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旧暦の大晦日と節分(6)

 前回の記事のつづきで、追儺と節分の話の一応の締めくくり。鎌倉時代から仏教寺院の修正会(しゅしょうえ)や修二会(しゅにえ)で行われ始めた鬼追いについてです。

<法隆寺の西円堂修二会>
 奈良の法隆寺では毎年2月1~3日に西円堂修二会を行い、3日夜、修二会の結願の後、「鬼追い」(追儺会)を行います。「鬼追い」には黒鬼、青鬼、赤鬼が登場し、それぞれ西円堂の基壇を時計回りに回りながら東と南と西で観衆に向かって松明を投げ、その後から毘沙門天が現れて鬼を追い立てます。3周すると堂の中に入って終わります。今はこの時だけ堂の周囲に金網が張られますが、火の粉がかかると無病息災で過ごせるなどとして多くの観衆が集まります。
 修正会・修二会は悔過(けか)の法会、すなわち過ち・罪を懺悔する仏教行事です。正月に行うものを修正会、2月に行うものを修二会といいます。
 西円堂修二会は鎌倉時代中期の弘長元(1261)年に始まったとされています。ということは、京で大晦日の追儺がまだ行われていた時代に、仏教寺院でそれとは別の鬼追いが行われたことになります。修二会は2月に行うからこそ修二会。旧暦では立春は12月後半か1月前半にあり、絶対に2月にはならないので、修二会はもともと節分とは無関係です。その修二会に鬼追いがあるということは、単純に追儺を取り込んだのではなく、仏教には仏教独自の鬼追いの起源があるということです。
 仏教では、人間の心には本来的に「三毒の煩悩=貪欲、瞋恚(しんい・怒り)、愚癡(ぐち・教えを知らないこと)」があり、それが原因で罪を犯してしまうと教えています。その罪を懺悔するのが修二会であり、西円堂修二会に登場する毘沙門天と鬼は、仏教によって三毒の煩悩を払うことを分かりやすく大衆に教えるものだと言うことができます。
 このように仏教の世界で具現化・実体化された鬼のイメージは、平安時代以降の日本独自の鬼像の形成と相互に影響し合っているものと考えられます。そして、旧来の追儺と新しい鬼像が結びついて融合していったのだとすれば、今のような節分行事の始まりは、室町時代より早い鎌倉時代あたりまでさかのぼる可能性もあるのかもしれません。

 法隆寺だけでなく、鎌倉時代には多くの寺院で修正会や修二会に合わせて鬼追いが行われたようです。平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人・藤原定家の日記『明月記』には、承元元(1207)年1月15日に法勝寺の修正会で鬼追いが行われたことが書かれています。また鎌倉時代後期の公家・藤原兼仲の日記『勘仲記』では、正応2(1289)年1月18日の蓮華王院(三十三間堂)の修正会の進行が詳しく記述され、龍天(天龍八部衆)や毘沙門が出てきて、3匹の鬼を龍天が棒で追ったと書いてあります。『勘仲記』では「追儺」という言葉が使われており、当時すでに大晦日の追儺に限らず鬼追いのことを一般に「追儺」と呼んでいたことが分かります。
 法隆寺には鎌倉時代のものとされる追儺面が3面あり、国重要文化財になっています。また福井県鯖江市の加多志波神社に伝わる3つの鬼の面は蓮花寺の修正会で使ったものと見られ、うち2面は裏に貞和2(1346)年に修理したという朱漆銘があり、鎌倉時代に作られた追儺面の優品として国重要文化財に指定されています。
 こうしたことから見ると、仏教寺院の修正会・修二会の鬼追いは鎌倉時代に各地に広がり、仏教流の理由を付けて追儺を取り込みつつ、それぞれ独自のアレンジを加えていったと言うことができそうです。また後から紹介するように、多くの寺院で火祭りの要素が強く見られることが1つの特徴になっています。

 なお、法隆寺の「鬼追い」がいつから節分に合わせて行われているのか、知りたいところです。法隆寺ホームページによると、「寛政9年(1798)までは法隆寺の僧が鬼役を勤めていましたが、以後、丑寅の方向にあたる岡本法起寺裏の住人が勤仕することになりました」ということなので、いつの間にか陰陽道の鬼と同化しています。
 日本の神仏習合は奈良時代から始まっており、日本人にはあまり違和感なく溶け込んだのでしょう。本地垂迹説も反本地垂迹説も表裏一体の神仏一体化理論で、神仏習合は時代とともに深まって明治の神仏分離まで続きました。考えてみれば毘沙門天だって元々はインド神話の神様だし、密教と陰陽道は親和性が高いみたいだし、仏教は何でも取り込む性質を持っているのかもしれません。

