などさまざまな形があります。
 信州では「米の虫もじゃじゃ、菜の虫もじゃじゃ、粟の虫もじゃじゃ…」と唱え、イワシの頭を焼く時だけでなく、豆を炒る時に唱える地域があるようです。また、どういう由来か分かりませんが、虫封じのまじないに、紙に「十二」と書いて張る風習もあるそうです。6×4(むし)=24だから、「十二」は虫を2つに切ったという意味でしょうか(いま思いつきました。全然違うかもしれません)。
 ちなみに私は「虫の口焼き」も「十二」のまじないも実際に見たことは一度もありません。

<豆占い>
 これも農村地域の節分の風習で、全国的にあります。節分の豆を12粒(旧暦で閏月がある年は13粒)選んで囲炉裏の熱い灰に並べます。豆が白い灰になったらその月は晴れ、黒く焦げたら雨、ころがったら風、という感じで月ごとの天候を占います。農村地域からも囲炉裏が消えるとともに、この風習も失われてきたと思われます。

<初雷>
 節分の豆をとっておいて、立春を過ぎて初めて雷が鳴った時に食べると、風邪をひかないとか落雷の被害を避けられるとか言われています。安土桃山時代~江戸時代初期の公卿・西洞院時慶が書いた日記『時慶卿記』の慶長10(1605)年2月25日に「初雷ナレバ節分大豆ヲ用」とあるなど、相当古くからある風習で、全国に広がっているようです。ちなみに俳句では「初雷(はつらい)」は春の季語です。

<魔目・魔滅>
 節分の豆まきの由来について、「マメ」が「魔目」や「魔滅」に通じるからという説明をしばしば見聞きします。「魔」はサンスクリット語に起源があり、もともと仏教で使われる言葉なので、お寺さんが広げた語呂合わせではないかという気がします。日本語には基本的にしっくりきません。
 これに比べると、豆を「炒る」のは「射る」に通じるから、というのは気が利いている感じです。

<撒豆節>
 豆まきの由来に関連して、中国の節分や立春の行事を調べていた時、「撒豆節」という言葉が目に入って、「おー、中国にも豆をまく風習があるのか」と思ったのも束の間、これは日本の節分行事を説明するために中国で使っている言葉でした。中国には豆をまく風習はないようです(一部には撒豆や撒米があるのかもしれませんが)。
 とある中国関連サイトを見ていたら、「大豆のような貴重な食べ物を投げてしまって良いのかという素朴な疑問も残る。(略)食べ物を投げるという行為は、どうしても日本の文化や日本人の精神構造として、そぐわないような気がしてならない」と書かれていて、今更ながら「そうだよなー」と思ってしまいました。大豆でなく落花生をまき、あとで拾って食べるという地域もありますが…。

<厄払い>
 節分の夜、街中を「厄払いましょう」と呼んで歩き、厄年の人がいる家で銭をもらうかわりに祝詞をのべ、最後に鷄の鳴き真似をします。江戸時代に広がって、節分だけでなく大晦日や1月6日、1月14日まで行われた時期があり、群れをなして街中を歩いていたとか。これも江戸時代の文献に書かれていて、江戸、京、大阪の3都にそろってあり、地方でもありました。明治時代末期まで見られたそうです。
 祝詞はいろいろあり、年ごとに工夫もしたようですが、「厄払い」という落語の中にその1つの形が残っています。私は昨年、TBSチャンネル「落語研究会」の桂米朝さん追悼の回で、ありし日の米朝さんの名演を聞くことができました。

   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 …やっと終わりました。いやいや、てこずりました。
 元はというと、大晦日の「お年取り」の記事を書いた時に「年取りイワシ」のことがよく分からなかったのが発端でした。そのうちに、追儺は意味から見れば節分の行事のはずなのに、なぜ昔は大晦日に行ったのかという疑問に移行しました。日本人は飛鳥時代にはすでに暦(太陰太陽暦)と二十四節気のずれをきちんと知っていたので、「旧暦では立春の頃が正月だったから」というような単純な説明で済む話ではありません。いろいろ調べているうちに中国の『通典』にたどりついて、なんとか答えが見つかりました。
 追儺の疑問が解けた後、節分について書こうとすると、これがまた謎だらけの行事で…。豆まきの由来1つとってもまだまだ謎が解けていないので、今後も調べてみたいと思います。
 1回公開した記事でも、後から新しいことが分かると反復的に手直ししました。これからも手直ししたり書き足したりすることがあると思います。

