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旧暦の大晦日と節分(4)

 前回の記事のつづきで、日本の「大儺・追儺」の話に入ります。この記事の中で掲載している図版はすべて国立国会図書館デジタルコレクションから転載したものです。

 遣唐使によって唐から日本に伝えられた「大儺」の形式は当然、唐の時代のものなので、日本の「大儺・追儺」は最初から大晦日の儀式として行われました。

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16012102 上の「追儺」の絵は、江戸時代末期の天保14(1843)年に描かれた『公事十二月絵巻物』の12月のものです。左から2番目の面をつけ矛と盾を持っているのが「方相氏」(右の拡大図参照)。その後方にいるのが「侲子」たちで、よく見ると赤い鉢巻をしています。
 この「方相氏」の姿は平安時代中期の『政事要略』の挿絵を写したものと思われ、内容的にも平安時代前期の「追儺」の様子を伝えていると思われます。追い立てられているのは目に見えない疫鬼です。鬼(に扮している者)はいないということを覚えておいてください。

 平安時代初期の「大儺」のマニュアルが、『内裏式』(821年成立)の「十二月大儺式」という項目に書かれています。この文章自体、唐の『通典』(801年成立)の「禮九十三・大儺」の文章とそっくりで、明らかに下敷きにしていることが分かります。それでも儀式の内容は日本式にアレンジした部分が見られます。原文は長いので省略しますが、その内容は…
 大晦日の夜、参加者が配置につき準備が整うと、「まつれ」という勅があり、儺人が紫宸殿の前庭に参入します。
 中務省に率いられた侍従、内舎人、大舎人らはそれぞれ桃の弓と葦の矢を持っています。陰陽師に率いられた齋郞が祭具を持っています。「方相氏」は大舎人の中から身体の大きな者が1人選ばれ、黄金四目の面をかぶり、黒と赤の衣裳を着け、右手に矛、左手に盾を持っています。官奴から選ばれた「侲子」20人は紺の布衣と赤い鉢巻を着け、整列します。
 齋郞が供え物をし、陰陽師が跪いて呪文を読みます。それが終わるとまず「方相氏」が儺声を発し、矛で盾を撃ち、これを3回行います。群臣がそれに唱和し、悪鬼を追って四方の門から出ます。宮城の門外まで来ると、京職が引き継ぎ、太鼓を鳴らしながら郊外まで追って終わります。

 これが『貞観儀式』(875年成立)になると、方相氏の面をつける者は「儺長」と呼ばれ、侲子は「小儺」と呼ばれて桃の弓、葦の矢、桃の杖、瓦のかけらを持ちます。また『貞観儀式』には供え物の内容や陰陽師が読む祭文の詞が書かれています。
 『延喜式』(927年成立)では、準備段階の手順から当日の動きまで、より詳細に書かれています。ただし供え物と祭文の詞は『貞観儀式』とまったく同じです。

 「旧暦の大晦日と節分(1)」の記事で書いたとおり、『日本三代實録』に858年から886年まで大晦日の「大儺・追儺」の記述がありますが、878年までは「大儺」と書いたり「追儺」と書いたり不統一で、879年からはすべて「追儺」になっています。このことに何か意味があるのかどうか、はっきり分かりませんが、「追儺」は中国にはない言い方で、この時期に儀式の日本化が進む中で「追儺」になったとする見方があります。ちなみに『内裏式』(821年成立)と『貞観儀式』(875年成立)の表記は「大儺」で、『延喜式』(927年成立)の表記は「追儺」「儺祭」「年終儺」です。

 平安時代中期(10世紀)に書かれた『西宮記』では、会場の飾り付けや参加者の配置がより細かく分かります。王卿などが桃の杖や弓、葦の矢を持って承明門の南東の壇上に立ちます。陰陽師が祭文を読む間、「方相氏」に供え物を饗します。いよいよ宮中から外に悪鬼を追い立てる段になると、王卿などが眷属を率いて四方の門に分かれて追います。

16012103 『西宮記』の少し後(11世紀初頭)に書かれた『政事要略』には、「方相氏」(右上)と「侲子」(下)と「疫鬼」(左上)の挿絵があります。ちょっと不思議なのは「方相氏」が右手に盾、左手に矛を持っていて、『内裏式』の記述と逆になっていることです。この理由は分かりません。
 また疫鬼は本来、目に見えない存在ですが、なぜ挿絵に描いたのでしょうか。もしかすると、疫鬼は「方相氏」とは別の存在である(つまり「方相氏」は鬼ではない)ということを分かりやすく示すためにわざわざ描いたのかもしれません。

 「追儺」は、平安時代中期(10世紀後半~11世紀前半)に書かれた『蜻蛉日記』『小右記』『源氏物語』『栄花物語』などの日記や文学作品にも、「儺やらひ」「儺やらふ」「追儺」などの表記で登場します。これらをみると、この時代には「大儺」ではなく「追儺」という表記が定着していることが分かります。また、この頃には貴族の家などでも「追儺」が行われています。
 『蜻蛉日記』の天禄二(971)年十二月には「人は童・大人ともいはず『儺やらふ儺やらふ』と騒ぎののしるを」とあり、京の都では大晦日の夜、大人も子どもも「追儺」の真似事をして騒々しくはしゃいでいた様子がうかがえます。また、こうした記述から、「方相氏」が上げる「儺声」の言葉は「おにやろう」だったものと思われます。