 ここまで6回もかかりましたが、「旧暦の大晦日と節分」の記事で書きたかったことの本論はひとまずこれで完結しました。以下は今回の補足です。

<東大寺二月堂の修二会>
 上記のとおり修正会や修二会は悔過の法会ですが、奈良・平安時代の護国仏教では同時に国家安泰・五穀豊穣を祈願し、盛大に執り行いました。最も古いのが、「お水取り」で有名な東大寺二月堂の修二会(正式名称は十一面悔過)で、同寺の『二月堂縁起』によると天平勝宝4(752)年から始まり、「不退の行法」として現在まで一度も途切れずに続いています。もとは旧暦2月1日から行い、現在は3月1~14日に行っています。毎夜、大きな松明に火がともされ、舞台で大きく振られるため、「お松明」とも呼ばれます。
 練行衆と呼ばれる11人の僧侶が2月20日から別火の前行に入り、3月1日から14日間(7日間を2回)、二月堂で本行を勤めます。期間中は悔過法要を1日に6回行い(六時の行法)、その間に大導師作法と呪師作法を1日に2回行います。悔過に先立って練行衆が堂内をまわる散華行道があり、悔過の間に懺悔を全身で表す五体投地も行われます。
 大導師作法では神名帳を読み上げて全国の神々を勧請します。呪師作法は堂内をまわりながら呪文を唱え、魔障を払い四天王を勧請します。
 5~7日の3日間と12~14日の3日間には「走りの行法」が行われます。天界の1日は人間界の400年にあたるので、天界の行に追いつくことは無理でも少しでも急ごうと、本尊のまわりを早足でまわり、五体投地も行います。
 いよいよ残り3日間となる12日に「お水取り」があります。この日の松明は特別に大きな籠松明で、舞台で振られると大きな炎が上がり火の粉が舞い散ります。「お水取り」は深夜(13日午前1時)で、呪師と5人の練行衆が雅楽が奏される中を進み、閼伽井屋(若狭井)で香水を汲みます。
 最後の3日間は深夜に「達陀(だったん)の行法」が行われます。松明を持つ「火天」役と灑水器(しゃすいき)を持つ「水天」役が組になって堂内を踊るようにまわり、法螺貝や鐘、太鼓、鈴、錫杖が鳴り響く中で「火天」は松明を振り回し、「水天」は水をまきます。「火天」は最後に礼堂に出て松明を床に打ちつけます。「達陀」はサンスクリット語で「焼く」という意味だそうです。
 修二会の満行は15日の朝になります。

 呪師作法、達陀の行法など、密教的な行法が目を引きます。東大寺では弘仁元(810)年から4年間、空海が別当を務めたこともあり、これらの密教的な行法に何か関係があるのかもしれません。
 興味のある方は東大寺ホームページもご覧ください。年中行事のコーナーに修二会についての詳しい説明があります。

<薬師寺の花会式、長谷寺の修二会>
 奈良の薬師寺の花会式(修二会)、長谷寺の修二会(だだおし)には、法隆寺の西円堂修二会と同様の鬼追いがあります。いずれも節分の日ではなく(節分とはまったく無関係)、節分の日には別に星祭りや節分会を行います。

 薬師寺の修二会(薬師悔過法要)は奈良時代に始まり、同寺の最大の年間行事になっています。嘉承2(1107)年に堀河天皇が皇后の病気平癒を祈願したところ、病気が回復し、翌年、皇后が女官に命じて10種類の造花を作らせて供えました。それから毎年、修二会にたくさんの造花を飾るようになり、「花会式」と呼ばれるようになりました。鬼追式を加えたのは法隆寺より遅いはずですが、いつから始めたのかは調べ切れませんでした。
 元々は旧暦2月末でしたが、2013年まで3月30日~4月5日に行われ、2014年からは3月25~31日(最終日の夜に鬼追式)になっています。ちょうど境内の桜も見ごろの時期です。
 7日間の修二会の間、東大寺と同様に呪師作法があり、金堂内に鐘、太鼓、法螺貝が鳴り響く中、呪師が真剣を持って走り回ります。修二会の期間中、稚児行列、居合道、大正琴、百華能、柴燈大護摩(火渡り式)などの奉納行事もあります。
 神道的な儀式も混じっていて、最終日の結願法要の前に金堂の外で神供があり、呪師が神々を勧請し、練行衆が松明を投げ上げて神々に献じます。
 そして結願法要の後、鬼追式となります。金堂の外につくられた舞台で、まず呪師作法があり、続いて5匹の鬼が松明を持って現れ、大暴れします。これは文字通り傍若無人の大暴れで、観衆の近くで松明を振り回したり叩きつけたり、舞台の4隅にある籠松明を揺らして大量の火の粉を散らしたり、舞台から下りて観衆を威嚇したり。そこに毘沙門天が登場し、鬼を追い払って終了します。
 見せ物としては面白いでしょうが、法隆寺と比べると、鬼追いを見せる意味がよく分からない気もします。
 薬師寺ホームページもご覧ください。