 今回、ネットで調べ始めてみると、特に追儺については、いい加減なことを書いているサイトや、それをそのままコピーしているサイトがあまりにも多くて、余計な手間がかかってしまいました。途中でこれはおかしいと気付き、問題のある情報を排除して最初からやり直し。結局、可能な限り原典にさかのぼって調べ直しました。
 ネット上に和漢の古典籍や研究論文のデータベースがあって助かりました(いい時代です)。また個人サイトの中にも良質で参考になるところがいくつかありました。時間がかかって苦労しましたが、自ら学びて考える、また楽しからずや、という感じです。

 思わぬことに入れ込んで、あまり信州や飯田と関係のない話を長々と書いてしまいました。まあ、ちょうど節分なので、いいことにしましょう(してください(^-^;)。
 本当は正月明けに「新野の雪祭り」(1月14~15日)のことを書く予定だったのですが、もう2月になってしまいました。そう言えば「新野の雪祭り」の主役「幸法(さいほう)」は、面も装束も持ち物も「方相氏」に似ているなあとちょっと思いました。けれども「新野の雪祭り」は京の都の追儺のようなインスタントな行事ではなく、内容の濃さが段違いです。「新野の雪祭り」の話は、また来年書きます。

旧暦の大晦日と節分(8)

 前回の記事のつづきで、節分に戻り、現在の神社や寺院で行われている節分行事をいくつか紹介します。

<長田神社の古式追儺式神事>
 神戸市の長田神社では節分の日に古式追儺式神事を行います。前回の記事で紹介した兵庫県の寺院の鬼踊りと同類で、ここでは7匹の鬼が神の使いで、松明の炎で災いを焼き、太刀で不吉を切ります。室町時代から続くとされています。
 長田神社ホームページに詳しい内容や写真が掲載されていますが、「鬼面、太刀等の製作年代や古文書等より、室町時代には、境内の薬師堂に於ける修正会として、既に現況の様な形で行われていたことが伺われ」るということで、当初は神社の節分の神事ではなく、旧暦の大晦日と節分(6)で書いた仏教の薬師悔過(けか)の法会だったようです。日本はもともと神仏習合の国なので、こういうことは別に珍しくはありません。
 鬼は一番太郎鬼、赤鬼、青鬼、姥鬼、呆助鬼、餅割鬼、尻くじり鬼の7匹で、ほかに太刀役の子ども5人、肝煎りと呼ばれる世話人など数十人が参加します。餅割鬼は最大の見せ場を担うため大役鬼とも言われます。鬼と太刀役は前日からそれぞれ鬼宿、太刀役宿に入って精進潔斎し、鬼役は何度も井戸水をかぶりながら練習を重ね、当日の朝には須磨海岸で海に入って禊をします。
 鬼の演舞の流れは以下のようになります。①一番太郎鬼の演舞、②赤鬼、姥鬼、呆助鬼、青鬼、一番太郎鬼の5匹の演舞、③餅割鬼、尻くじり鬼の演舞、④赤鬼以下5匹が太刀役から太刀渡しを受け、松明と太刀を持って演舞、⑤餅割鬼、尻くじり鬼の演舞、⑥5匹の御礼参り演舞、⑦餅割鬼、尻くじり鬼の餅割演舞。最後に餅割りがあるのは兵庫県の多くの寺院と共通です。
 これを見ると、餅割鬼、尻くじり鬼の2匹と他の5匹は役割が違う感じを受けます。もしかすると元来は餅割鬼、尻くじり鬼の2匹が災いを払う側で、他の5匹が追われる側だったのかもしれません(単なる私の想像ですが)。神の使いの鬼というと、追儺の「方相氏」が転じたものとも考えられますが、上記のようにこの神事が元々は薬師悔過だったとすれば、仏教系の方にルーツがあるか、あるいは両方が入っているのではないかと思います。

