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旧暦の大晦日と節分(3)

 前回の記事のつづきで、やっと本題の「追儺」の話に入ります。

 「追儺」の儀式に登場する「方相氏」の起源は古代中国王朝・周(紀元前11~紀元前3世紀)の官職で、『周礼』(夏官司馬)に「方相氏掌蒙熊皮黃金四目玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隸而時難、以索室驅疫。大喪、先柩及墓入壙、以戈擊四隅驅方良」(方相氏の仕事は、熊の皮をかぶり、黄金四目の面、黒い衣・朱の裳を着け、矛をとり盾をあげ、百人の従者を率いてなやらいし、部屋をさぐり疫気をはらう。大喪の際には、柩の先にたって墓まで行き墓穴に入り、矛で四隅を撃って魍魎をはらう)とあります。
 さらに中国の伝説の時代までさかのぼると、黄帝の2番目の妃だった嫫母が「方相氏」の元祖とされています。唐の時代に書かれた『琱玉集』によると、嫫母はたいへん醜く色黒だったが、徳があったので黄帝が妃に迎えました。さらに『軒轅本記』(軒轅は黄帝の名)によると、黄帝が旅をしている時、第1妃の螺祖が道で死に、黄帝はこれを祖神として祭り、蟆母に守らせたのだそうで、そこから摸母をもって方相氏となすとしています。この伝説から、周の官職としての「方相氏」は時儺と墓穴祓いの2つの役割を持ったわけです。

 上記の『周礼』の記述から、すでに周の時代に「時儺」(後の大儺、日本の追儺)の儀式が確立していたことが分かります。では、その「時儺」の起源は何かとなると、中国の研究者の間でも説が分かれていてはっきりしません。原始時代までさかのぼりそうな話で、おそらく究明することは不可能でしょう。

 「儺」は『論語』にも出てきて、「郷党」編に「郷人儺、朝服而立於阼階」(村人のなやらいには、正装してきざはしに立つ)とあり、春秋戦国時代(紀元前7~紀元前3世紀)にはすでに宮廷だけでなく地方の村々でも行われる儀式だったことが分かります。ちなみに孔子のこの行動の意味については、霊廟の祖先の霊を守るという解釈と、村の祭祀をうやうやしく迎えるという解釈と、2つの説があります(考えようによっては、この2つは両立します)。
 なお『周礼』や『礼記』の文字は「難」、『論語』の文字は「儺」になっていますが、中国の文献でこの儀式に「儺」の文字をあてたのは『論語』が最初だそうです。その後は一般に「儺」の文字が使われるようになっています。

 秦や漢の正史には「儺」に関する記述はありませんが、同種の儀式はあったと考えられています。
 5世紀になってから書かれた『後漢書』(志―禮儀・中)では、後漢の時代(1~3世紀)の宮中儀式として「大儺」が登場します。
 原文は省略しますが、その形式は、まず侍従が扮する「方相氏」と「十二神獣」、120人の「侲子」(10~12歳)が宮中の悪鬼を追い立てます。皇帝が前殿に入ると、「侲子」が儺の詞を唱和し、「方相氏」と「十二神獣」が舞い、それから大声を上げてあたりを3回めぐり、松明を持って疫を送り門から出ます。門の外で武官が松明を取り次ぎ、水中に捨てます。各役所では獣の面をかぶらせて儺人とし、終わると、桃梗(桃の木に吉祥の文字を記した札)、鬱儡(鬼門を守る神)、葦茭を飾りました。公、卿、将軍などには葦の戟と桃の木を賜いました。
 ここでは周の時代からの「方相氏」による疫払いの形式を踏襲しつつ、「侲子」による鬼払いの言葉の唱和や「十二神獣」の舞が加わっています。これらは現在まで中国各地の民族に伝承されている「儺戯」(仮面劇)の源流と考えられています。また門に「桃人」や「葦索」を飾る風習の始まりが見られます。

 『後漢書』によると、後漢の時代に「大儺」が行われた日は「先臘一日」(臘の前日)となっています。「臘」というのは猟の獲物を祖先や神々に供える祭りで、冬至の後、第三の戌の日に行いました。ここから旧暦12月のことを「臘月」ともいいます。「臘」の日は早くて冬至の25日後、遅くて36日後にあたり、大寒の前後数日以内になります。それなら大寒の日と決めておけば良さそうなものですが、戌の日ということに意味があったのでしょう。
 ちなみに現在の中国では旧暦12月8日が「臘八節」となっており、この日を「臘日」とか「臘八」と呼んで「臘八粥」を食べます。これは仏教の行事で、南北朝時代の南朝の宋(5世紀)で広がったとされ、もともとの「臘」の日とは違います。
 前回の記事で書いたとおり、周の時代には3月の「国儺」、8月の「天子の儺」、12月の「大難」と年に3回の「儺」がありましたが、時代が前漢から後漢へと進むと、疫鬼をはらって新年を迎える意味をあわせて12月の「大儺」が特別に重視されるようになりました。この時期に「卒歳大儺」という言葉も現れました。

