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旧暦の大晦日と節分(5)

 前回の記事のつづきで、節分の豆まきの由来です。
 節分の豆は、「鬼を追い払うためにまく」とともに「年神様に供え、自分の年の数(あるいはそれより1つ多い数)だけ食べる」のが一般的ですが、その他に「厄落としとして、自分の年の数の豆といくらかの銭を紙に包んで道端に落とし、物乞いに拾わせる(あるいは家に来た物乞いに与える)」ということもあったそうです。これらの風習は、同じ1つのルーツから派生したとは思えません(2番目はどう考えても年越し行事でしょう)。どれも調べると面白そうですが、今回は「豆をまく」ことの由来に絞って書きます。

 「節分」という言葉は平安時代中期に書かれた『伊勢集』『源氏物語』などにも出てきて、冬の節分だけでなく夏や秋の節分のことが書かれています。しかし、豆まきは出てきません。鎌倉時代も同様で、豆まきの記述はおそらく見つからないと思います。
 ところが室町時代になると、多くの文献に豆まきが出てきます。
 まず足利義満以後3代の将軍について記した『花営三代記』では、応永32(1425)年1月8日に「節分大豆打役昭心、カチグリ打。アキノ方申ト酉ノアイ也。アキノ方ヨリウチテアキノ方ニテ止」とあり、「大豆打役」が勝栗を投げています。「昭心」は同書にしばしば出てくる因幡入道昭心(照心とも)で、評定衆だった波多野元昌(元尚)のことではないかと思います。「アキノ方」は「明きの方」で、その年の歳徳神がいる方角、つまり恵方です。今と同様に恵方を意識しており、陰陽道の影響を受けた行事だということが分かります。義満は禅宗を保護する一方で陰陽師を重用したので、うなずける話です。
 後崇光院(伏見宮貞成親王)の日記『看聞御記』にも同年同日に「鬼大豆打」という記述があるそうで、同じ行事のことでしょうか。
 また前回の記事でも書いたとおり、室町時代中期に書かれた『臥雲日件録』では、1447年に、炒り豆をまいて「鬼は外、福は内」と唱える、今とまったく同じ節分行事が行われています。

 これらから見ると、室町時代初期(14世紀半ば~15世紀初頭)に節分の豆まきが始まり、一般に普及したと考えてほぼ間違いないでしょう。平安時代から続いた大晦日の「追儺」は南北朝の動乱で衰退するので、それから90年ほどの間に何があったのかということが焦点になります。

 節分の豆まきの由来については、次の5つくらいの説があると思います。
(1)中国の後漢の大儺で行われた「以赤丸五穀播灑之」
(2)本草学(中国医薬学)の大豆の効能
(3)室町時代に明から伝わった
(4)室町時代に追儺の鬼払いと節分方違えの豆打ちが混合した
(5)鞍馬山の鬼(御伽草子「貴船の本地」、御泥池の豆塚伝説)
 正直なところ、どの説にも疑問が残って決定版がないのですが、順に見ていきます。

 まず(1)です。中国の文献をさかのぼると、後漢中期(2世紀)に書かれた『蔡中郎集』や『漢旧儀』の「時儺」の話に「以赤丸五穀播灑之」(赤丸を投げたり五穀を撒いてこれをそそぐ)というのが出てきます。「赤丸」というのは何のことかはっきりしませんが、小豆だという解釈があります。日本だと豆は五穀の中に入りますが、古代中国だと入る場合と入らない場合があります。なぜ豆をまくのかという根本的な理由までは分かりませんが、後漢の「大儺」に桃の弓、葦の矢とともに穀物を用いていたことが分かります。
 江戸時代初期の儒学者・林羅山の『羅山文集』(巻五十六・雜著)では、「儺文」の説明でこの『漢旧儀』の文を引用し、豆まきだけでなく、柊は葦の矢と似たようなものだとしています。さらに「鬼は外、福は内」という言葉も、『後漢書』の儺の詞と同じ意味だとしています。
 林羅山の説はなるほどとは思わせますが、これでは室町時代に豆まきが広がったことの説明になりません。

 次は(2)の本草学(中国医薬学)の大豆の効能です。中国では古代から本草学があり、1~3世紀ごろ『神農本草経』という薬物辞典が作られました。これの原本は残っていませんが、500年ごろ異本を整理した『神農本草経集注』が出されました。その中で大豆の効能について「煮飲汁殺鬼毒、止痛」(煮て汁を飲めば鬼毒をけし、痛みを止める)とあります。
 中国でいう「鬼(き)」とは死者の霊魂のこと。そして、横死したり誰からも祭られない霊魂はたたりを起こすと恐れられました。日本では「鬼」を目に見えないものという意味で「おん(隠)」と読み、それが「おに」に転じたという説があります。その「鬼」が平安時代の間に実体化しはじめ、室町時代の物語では人を食う怪物になりますが、そのことには(5)の説明で触れます。
 『神農本草経』には「鬼」という字がいっぱい出てきますが、どうも説明のつかない症状を鬼のせいにしている感じがします。「鬼毒」も意味が不明です。しかし死者の霊魂が人にたたるということなら、やはり疫病の伝染を連想してしまいます。それを払うのに大豆を使うのなら、(4)の節分方違えの豆打ちにつながるかもしれません。この先は(4)の説明で触れます。
 それにしても、『神農本草経集注』も遣隋使・遣唐使の時代に日本に入っているはずなので、やはりこれだけでは室町時代に豆まきが広がったことの説明がつきません。