<吉田神社の追儺式(鬼やらい神事)、平安神宮の大難之儀>
 京都では節分に北東(鬼門・丑寅)の吉田神社、南西(裏鬼門)の壬生寺、南東の八坂神社または伏見稲荷大社、北西の北野天満宮に参詣する風習があり、「節分四方参り」と呼ばれています。その中でも吉田神社と壬生寺は多くの参詣者でごった返します。
 吉田神社の節分祭は室町時代から続くとされ、現在は節分の前日から翌日まで3日間にわたって行い、前日の午前に疫神祭、午後6時から追儺式(鬼やらい神事)を行っています。どちらも平安時代の古式を復元したものです。こちらは吉田神社ホームページです。
 疫神祭は前回の記事の「宝積寺の鬼くすべ・疫神祭」で触れたように、疫神を饗応して鎮める祭りです。午前8時から本宮で前日祭があり、続いて山の中腹にある大元宮で疫神祭を行います。大元宮の門から外に向けて祭壇を設け、祝詞をあげて米と酒を三方にまき、疫神が荒ぶることなく山川の清き地に鎮まるように祈ります。
 追儺式(鬼やらい神事)は昭和の御大典のあった昭和3(1928)年に復元したもので、本宮前の舞殿で行います。平安時代初期の古式に則り、陰陽師が祭文を読み、方相氏が儺声を発して矛で盾を打ち、侲子とともに舞殿を巡って疫鬼を追い、最後に殿上人が桃の弓で葦の矢を放ちます。
 古式に則るといいながら、ここでは平安時代の宮中の追儺にはいなかったはずの3匹の鬼が登場します。旧暦の大晦日と節分(6)で紹介した、仏教寺院の修正会・修二会の鬼追いに登場する「三毒の煩悩」の鬼を逆輸入したようです。追儺式を復元した当初は目に見えない鬼を追っていたが、不評だったため目に見える鬼を出したという話も見かけました(これが事実かどうかは未確認です)。この鬼たちは改心して、翌日からは参詣者たちに愛想を振りまきます。
 本当に古式にこだわるなら鬼など出さなければいいと思うのですが、所詮は俗化した見せ物です。

 平安神宮も昭和49(1974)年から追儺式を復元し、節分当日の節分祭で「大難之儀」として行っています。猪熊兼繁京都大学名誉教授の時代考証を受けて式次第、作法、祭具、衣裳を綿密に再現したということで、この「大難之儀」では鬼を出さず、その後の、鬼が出てくる「鬼の舞・豆まき」と区切っています。こちらは平安神宮ホームページです。
 平安時代のやり方を再現した儀式の進行や色とりどりの衣裳、独特の所作などはなかなか目を引くものです。主役の方相氏の面がもう少しどうにかならないのかと思うのと、あとは「鬼の舞」の時に「祓い清められたはずの場所にどうして鬼がのこのこ入って来るんだ」と突っ込む人がいっぱいいますが…。室町時代以降の日本では、鬼を豆で追い払うのが節分なので、仕方ないのでしょう。

<新宮神社(高知県南国市)の追儺の式>
 高知県南国市十市の新宮神社では、節分祭に合わせて古式の「追儺の式」を行い、桃弓で葦矢を放ち疫神を追い払います。京都以外の地方で桃弓・葦矢を用いる追儺式を行うのは珍しいと思います。
 新宮神社ホームページによると、同神社では古くから追儺の神事を行い、宮司ら神職が深夜に行燈の火明かりのもとで行ってきたということです。
 新宮神社にこうした神事があるのは、幕末から明治初期にかけて土佐が神道復古に特異的に熱心(それだけ廃仏毀釈も激烈)な土地だったからではないかとも思います。

<壬生狂言の「節分」>
 京都の裏鬼門にあたる壬生寺の節分厄除大法会は節分の前日から翌日まで3日間で、前日と当日、壬生狂言(国重要無形民俗文化財)の「節分」が上演されます。こちらは壬生寺ホームページです。
 壬生寺の厄除けは白河天皇の発願によって始められたと言い伝えられています。平安時代後期のことになります。
 壬生狂言は鎌倉時代に円覚上人が創始しました。寺伝によると、円覚上人は正安2(1300)年に壬生寺で大念仏会を行い、そこで詰めかけた多くの聴衆に教えを分かりやすく説くために、身ぶり手ぶりの無言劇で伝えることを考えつきました。これが壬生狂言の始まりと伝えられています。その後、大衆娯楽として発展し、能や物語などから新しい話を取り入れましたが、宗教劇としての性格を今日まで残しています。
 現在の演目は30番。定例の公開は年3回(計12日間)で、春の大念仏会(4月29日~5月5日の7日間)、秋の特別公開(10月の連休の3日間)、そして節分厄除大法会(2日間)です。節分厄除大法会では「節分」のみを8回上演します。