 その後、『古事類苑』に「中世以降其制漸ク頽レ」と書かれているように、時代が進むにつれて「追儺」の形式がだんだん崩れていきます。その時期は早く、すでに平安時代のうちに重大な変質が起き始めます。
 平安時代後期(12世紀初期)に書かれた『江家次第』には「殿上人長橋内ニ於テ方相ヲ射ル」とあります。また『永昌記』では、嘉承元(1106)年の大晦日の「追儺」の様子について、「方相氏陰陽呪了、經軒廊渡東庭、此間侍臣放矢儺之、即下格子、主上數度有仰、良久追之」(方相氏が陰陽の呪を終え、軒廊を経て東庭を渡った。この間、侍臣が矢を放ってこれを儺した。すぐ格子を下ろし、天皇が「よく久しく追えよ」と数度おっしゃった)と書いています。
 本来、疫鬼を追うリーダーだったはずの「方相氏」が、逆に鬼として追われ、弓で射られるようになってしまったのです。

 鎌倉時代末期(14世紀初期)の宮中の「追儺」については、後醍醐天皇が書いた『建武年中行事』に「大舎人寮鬼をつとむ。陰陽寮祭文をもちて、南殿のへんにつきてよむ。上卿以下これを追ふ。殿上人どもは御殿の方に立ちて、桃の弓、葦の矢にて射る。仙花門より入りて、東庭をへて瀧口の戸にいづ。こよひ所々にともし火をおほくともす。東庭、あさがれい、台盤所のまへ、みぎりに、燈臺をひまなく立ててともすなり」とあります。
 この本は、戦乱と朝廷分裂の混乱が続く中で、後醍醐天皇が宮中の年中行事を記録しておき、いずれ再興するつもりで書いたものと思われます。平安時代以来の「追儺」の形を受け継いではいますが、やはり大舎人が扮する鬼をみんなで追い払う行事になっています。

 平安時代後期から鎌倉時代にかけて、宮中祭祀の「追儺」が本義を失っていく一方、京の都の民間では大晦日の風習として定着します。鎌倉時代末期に書かれた『徒然草』の第19段には「追儺より四方拝に続くこそ、おもしろけれ。晦の夜はいたう暗きに、松どもともして、夜中過ぐるまで、人の門叩き、走り歩きて、何事にかあらむ、ことごとしくのゝしりて…」とあり、『蜻蛉日記』の頃と同様に、大晦日の夜中に人々が松明をともして走り回り、大騒ぎしていたことが分かります。

 また一方、平安時代後期に白河天皇の発願によって壬生寺の「節分会」が始まったとされています。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、大晦日の「追儺」が民間に広がって続いている一方、寺院の「節分会」が始まり、両者が並存していたことになります。

 南北朝時代も過ぎると平安時代以来の「追儺」はほとんど過去のものになり、「追儺」に対する認識もすっかりおかしくなっています。室町時代中期(15世紀初期)に書かれた『公事根源』では、「鬼ト云フハ方相氏ノ事也」と、「方相氏」の扱いが完全にはき違えた記述になっています。また少し後(15世紀中期)に作られた『下學集』(室町時代の国語辞典)では、「追儺」の説明が「節分ノ夜、禁中ニ於テ殿上侍臣桃ノ弓葦ノ矢ヲ以テ惡鬼ヲ驅ル、之ヲ追儺ト謂フ也」とあり、大晦日だったはずの「追儺」がいつの間にか節分の行事になっています。これは大晦日の「追儺」が室町時代中期にはもう宮中でも民間でも行われておらず、節分の行事に集約されていた証拠でしょう。
 また室町時代中期に書かれた『臥雲日件録』の文安4(1447)年12月22日には、「明日立春、故及昏景富毎室散熬豆、因唱鬼外福内四字」(明日は立春なので夕方、部屋ごとに炒り豆をまいて「鬼は外、福は内」と唱えた)とあり、すでに今と同じスタイルの節分行事が行われていたことが分かります。

 どうも南北朝時代前後に大きな変化があったのではないかという気がします。動乱に続き、室町幕府という武家政権が京を支配したために、多くのことが変わったのではないでしょうか。

 応仁の乱(1467~1477年)の後、戦国時代初期に公卿の中御門宣胤が書いた日記『宣胤卿記』では、明応元(1492)年12月に「追儺(此年再興)」とあり、宮中で「追儺」の再興を試みたこともあったようです。しかし、「旧暦の大晦日と節分(1)」の記事で書いたとおり、宮中の大晦日の「大祓」もこの時期に途絶えたとされており、宮中の「追儺」もあわせて途絶えたのでしょう。

 戦国時代も過ぎて江戸時代になると、冬の節分に豆まきをしたり柊の枝に鰯の頭をつけて戸口に立てる風習が全国各地の民間に広がりました。これは江戸時代に入って伊勢暦などが広く普及し、それにその年の恵方や二十四節気などが載っていたため、暦と年中行事の知識が津々浦々に行き渡ったからではないかと思います。
 「追儺」は現在の宮中祭祀にはありません。各地の神社のなかには冬の節分に合わせて追儺神事を行っているところがあり、古式にのっとって桃の弓で葦の矢を放ち疫鬼を追い払う追儺式(鬼やらい神事)を行っている神社もあります。

 …追儺の話はひと区切り。次回の記事では節分の豆まきの由来について考えます。

 きょうは大寒。平安時代なら京の都の12の門に「土牛童子」が立っていますね。

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