 長谷寺の修二会は2月8~14日の7日間で、最終日の夕方、「だだおし」(鬼追い・追儺式)があります。こちらも鬼追いがいつから行われているかは分かりません。
 長谷寺ホームページによると、「だだおし」の意味は、「だだ」という閻魔大王の杖、追儺と同義の「儺(だ)押し」、人々の額に印を押す「檀拏(だんだ)押し」など諸説あって定かではないそうです。また寺伝では、長谷寺開山徳道上人が養老2(718)年に病の床の夢で閻魔大王に会って閻浮檀金の黄金印を授かり、修二会の結願の日に参詣者の額に押し当てて無病息災を祈ったことから、この名になったと伝えられているそうです。
 修二会の最終日は悔過法要、七種の秘宝の封印を解いての法要、鬼面加持があり、参詣者の額に閻浮檀金の宝印が押されます。この宝印授与に前後して太鼓や法螺貝が鳴り響き、3匹の鬼が乱入しますが、牛玉札を持った僧侶たちの力で外に追い出されます。そして堂の外では、男たちが大松明を振りかざし、鬼たちを退散させます。松明をぶつけ合って火の粉を散らす場面もあります。この松明の燃え残りを持ち帰ると無病息災になると言われています。
 鬼が松明を持っているのではなく、人間のほうが松明を持って鬼を追い払うところが法隆寺や薬師寺とは反対です。大和の地に春を呼ぶ火祭りと言われています。

<興福寺・春日大社の薪御能>
 奈良の興福寺と春日大社では毎年5月第3金・土曜日に薪御能(たきぎおのう)が行われますが、これは元々は修二会の行事で、旧暦2月に行われていました。興福寺ホームページに詳しい歴史が掲載されています。
 修二会には密教的な呪師作法があり、走り回ったり刀を振るなど激しい動きをします。この呪師作法は本来は呪師の役を務める僧侶が行いますが、寺院によっては、それを猿楽者に任せるケースが出てきました。
 猿楽は奈良時代に唐から伝わってきた散楽が元で、物まね、軽業、奇術などさまざまな芸能を含んでいたとされていますが、平安時代にはこっけいな物まね芸などが猿楽の主体になっていきます。平安時代の間に専業的な猿楽者の一部は寺社に所属し、法会や神事の中で役割を果たすようになりました。
 興福寺は春日社(現在の春日大社)と一体的な関係があり、修二会に必要な薪を春日奥山から運びました。そして毎夜、神供の式を行うとともに、明々と薪が燃える火のもとで猿楽が演じられました。ここから、鎌倉時代中期には薪猿楽と呼ばれるようになりました。その頃には薪猿楽は修二会の添え物ではなく、観衆の人気を博す呼び物になっていたと考えられます。
 鎌倉時代には各地に猿楽座が生まれて興行をするようになり、室町時代初期までに大和の4座、近江の6座が並び立ちました。室町時代前期には、大和四座の1つ結崎座(のち観世座)の世阿弥が、猿楽に優美な歌舞や禅の精神まで取り入れ、能楽を大成しました。
 今日につながる能の源流の1つに、修二会から生まれた呪師猿楽があったわけです。
 興福寺は明治維新にともなう神仏分離・廃仏毀釈の嵐にさらされ、寺領を召し上げられて薪御能も続けられなくなりました。その後、戦時中の昭和17(1942)年から興福寺復興の活動が立ち上がり、翌年5月に薪御能が復活。戦後は昭和27(1952)年から地元自治体の後押しもあり、室町時代のように4座がそろう薪御能が行われています。

 2015年の薪御能の演目は以下のとおりでした。
◇5月15日
・呪師走りの儀(春日大社舞殿、午前11時)
   金春流能「翁」
・南大門の儀(興福寺南大門跡・般若之芝、午後5時半)
   宝生流能 「巴」
   大藏流狂言「千鳥」
   金春流能 「野守」
◇5月16日
・御社上りの儀(春日大社若宮社、午前11時)
   金春流能「田村」
・南大門の儀(興福寺南大門跡・般若之芝、午後5時半)
   観世流能 「羽衣」
   大藏流狂言「因幡堂」
   金剛流能 「鵺(ぬえ)」

 なお興福寺は節分の日に追儺会を行っており、毘沙門天が3匹の鬼と戦うショーがあります。

 …調べてみると、西日本の近畿から北九州にかけて多くの寺院に修正会・修二会の鬼追いが伝わっているので、次回の記事でいくつかを紹介します。

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