<五條天神社(東京上野)うけらの神事>
 東京の上野公園内にある五條天神社では節分の日の夕方、「うけらの神事」という珍しい神事を行います。「うけら」を焚きながら「蟇目式」、「病鬼との問答」を行い、弓矢で病鬼を払ったり、方相氏が病鬼を追い払います。
 五條天神社の祭神は大己貴命(大国主命)と少彦名命で、医薬の神様です。大己貴命は因幡の白兎を助けた話が有名で、少彦名命は人間に医薬と農業を教えた神様です。このため同神社では病鬼を退散させる神事を行い、その1つとして節分に行うのが「うけらの神事」です。
 「うけら」(オケラ)というのは漢方薬に使われるキク科の多年草で、万葉集に出てきます。神事の間、これを焚き続け、邪気をはらいます。
 節分祭で祝詞を奏上した後、蟇目式で宮司が神弓・神矢で氏子町内の鬼を払います。続いて病鬼の赤鬼・青鬼との問答が行われ、鬼が過ちを悟って退散しますが、さらに方相氏が桃の弓と葦の矢を手に「鬼は外」と叫んで鬼を追い払います。最後に豆まきを行いますが、ここでは「福は内」とは唱えません。病鬼を追い払えば、それ以上のものを望む必要はないということでしょう。
 翌日の立春の日に、この神社で受けられる「うけら」を焚きながら「うけら餅」を食べると、1年間無病息災で過ごせると言われています。
 「うけらを焚く」というのは今ではほとんど意味も通じませんが、邪気を払うものとして、かつては正月や節分の日に境内のかがり火にくべるなどしたようです。元々は湿気を払うものとして、家庭でも梅雨時になると土蔵、物置、戸棚などで焚く風習があったそうです。俳句では「うけら焚く」「おけら焚く」「蒼朮を焼く」などは梅雨時(仲夏)の季語になっています。
 五條天神社の「うけらの神事」のことは江戸時代の文献によく書かれています。寛文3(1663)年の『世諺問答』に「問て云、節分に、せうのもちゐとてくひ侍るは、なにのゆへぞや、答、この事さらにしりがたし、また五條天神に侍るよし申(略)。問て云、節分に、おけらをたくは、何のゆへぞや、答、白朮(うけら)は風気をさる薬にて侍るうへ、餘薫あしきゆへに、疫疾の神の夜行する夜なれば、是をたきておそれしめんがためにて侍る」とあり、節分に「うけら」を焚くことが一般的な風習で、その意味は、悪臭で疫神を遠ざけるものと解釈されていたことが分かります。
 また延宝4(1676)年の『日次紀事』に「節分の夜は、五條の天神にまいり、餅白朮をうけてかへることあり、五條天神は少彦名命にて、天下の疫癘を守らんとちかひ給ふ神なるゆへ、一年中の疫癘をいのらんためにまいる事なり、白朮は湿はらふ薬なれば、風湿疫癘をのぞくの心にて、神前にてうけて帰り、火にてたくなり」、さらに天保9(1838)年の『東都歳事記』にも「下谷五條天神宮神事 酉の刻追儺あり、白朮餅を出す、これを服して邪気を避るといふ、少彦名命の祭事なり」と記されています。