 次は(3)の室町時代に明から伝わったという説です。現在、神社庁筋がとっているのはこの説で、神道系の書籍や神社のホームページではだいたいそう書いてあります(というか、まったく同じ文章をコピーして載せている例が少なくないので、どこかにオリジナルがあるはずです)。
 室町幕府3代将軍の足利義満は1401年に明との国交を樹立して明から日本国王と認められ、倭寇を取り締まりつつ積極的に日明貿易を進めたので、この時期に明のさまざまな文化が日本に流入しています。
 では当時、具体的に明にどんな風習があって日本に伝わってきたのかということが問題になりますが、それがさっぱり分かりません。調べても調べても出てきません。
 唐の時代に書かれた『楽府雑録』には、儺の行事について「口呼各凶神名、振子豆百」(口々に凶神の名を呼び、子どもが豆をまく)という描写があるそうで、後漢の時代のように豆をまいた例があったようです。また清の時代以降も北部の豆の産地で撒豆、南部の米の産地で撒米の風習が見られる地域があるようですが、あまり一般的ではない感じです。
 (3)の説は時代も状況もぴったり合いますが、有力説とするにはもう少し補強が必要です。

 次は(4)の追儺の鬼払いと節分方違えの豆打ちが混合したという説です。
 「方違え」については説明するまでもないと思いますが、行き先の方角が悪い場合、いったん別の方角の場所に行って泊まり、そこから目的地に向かうことです。平安時代中期以降、陰陽師が本来の職掌を超えて怪しげなことを言いふらした時代に、ヒマな貴族たちの間で流行りました。『源氏物語』『枕草子』などに出てきます。
 それを節分の日に行う理由もさっぱり理解できませんが、ともかく節分の日は大勢が方違えをする日だったのだそうです。
 こういうことは武家の時代になっても残るもので、鎌倉時代の『吾妻鏡』には節分御方違がいっぱい出てくるし、室町時代の文献にも出てきます。
 この節分方違えが室町時代になると簡略化され、よそに泊まる代わりに自宅の恵方の部屋に移るだけになり、その時に部屋に豆をまいて邪気を払ったのだそうです。そして、その頃にはすでに大晦日の「追儺」が衰退していたので、「追儺」の鬼払いの意味だけが節分行事に取り込まれたというわけです。旧暦の大晦日と冬の節分はプラスマイナス十数日以内の差なので、これもありそうです。
 ただ、肝心の「節分方違えが室町時代になると簡略化され(略)部屋に豆をまいて邪気を払った」という部分の出典が確認できません。さらに、これが本当だったとしても、なぜ豆で邪気を払うようになったのかという説明がありません。これらの問題が解消されれば、(4)が有力説になると思うのですが。
 ここで思い出すのが(2)の大豆で鬼毒をけす話です。『神農本草経』では鬼毒をけす効果があるのは大豆だけではなく他にもいくつかありますが、手に入りやすくて気軽に部屋にまけるという意味では大豆が最適でしょう。(2)と(4)を明確につなぐ根拠が見つかると面白いのですが。

 いずれにせよ今の節分行事の始まりに陰陽道が関与していることは間違いなく、感じとしては(1)~(4)のどれもが多少なりとも関係があるのではないでしょうか。

 最後に(5)の鞍馬山の鬼です。「貴船の本地(きぶねのほんじ)」は室町時代に成立した『御伽草子』の1つ。「○○の本地」というのは本地垂迹説に基づいて書かれた物語で、貴船神社のホームページでは「貴船の物語」として掲載しています。宇多天皇の時代というと平安時代前期の890年代ころ。以下は物語の要約です。
 定平の中将という男がいて、ある時、扇に描かれた美しい女に心を奪われ、恋煩いで3年も寝込んでしまいます。その絵の女は鬼の大王の娘で、鞍馬山の奥の僧正谷の丑寅の岩穴に入ったずっと先にある鬼国にいました。中将は毘沙門にお願いして娘に合わせてもらい、娘について鬼国に入りました。鬼国は広く、四季の庭がありました。娘は中将の体を小さくしてお守りの中に隠し、大王の前に出ますが、大王は人間を出せと怒ります。娘は中将を逃がし、大王は中将のかわりに娘を食べてしまいます。中将は娘を供養して暮らしますが、その頃、中将の叔母が懐妊し、美しい女の子を産みます。鬼の娘が死んでから13年後、女の子は中将に、自分は娘の生まれ変わりだと明かし、2人は結ばれます。ところが鬼の大王がこれを知り、手下たちを京に向かわせようとします。鞍馬の毘沙門が鬼の動きを知ってお告げをし、法皇が大学寮の学者たちに命じて方策を占わせました。すると、僧正谷の岩穴を封じ、三石五斗の炒り豆で鬼の目を打てば、鬼は目をつぶされて帰る、また鰯を焼いて串に刺し、家の門口に挿しておけば、人と間違えて鰯をとっていく、ということになり、その通りにして鬼を追い払うことに成功しました。さらに毘沙門のお告げで五節句の鬼払いの祭りを始め、それによって鬼が出て来ることはなくなりました。娘は120年の命を保った後、貴船の大明神になり、貴船神社は恋愛成就の願いをかなえる神社になったということです。

