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旧暦の大晦日と節分(2)

 前回の記事のつづきで、「追儺」の話に入ります。

 明治政府が編纂した『古事類苑』(歳時部)には、「追儺」について次のような説明があります(分かりやすく書き直しました)。

追儺(土牛童子)
 「追儺」は「おにやらい」や「なやらい」と言い、音読みで「ついな」と言う。大晦日の夜、宮中で悪鬼を追い払う儀式である。
 そのやり方は、大舎人の身体が大きい者1人を選んで「方相氏」とし、これを「大儺」と言う。「方相氏」は黄金四目の仮面をかぶり、黒と朱の衣装を着け、右手に矛、左手に盾を持つ。また官奴ら20人を「侲子」とし、これを「小儺」と言う。「侲子」は紺の衣、朱の鉢巻を着けて庭に並ぶ。まず陰陽師が祭文を読み、それから「方相氏」が儺声を発し矛で盾を打つ。「侲子」はこれに従い、親王以下、桃の弓、葦の矢、桃の杖を持ち、力を合わせて悪鬼を追う。
 中世以降、その形式がだんだんくずれ、殿上人らが桃の弓と葦の矢で「方相氏」を射たりするようになった。
 また大寒の日の前夜、宮城門に「土牛童子」の像を立てた。疫気をはらうためである。

 話の順序として、最後に出てくる「土牛童子」のことに先に触れます。日本の文献で「土牛」が最初に登場するのは『続日本紀』で、飛鳥時代末期の慶雲3(706)年に「是年、天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」(この年、諸国に疫病が発生して民が大勢死に、初めて土牛を作って大いになやらいした)とあります。ここに出てくる「大儺」というのは「土牛」を作ったことを指すのか、それとも別に「大儺」の儀式があったのか、はっきりしません。
 『続日本紀』には続いて宝亀3(772)年の12月29日に「有狂馬、喫破的門土牛偶人」(暴れ馬があって門の土牛偶人が壊された)とあり、「土牛偶人」を門に立てていたことが分かります。

 この「土牛」の起源は古代中国にあり、戦国時代~前漢初期(紀元前4~2世紀)の礼学の書をまとめた『礼記』(月令)に「季冬之月(略)命有司大難、旁磔、出土牛、以送寒氣」(12月…有司に命じて大いになやらいし、四方の門に磔し、土牛を出して寒気を送る)とあります。
 「磔(たく)」というのは動物をはりつけにすることです。日本では「土牛」は真似しましたが、「磔」は取り入れなかったようです。江戸時代前期の『日次紀事』などには、これが節分の柊鰯の元ではないかと書かれていますが、根拠がなく、ちょっとマユツバです。

 なお『礼記』(月令)には他に「季春之月(略)命國難、九門磔攘、以畢春氣」、「仲秋之月(略)天子乃難、以達秋氣」とあり、3月の「国儺」、8月の「天子の儺」12月の「大儺」と、年に3回の「儺」がありました。
 ここに出てくる12月の「大儺」の内容は「磔」と「土牛」ですが、後で紹介するように、「方相氏」が出てくる「時儺」(後の大儺、日本の追儺)の儀式もすでに周の時代に確立していました。これらはずっと12月の行事として並行して続き、唐の時代の『通典』(801年完成)では「禮六十八・雜制」に「立春前、兩京及諸州縣門外、並造土牛耕人」、「季冬晦、行儺」とあり、立春の前(大寒)に「土牛耕人」が行われ、大晦日に「大儺」が行われています。

 日本では上記のように飛鳥時代末期に「土牛」があらわれ、奈良時代後期には「土牛偶人」になっていました。これが平安時代の文献では「土牛童子」になります。
 「土牛童子」というのは土で作った牛と子どもの像です。『延喜式』の「第十七巻・內匠寮」に平安時代の作り方のマニュアルがあり、5色の土を使って青、赤、白、黒を各2組、黄を4組、計12組作りました。高さは2尺(数十センチ)です。また『延喜式』の「第十六巻・陰陽寮」に立て方が書いてあり、大寒の日の前夜半に大内裏の12の門に立て、立春の日の前夜半に撤去します。それぞれの門に立てる「土牛童子」の色は、陰陽五行思想に従って次のように対応します。

   冬至――子――北――水――黒――偉鑒門
   小寒
   大寒――丑―――――土――黄――達智門
   立春――丑寅―北東
   雨水――寅―――――木――青――陽明門
   啓蟄
   春分――卯――東――木――青――待賢門
   清明
   穀雨――辰―――――土――黄――郁芳門
   立夏――辰巳―南東
   小満――巳―――――火――赤――美福門
   芒種
   夏至――午――南――火――赤――朱雀門
   小暑
   大暑――未―――――土――黄――皇嘉門
   立秋――未申―南西
   処暑――申―――――金――白――談天門
   白露
   秋分――酉――西――金――白――藻壁門
   寒露
   霜降――戌―――――土――黄――殷富門
   立冬――戌亥―北西
   小雪――亥―――――水――黒――安嘉門
   大雪

 なお中国の「土牛」は、冬の終わり=農耕の季節の始まりを広く民に知らせる意味も持ちましたが、日本ではそういう意味は持ちませんでした。また『後漢書』(志―禮儀・中)には「立土牛六頭於國都郡縣城外丑地、以送大寒」とあり、中国では丑の方角だけに立てたようです。
 中国の「土牛」と比べ、日本の平安時代の「土牛童子」はかなり独自のアレンジが加えられているようです。

 中国でも日本でも、立春前の「土牛」と大晦日の「大儺・追儺」は明確に別の行事でした。どちらも意味合いとして節分の「鬼やらい」につながるという点では関連しますが、内容が違う別の行事であり、『古事類苑』が「土牛童子」の説明を「追儺」の項目の中に入れてしまったのは適当ではないように思われます。
 古い文献にさかのぼると、平安時代中期の『政事要略』ですでに「追儺事 付土牛」という扱いになっています。『古事類苑』を含め、後世の文献はこれを無批判に踏襲したと思われますが、そもそも『政事要略』の書き方が良くないのではないでしょうか。

 また『政事要略』では「追儺」の説明の中に「国史云、慶雲三年十二月、此年、天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」という記述が入っており(元の『続日本紀』には「十二月」とは書いてありません)、ここから慶雲3(706)年の「始作土牛大儺」を日本の「追儺」の始まりとする説が広がったと思われますが、これも疑問です。
 この「始作土牛大儺」を日本の「追儺」の始まりとする説には、『続日本紀』の内容不明の1文以外に何も根拠がありません。上記の中国『礼記』(月令)でも「旁磔、出土牛」のことを「大儺」と言っている例があり、『続日本紀』の1文だけでは、それが大晦日の「大儺・追儺」の原型だという根拠にはなりません。

 日本の文献上、間違いなく大晦日の「大儺・追儺」のことを書いていると言える最も最初のものは『内裏式』(821年成立)ですから、「追儺」の始まりが少なくとも平安時代初期までさかのぼることは確実ですが、奈良時代にあったという確かな根拠はなく、「土牛」の始まりとは百年ほど差がある可能性があります。

 …まだ本題に入りかけたところですが、また長くなってきたので、ここで切って、つづきは次回の記事にします。

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