<浅草寺の節分会>
 江戸時代末期に書かれた『東都歳事記』には、江戸の寺社の節分行事として、上記の下谷五條天神宮神事のほかに、神田社疫神祭、本郷四丁目天満宮、浅草寺観音節分会、亀戸天満宮追儺の神事、雜司が谷鬼子母神堂追儺についての記述があります。
 神田社の疫神祭というのは、本社のわきに疫神塚を立てて祝詞をあげ、疫神祭の札を出したようです。亀戸天満宮追儺の神事は、「雙角四目青赤の二鬼に出立する者、猿の皮をかぶり、鹿角の杖をつき、社前に進出づ」とあるので、方相氏が鬼になっていたと思われ、それに対して「巫出て問答し、幣杖にて鬼を打つ、其餘五人の巫、牛王杖を持て追ひ退く」となっています。さらに、この神事は筑前大宰府の例にならったと書いてあります。本当でしょうか。
 浅草寺観音節分会は、般若心経を唱えた後で豆を打ち、それから「外陣の左右の柱に高く架を構へ、これに登りて、節分祈祷の守札をまきあたふ、諸人挑み拾ひて、堂中混雜せり、但し申の刻に行ふ」とあります。
 浅草寺の節分会は江戸時代中期の元禄時代ごろから行われ、江戸のまちの人気イベントになりました。上記のお札の話は、柱の上から大団扇であおいで約3千枚のお札をまいたというもので、多くの人が争って拾い、危険なので明治17(1884)年から禁止されました。
  現在は法要終了後に年男による豆まき、福聚の舞(七福神の舞)などを行い、お札はお守授与所で配っています。浅草寺では、観音さまの前には鬼はいないとして「鬼は外」とは唱えず、「千秋万歳福は内」と発声しています。

 また浅草寺では大晦日から7日間、修正会を行い、天下泰平・五穀豊穣などを祈願します。この修正会にあわせて毎夜、追儺の儀式があり、僧侶の1人が鬼となり、もう1人が柳の杖を持って鬼を追いかけます。本堂で鉦や太鼓、拍子木の音が鳴り響くなか、杖で激しく床をたたきながら本尊を納めている厨子の周囲をまわります。
 これも江戸時代の文献に出てきて、享和3(1803)年の『俳諧歳時記』には「乃チ初更の頃、鬼形の者一人堂外に出、又一人方相氏の假面を被りたるもの、これを追ふて堂を巡る、後除疫の札三千枚を撤して諸人に與ふ、參詣の人各あらそひ拾ふて、持かへりて自家の門戸に貼」とあります。

 …今回は内容が薄かったです。いくらか目新しいのは「うけら」の話ぐらいでしょうか。次回が「旧暦の大晦日と節分」の最終回で、いろいろ拾った話を並べておきます。

旧暦の大晦日と節分(7)

 前回の記事のつづきで、近畿から北九州にかけて、仏教寺院に伝わっている修正会・修二会の鬼追いのいくつかを紹介します。場所によりかなり特色があります。中には地域の高齢化や人口減などによって存続が危ぶまれている行事もあります。

<宝積寺の鬼くすべ・疫神祭>
 京都府大山崎町の宝積寺は4月18日に「大厄除追儺式」を行います。疫鬼を煙でいぶし出すというユニークな鬼払いで、「鬼くすべ」と呼ばれています。
 護摩火にヒバの葉をくべて本堂内に煙を充満させます。本堂の鴨居には75個の鏡餅がかけてあり、桃の弓と蓬の矢で鬼を追うと、鬼は鏡餅にうつる自分の姿に驚いて逃げていくのだそうです。
 現在の行事は山伏、5匹の鬼、七福神などの行列が門外から入るところから始まります。山伏が法螺貝を吹き鳴らします。鬼たちはおとなしく護摩火の前で加持祈祷を受け、それから松明を持って少し暴れ、弓矢で追われて外に出て行きます。何だか意味がよく分からない進行です。終了後、七福神が福餅をまきます。
 この行事が始まった時期は不明です。寺伝によると、宝積寺は神亀元(724)年に行基が開いたとされ(『行基年譜』には出てきません)、例の『続日本紀』慶雲3(706)年の「是年、天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」を引き、文武天皇が行基に疫病払いを命じたとされているそうです。

 宝積寺のある山崎の地は山城と摂津の境です。
 『続日本紀』宝亀元(770)年6月23日に「祭疫神於京師四隅、畿内十堺」とあり、また『延喜式』(927年成立)の「第三巻・神祇三・臨時祭」の中に宮城四隅疫神祭と畿内堺十処疫神祭の供え物の記述があることから、奈良・平安時代に山城と周囲の国境10か所で疫病を鎮める疫神祭が行われていたことが分かります。疫病が街道づたいに広がることを認識していたのでしょう。平安時代後期には、その中でも南西の山崎、南東の逢坂、北東の和迩、北西の大江が重視され、この4か所で行われる疫神祭を四境祭と呼びました。
 また『続日本紀』では宝亀2(771)年3月5日の「令天下諸国祭疫神」を皮切りに、宝亀9(778)年までの8年間に6回にわたり諸国や五畿内で疫神祭を行っています。
 行基は天平3(731)年に山崎の地に山崎院を開いています(現在は跡しか残っていません)。山崎の疫神祭がここで行われ、のちに宝積寺に移ったということは十分に考えられるでしょう。