 貴船神社は実際、古くから恋愛成就の神社として知られています。そのきっかけは、平安時代中期の歌人・和泉式部が夫(藤原保昌)の気持ちを取り戻したいと願って百夜参りしたところ、願いがかなったからだそうです。和泉式部の「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」という名歌はここで詠まれました。平安ロマンの舞台です。

 この物語のあらすじは、室町時代中期の百科事典『壒嚢鈔(あいのうしょう)』(1446年)にも出てきます。「節分ノ夜大豆ヲ打事ハ何ノ因縁ゾ、是更ニ慥ナル本説ヲ不レ見、由來ヲ云人ナシ、但シ或古記ノ中ニ云、節分ノ夜大豆ヲ打事ハ、宇多天皇ヨリ始レリ、鞍馬ノ奧僧正谷、(以下略)」と。
 ここに出てくる「或古記」というのは、どんな文献のことか不明です。また節分の豆まきの由来について、確かな説がなく誰も知らないと書いているのも気になります。節分の豆まきをめぐり室町時代に何らかの動きがあったとしたら、『壒嚢鈔』の著者が知らないはずがないと思うのですが…。不審です。

 京都では、この物語に似た「深泥池の豆塚」の伝説が伝わっています(この「深泥池」の読みは「みぞろがいけ」と「みどろがいけ」の両方が通用しています)。
 深泥池は京都市街北方の上賀茂にある池(周囲約1.5km、面積約9ha)で、それより7kmほど北に鞍馬山があり、池の近くに深泥池貴船神社(貴船神社の分社)があります。ちなみに深泥池は現在、タクシー怪談の発祥地とされる心霊スポットです(タクシー怪談は東京の青山墓地が発祥地だという話もあります。詳しいことは知りません)。以下は深泥池の豆塚の伝説の要約です。
 深泥池のほとりに洞穴がありました。ある日、近くを通りかかった村人が、洞穴の中で2匹の鬼が村を襲う相談をしているのを聞きつけました。村の庄屋が貴船神社にお参りして訴えると、神のお告げがあり、洞穴は貴船神社の近くからつながっていて鬼の通路になっているので、出入口をふさげということでした。村人はお告げに従って柊鰯を家の戸口に挿し、鬼の嫌がる炒り豆を大量に用意しました。鬼が出てきて、鰯のにおいにつられて食いついたところ、柊の棘が目に刺さりました。村人は鬼に炒り豆を投げつけ、鬼が洞穴に逃げ帰ったところで、出口を豆でふさぎました。その上に土を盛って「豆塚」と呼び、また豆を入れた升を埋めた場所を「升塚」と呼ぶようになりました。

 今では豆塚の所在は不明ですが、昭和初期まで節分の日に豆塚の穴に豆を投げ入れる風習が残っていたそうです。その場所は深泥池貴船神社のあたりではないかと言われています。

 江戸時代前期の『日次紀事』や『都の手ふり』にはちょっと違う話が書かれていて、寛平年中(889~898年)に京の都で疫病が流行ったため、神託を受けて深泥池のほとりに貴船神社の神様を勧請し、みこしをかついで池をめぐり、升に入れた炒り豆をまいて疫鬼をはらい、残った豆や升を埋めた場所が「豆塚」「升塚」になったとしています。
 寛平年中というのは「貴船の本地」の物語の時期と重なります。お伽噺の鬼よりは疫病のほうが真実味がありますが、寛平年中には「新羅の賊」が対馬や九州に侵攻しているので、それ以前の目に見えない疫鬼ではなく、実体としての鬼の物語が生まれていてもおかしくはありません。それに比べると疫病は寛平年中に限らずしょっちゅうあり、八坂神社の祇園祭が始まるきっかけになった貞観11(869)年の大流行などが知られています。
 平安時代末期(12世紀半ば)に成立したと見られる『今昔物語集』や、鎌倉時代初期(13世紀前半)に成立した『宇治拾遺物語』には、実体としての鬼が多く登場します。平安時代の間に、現在の鬼のイメージにつながる基本的な鬼像ができ上がり、一般化したようです。

 ここまで、いずれも面白い話なので長々と書いてしまいましたが、これらの物語は、日本で生まれた鬼の物語に、節分の豆まきや柊鰯をうまく取り込んだという感じがします。

 …やっと山を越えました。次回は仏教寺院の修正会・修二会で行われる鬼追いについて考えます。

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