 三国時代から南北朝時代にかけて(3~6世紀)、「大儺」の扱いは国ごとにまちまちで、多くの国で宮廷の「大儺」は廃れました。
 一方、民間では広がり、仏教と混合したり、儺を生業とする人々が現れるなど、さまざまなバリエーションが生まれました。例えば、南朝の梁の時代(6世紀)に書かれた『荊楚歲時記』には「十二月八日為臘日。諺語『臘鼓鳴、春草生』、村人并擊細腰鼓、戴胡公頭及作金剛力士以逐疫」(12月8日を臘日という。諺に「臘鼓を鳴らせば春草生ず」といい、村人はみな細腰鼓を打ち、胡公頭という帽子をいただき、金剛力士の格好をして疫を払う)とあり、仏教の守護神である金剛力士が疫払いをするなど、仏教と儺の混合が見られます。

 唐の時代半ばに書かれた『通典』(801年成立)には、周、後漢、北斉、隋、唐の各時代の「大儺」について順を追って書かれています。周と後漢は上に書いたとおりです。
 南北朝時代末期の北斉(6世紀)で、ついに「大儺」が大晦日の行事になりました。後漢に始まる年越し重視の流れですが、ここで初めて、日本で大晦日に「大儺・追儺」を行った理由につながるものが現れるわけです。
 北斉の「大儺」の形式は、後漢のように「方相氏」、「十二神獣」、「侲子」(240人に増えている)が登場しますが、松明を持つことはなく、「方相氏」と「十二神獣」の舞の後、鼓を打ち鳴らしながら南門を出て、そこから6方面に分かれて城門から郭外に出て終わります。

 隋の時代は『礼記』(月令)の古式に戻ったようで、年3回の「儺」を行い、まず「季春晦、儺、磔牲於宮門及城四門、以攘陰氣」(3月の晦日、なやらいし、宮門と城門に牲を磔し、陰気をはらう)、次に「秋分前一日、攘陽氣」(秋分の前日、陽気をはらう)、そして「季冬旁磔、大儺亦如之(略)」(12月、方々に磔し、また大儺…)となりました。
 12月の磔としては、各門にオヒツジとオンドリを磔したと書いてあります。「大儺」の形式としては、「十二神獣」が登場しなくなり、かわりに鼓と角が各10人となりました。あらかじめオンドリ、オヒツジと酒を用意し、門のところに穴を掘っておきます。「方相氏」が矛と盾を持ち、大声を上げ鼓を打ち鳴らしながら分かれて城門に向かいます。門に牲を磔し、酒ではらった後、牲と酒を埋めます。ここでは「磔」が「大儺」の儀式の一部になっています。

 唐の時代には北斉と同じように大晦日に「大儺」を行うとともに、州や県でも「儺礼」を行いました。そのやり方は『大唐開元礼』(732年完成)に細かく書かれています。
 「侲子」(12~16歳)は面をつけ赤い衣と袴で24人を1隊とし、6人を1グループにします。「執事」12人は赤い頭巾とひとえの衣で杖を持ちます。「方相氏」は黄金四目の面をつけ、熊の皮をかぶり、黒と赤の衣裳をつけ、右手に矛、左手に盾を持ちます。「唱帥」は面をつけ、皮衣を着て棒を持ちます。鼓と角が各10人で、合わせて1隊とします。これで宮中の悪鬼を追い出します。
 役人が門ごとにオンドリと酒を用意し、城門に磔禳します。
 內侍が皇帝のいる御殿の前で開始を呼びかけると、「方相氏」が矛と盾を上げ、「唱帥」が「侲子」を率いて儺の詞を唱和します。大声を上げ、鼓を打ち鳴らしながら出て、諸隊は順天門(宮城の南の門)から分かれて城門まで行き郭外に出て終わります。

 この後の中国の儺については簡単に書きますが、宋の時代には「方相氏」も「侲子」もなくなって大勢で仮面をつけて練り歩く行事になり、元は儺の儀式を行いませんでした。明の時代の中期に宮中の儺が復活しますが衰退し、清も儺の儀式は行いませんでした。民間の儺の習俗は清の時代まで続きますが、それも清代末期の戦乱の中で衰退したということです。

 日本の「大儺・追儺」は遣唐使によって唐から伝えられたものがもとになっており、そのおかげで古代中国からの流れを汲む「方相氏」や「侲子」が登場する形式になりました。

 …やっと本題に入ったのですが、中国の話だけでかなり長くなってしまったので、中国の話と日本の話に分けます。日本の話は次回の記事で。

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