 もし宝積寺の鬼くすべが本当に奈良時代に始まったものだとすると、『内裏式』(821年成立)で確認できる平安時代の宮中の追儺よりも早い時代に行われた儺の儀式として、とんでもなく重要な意味を持っていることになるのですが…。鬼や山伏や七福神は後から加えたに決まっていますが、煙でいぶす鬼払いの形式や鏡餅がどういう由来でいつから行われているのか、知りたいところです。

<兵庫県の寺院の鬼踊り>
 兵庫県の神戸・播磨周辺では、今でも20数か所の寺社で鬼踊りの行事が行われています。兵庫県立歴史博物館ホームページの「歴史ステーション―ひょうごの祭りと芸能―鬼」のコーナーにまあまあの内容でまとめられていますが、ここに載っている以外にもあります。開催日は新暦1月上旬か旧暦1月が多く、それ以外もあります。神社では長田神社(神戸市)の古式追儺式神事が有名で、これは次回の記事で紹介します。
 「追儺会」や「鬼追い」という言葉が使われてはいても内容は「鬼踊り」で、この地域の鬼は払われるべき悪鬼ではなく、災厄を追い払い五穀豊穣をもたらす善鬼です。よく指摘されているとおり、下で紹介する大分県国東半島の修正鬼会と共通性が見られます。
 鬼は毘沙門天と不動明王の化身とされているところが多く、明王寺(神戸市)や転法輪寺(同)の「婆々鬼」は天照大神とも呼ばれています(なぜここに日本神話の最高神が出てくるのか不思議ですが)。随願寺(姫路市)の「空鬼」や神積寺(福崎町)の「山の神」は本尊の薬師如来の化身・使者で、他の鬼を従えています。また朝光寺(加東市)では鬼の前に住吉明神の翁が祓の踊りをします。
 松明と斧、槌、鉾、剣などを持ち、力を封じるため身体が藤づるや縄で縛られている(鬼絡み)ところが多く見られます。松明を振って飛び跳ねたり、四股を踏んだり床を踏みならす所作をし、餅割り・餅切りをするところが多いのも兵庫県の鬼踊りの特徴です。
 小鬼が出るところも多く、近江寺(神戸市)では大人でなく多くの子どもたちが小鬼になり、婆々鬼について本堂の周囲をまわり、本堂に入って鬼の踊りの合間に2人1組で棒を打ち鳴らしながら踊ります。

 東光寺(加西市)では鬼会の前に「田遊び」という行事があり、それを合わせて国重要無形民俗文化財に指定されています。「田遊び」では、面をつけ鍬を持った「福太郎」「福次郎」が田起こし、苗代づくり、種まき、田植えから稲刈りなどまで一連の稲作の作業を演じ、豊作を祈願します。室町時代末期にはすでに行われていたそうです。
 鶴林寺(加古川市)では鬼踊りの前に、12の土器に燈明をともしてその年の天候を占ったり、竹で作った「鬼の花」の垂れ具合で豊作を占ったりします。

 これらの鬼踊りが始まった時期はまちまちで、鎌倉時代(神積寺、随願寺)、室町時代(東光寺)、安土桃山時代(太山寺)、江戸時代初期(性海寺)、江戸時代中期(高薗寺)などとされており、比較的新しい時代に始まったものもあるようです。

