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旧暦の大晦日と節分(1)

 大晦日に「お年取り」と年取り魚の記事を公開した時、西日本の「年取りイワシ」の由来がよく分からず、古代からの年越し行事に興味がわいて少し調べてみました。六国史をみると、『日本三代實録』に大晦日のできごととして、858年から886年まで判で押したように「大祓大儺如常」または「大祓追儺如常」(大祓と追儺をいつも通りにやった)と書いてあり、平安時代中期、「大祓」と「追儺(ついな)」が大晦日の恒例行事になっていたことが分かります。

 「大祓」は万民の罪や穢れを祓い清める儀式です。飛鳥時代に大宝律令(701年制定)によって定例の儀式として定められたとされ、内容が伝わっている養老律令(757年施行)の「神祇令十八 大祓條」には「凡六月十二月晦日大祓者 中臣上御祓麻 東西文部上祓刀讀祓詞 訖百官男女聚集祓所 中臣宣祓詞 ト部為解除」(6月と12月の晦日の大祓には、中臣は御祓のぬさを奉れ、東西の文部は祓刀を奉り祓詞を読め、それから百官男女を祓所に集め、中臣は祓詞を宣し、卜部は解除をせよ)と書かれています。養老令を施行する際のマニュアルをまとめた『延喜式』(927年成立、967年施行)には、「大祓」を朱雀門で行うことや申時(午後4時)までに用意を整えること、さらに供え物の内容や祝詞などが細かく書かれています。
 六国史などをみると、「大祓」は6月と12月だけでなく、災害や疾病に見舞われた時や大嘗祭の時などにも行われています。

 「大祓」という言葉は、文献上で最も古いものは『古事記』(中つ巻・仲哀天皇)に出てきますが、さすがにこれは史実としては裏付けようがないので棚上げします。『日本書紀』だと天武天皇5(676)年から何度か「大解除」を行ったという記述があり、『続日本紀』では大宝2(702)年から「大祓」という言葉が出てくるので、「大祓」にあたる儀式は飛鳥時代後期から始まり、奈良時代に入るまで(遅くとも奈良時代初期まで)に6月と12月の定例の儀式になったと考えてほぼ間違いないでしょう。

 各種事典や神社ホームページの中には「大祓は応仁の乱によって途絶えた」と書いているところがあります。おそらく宮中祭祀としての「大祓」は戦国時代までに途絶えますが、各地の神社の中には続けたところがあるのではないでしょうか。
 その後、400年も下って明治時代になり、「大祓」は明治4(1871)年に宮中祭祀として復活します。また明治政府は同年6月25日付で一般向けに太政官布告を出し、「大祓ノ儀従前六月祓或ハ夏越神事ト称シ執行来候處全ク後世一社ノ神事ト相心得本儀ヲ失ヒ候ニ付今般旧儀御再興被為在候間追々天下一般修行可致様被仰出候事」(大祓は六月祓とか夏越神事とか呼んで行ってきたが、それぞれ自社の神事と思って本来の意義が忘れられている。このたび旧儀が再興されたので、これからみんなよく覚えるように)と命じます。そして翌年6月18日付で教部省通達を出し、「大祓」のやり方を具体的に示して全国の神社で統一して行わせ、国民に参加させました。
 宮内庁ホームページを見ると、「大祓」は現在も宮中祭祀として6月30日と大晦日に行われています。また各地の神社でも行われており、一部で6月のものは「夏越の祓」の呼称が復活、大晦日のものは「年越の祓」とも呼ばれます。「夏越の祓」では「茅の輪くぐり」を行う神社もあり、親しまれています。

 …ちょっと長くなったのでここで切って、つづきは次回にします。

 さて、今日は小寒(寒の入り)、明日は「七草」。全部そろえるというわけにはいきませんが、家のまわりにセリとハコベとスズシロがあったので、夕方摘んで七草粥ならぬ三草粥の用意をしました。

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