<福岡県の火祭り>
 福岡県には「大善寺玉垂宮の鬼夜」(久留米市)、「鬼すべ」(太宰府市)、「熊野神社の鬼の修正会」(筑後市)と、年の初めに「鬼」のつく大きな火祭りがあります。鬼はあまり目立ちませんが、次に紹介する大分県国東半島の修正鬼会と共通性が見られるため、簡単に紹介します。
 「大善寺玉垂宮の鬼夜」は大晦日の夜から正月7日まで続く「鬼会」の最後に行われるもので、国重要無形民俗文化財に指定されています。小正月の火祭りに追儺の儀式が結び付いたものと考えられています。長さ13m、火口の直径1m、重さ1.2tの大松明6本が火の粉を散らしながら本殿などをまわります。鬼はシャグマの子どもたちに囲まれて姿を隠したまま鬼の堂回りをし、川で禊をして神殿に帰ります。起源は仁徳天皇56(368)年て、古墳時代前期なんですけど…。
 「熊野神社の鬼の修正会」はもともと隣にあった坂東寺の行事で、明治の廃仏毀釈で坂東寺がなくなったために熊野神社に移されました。まず子どもたちが松明を持って本殿をまわる小松明行事があり、その後、長さ13m、火口の直径1.5mという大松明3本が本殿をまわります。松明に点火するための御神火を火打石で起こし、これを「鬼火」と呼びますが、鬼は出ません。

<大分県国東半島の修正鬼会>
 大分県国東半島の3寺院(豊後高田市長岩屋天念寺、国東市国東町岩戸寺、同成仏寺)で続いている修正鬼会(しゅじょうおにえ)は国重要無形民俗文化財に指定されています。鬼が松明を持って演舞し、五穀豊穣や無病息災を祈願する法会で、鬼走りと火祭りが組み合わされた修正会の行法とされています。上に書いたとおり、鬼については兵庫県の鬼踊りと、また火祭りについては福岡県の火祭りと共通性が見られます。
 成仏寺は旧暦1月5日、岩戸寺と天念寺は旧暦1月7日で、国東の岩戸寺と成仏寺は1年交代で行ってきましたが、2016年の番だった成仏寺が地元の高齢化で休止(昼の勤行のみ行う)を決めたため、国東では2016年は行われないことになりました。
 ここの鬼も悪鬼ではなく、先祖が姿を変えた一種の来訪神ととらえられています。愛染明王と不動明王の化身とも言われています。鬼の舞は古い法呪師の芸を伝えるものとされ、また全体として行法や祈祷が芸能に移り変わる道筋が見られる貴重なものとされています。
 周辺の10ほどの天台寺院の僧侶が集まり、導師や鬼役などを分担します。
 昼の勤行は法華懺法を修したり千仏名経を唱えます。
 夜になると「垢離とり」があり、鬼役の僧侶、トシノカンジョウ(住民の代表)、タイレシ(大松明を献灯する住民)が川で水行をして身を清めます。その後、院主とタイレシの間で盃の儀が行われます。
 夜の前半の山場はタイアゲ(大松明の献灯)で、住民が作った長さ数m、重さ100kg以上のオオダイ(大松明)に点火して境内に担ぎ上げ、献灯します。オオダイをぶつけて火の粉を上げる場面もあります。オオダイの数は近年はだんだん少なくなっています。
 夜の勤行はまず坐っての読経や声明が続き、その後、僧侶が法衣をぬぎ立役に移ると雰囲気が一変。お囃子のなか2人の僧侶が「香水棒」を持って舞う賑やかな法舞が続き、「四方固」で太刀を手に呪文を唱えて四天王の力で結界を設けます。
 ここで男女一対の「鈴鬼」の登場となり、右手に鈴、左手に御幣を持って鈴鬼作法の所作を行い、最後にいよいよ「荒鬼」を招き入れます。「荒鬼」は力を封じるために全身が縄で縛られており(オニカラゲ)、堂に入ってから鬼の面をつけます。
 長岩屋の天念寺の荒鬼は「災払鬼」と「鎮鬼」の2匹で、松明をぶつけ合い火の粉をまき散らしながら激しく舞います。天念寺では鬼は外には出ません。
 国東の岩戸寺の荒鬼も2匹、成仏寺は3匹になります。国東では鬼が堂内で舞った後、堂から走り出て境内で参詣人に加持祈祷し、寺から出て手分けして地区の家をまわります。鬼はそれぞれの家で仏壇を拝み、家族一人ひとりの無病息災を加持祈祷し、もてなしを受けます。
 国東半島の六郷満山の修正鬼会は奈良時代の養老年間(717~724年)に仁聞菩薩から「鬼会式」「修正導師作法」「法呪式」などを授かって始まったとする伝承がありますが、これはそのまま信頼することはできません。しかし、豊後高田市の富貴寺に伝わる鈴鬼の面は、裏に久安3(1147)年の修正会で使ったという墨書があり、平安時代末期には何らかの形式のものが行われていたと見られます。近畿周辺で修正会・修二会の鬼追いが広がった鎌倉時代よりかなり早く、密教か陰陽道が元と思われる古い修法がよく残っている点からも、畿内から伝わったのではなくこちらが発祥ではないかという印象すら受けます。また兵庫県の鬼踊りの鬼とは「オニカラゲ」などの特徴が似ていて、どこかに国東半島と兵庫県を結ぶ線があるはずで、それが分かると面白いのですが…。
 仁安3(1168)年の『六郷二十八山本寺目録』によると六郷満山は末寺を合わせて65寺院あり、江戸時代までは各地で寺院単独で修正鬼会を行っていたようです。明治の神仏分離・廃仏毀釈で多くの寺院が衰退した時代に、寺院を東、中、西の3組に分け、それぞれ組の中で助け合って修正鬼会を行うようになり、戦前には20寺院で行われていました。
 少し調べてみただけでも、寺院にとっても地元住民にとっても大変な労力のいる行事だということが分かりました。本当に貴重な民俗文化財であり、成仏寺でも何とか現在の危機を乗り越えて存続する知恵が見出されればと思います。

<竹崎観世音寺修正会鬼祭>
 佐賀県太良町の竹崎観世音寺修正会鬼祭も国重要無形文化財です。童子舞という他では見られない芸能があり、行事全体にも古風な民俗が残っているとされています。
 旧来は1月5~6日の行事で、5日の夜に「初夜の行」、6日の朝に「後夜の行」、6日の昼に「日中の行」を行いましたが、現在は2~3日で、内容も簡略化されて「後夜の行」がなくなり、2日の夜に「初夜の行」、3日の午後に「日中の行」となっています。
 それぞれの行は、まず観音堂で院主が観音経や太鼓経を唱え、フレイ経という経を唱えている間に男児2人による童子舞が行われます。フレイ経の最後には童子が法螺貝の中の種籾をこぼしながら舞います。
 3日の「日中の行」では、堂内の行の後に童子が境内に出て鈴振の舞、牛王杖の舞、翁面の舞、青蓮華・赤蓮華の舞などをし、最後に太刀を持って舞います。童子は1曲ごとに堂内に入ったり出たりしますが、大人が抱きかかえて運び、移動の間は童子の足を決して地につけません。童子舞の四股踏み、足踏み、膝つきなどの所作は陰陽道の秘技の遺風で、古呪禁の法を表現しているとされています。
 この童子舞の前と途中の2回、「大聖棒(だいしょうぼう)打切り」があり、鬼副(おにぞえ)の若者が樫の棒(牛王杖)の束を階段の角に叩き付けてばらばらにすると、見物人が群がって棒を奪い合います。
 本来はこの後、鬼副4人が観音堂から鬼箱を持ち出して逃げようとし、それを若者たちがつかまえる「鬼攻め」という見せ場があるのですが、若者の数が足りなくなり、2008年を最後に行われていません。竹崎は有明海に囲まれた小さな島。諌早湾干拓の影響もあるのか漁業が低迷し、近年はタイラギ漁ができない年が続いて、若者の流出に拍車がかかっていると言われています。
 竹崎には、夜灯鼻という岬の沖に住む鬼と、観音堂の鬼箱の中に納められている鬼が夫婦で、2匹が再会すると竹崎島が転覆するという伝説があり、それを阻止するのがこの祭りで、5日の夜の満潮の頃に「初夜の行」を行い、気勢を上げたのだそうです。鬼箱の中には鬼面が入っているそうですが、誰も見てはいけないことになっています。境内で褌姿の若者たちがぶつかり合うところから、「裸祭り」とも呼ばれています。
 地元の伝説を取り入れたせいか、多くの鬼追いや鬼踊りとは違う特殊な形式で、これもルーツが違うのではないかとも思われますが、鬼祭なのに肝心の「鬼攻め」ができないのは残念なことです。

 …節分と関係のない修正会・修二会の鬼の話に2回かかりました。次回は節分に戻り、現在の神社や寺院で行われている節分行事について書きます。

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