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2016年1月の7件の記事

旧暦の大晦日と節分(6)

 前回の記事のつづきで、追儺と節分の話の一応の締めくくり。鎌倉時代から仏教寺院の修正会(しゅしょうえ)や修二会(しゅにえ)で行われ始めた鬼追いについてです。

<法隆寺の西円堂修二会>
 奈良の法隆寺では毎年2月1~3日に西円堂修二会を行い、3日夜、修二会の結願の後、「鬼追い」(追儺会)を行います。「鬼追い」には黒鬼、青鬼、赤鬼が登場し、それぞれ西円堂の基壇を時計回りに回りながら東と南と西で観衆に向かって松明を投げ、その後から毘沙門天が現れて鬼を追い立てます。3周すると堂の中に入って終わります。今はこの時だけ堂の周囲に金網が張られますが、火の粉がかかると無病息災で過ごせるなどとして多くの観衆が集まります。
 修正会・修二会は悔過(けか)の法会、すなわち過ち・罪を懺悔する仏教行事です。正月に行うものを修正会、2月に行うものを修二会といいます。
 西円堂修二会は鎌倉時代中期の弘長元(1261)年に始まったとされています。ということは、京で大晦日の追儺がまだ行われていた時代に、仏教寺院でそれとは別の鬼追いが行われたことになります。修二会は2月に行うからこそ修二会。旧暦では立春は12月後半か1月前半にあり、絶対に2月にはならないので、修二会はもともと節分とは無関係です。その修二会に鬼追いがあるということは、単純に追儺を取り込んだのではなく、仏教には仏教独自の鬼追いの起源があるということです。
 仏教では、人間の心には本来的に「三毒の煩悩=貪欲、瞋恚(しんい・怒り)、愚癡(ぐち・教えを知らないこと)」があり、それが原因で罪を犯してしまうと教えています。その罪を懺悔するのが修二会であり、西円堂修二会に登場する毘沙門天と鬼は、仏教によって三毒の煩悩を払うことを分かりやすく大衆に教えるものだと言うことができます。
 このように仏教の世界で具現化・実体化された鬼のイメージは、平安時代以降の日本独自の鬼像の形成と相互に影響し合っているものと考えられます。そして、旧来の追儺と新しい鬼像が結びついて融合していったのだとすれば、今のような節分行事の始まりは、室町時代より早い鎌倉時代あたりまでさかのぼる可能性もあるのかもしれません。

 法隆寺だけでなく、鎌倉時代には多くの寺院で修正会や修二会に合わせて鬼追いが行われたようです。平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人・藤原定家の日記『明月記』には、承元元(1207)年1月15日に法勝寺の修正会で鬼追いが行われたことが書かれています。また鎌倉時代後期の公家・藤原兼仲の日記『勘仲記』では、正応2(1289)年1月18日の蓮華王院(三十三間堂)の修正会の進行が詳しく記述され、龍天(天龍八部衆)や毘沙門が出てきて、3匹の鬼を龍天が棒で追ったと書いてあります。『勘仲記』では「追儺」という言葉が使われており、当時すでに大晦日の追儺に限らず鬼追いのことを一般に「追儺」と呼んでいたことが分かります。
 法隆寺には鎌倉時代のものとされる追儺面が3面あり、国重要文化財になっています。また福井県鯖江市の加多志波神社に伝わる3つの鬼の面は蓮花寺の修正会で使ったものと見られ、うち2面は裏に貞和2(1346)年に修理したという朱漆銘があり、鎌倉時代に作られた追儺面の優品として国重要文化財に指定されています。
 こうしたことから見ると、仏教寺院の修正会・修二会の鬼追いは鎌倉時代に各地に広がり、仏教流の理由を付けて追儺を取り込みつつ、それぞれ独自のアレンジを加えていったと言うことができそうです。また後から紹介するように、多くの寺院で火祭りの要素が強く見られることが1つの特徴になっています。

 なお、法隆寺の「鬼追い」がいつから節分に合わせて行われているのか、知りたいところです。法隆寺ホームページによると、「寛政9年(1798)までは法隆寺の僧が鬼役を勤めていましたが、以後、丑寅の方向にあたる岡本法起寺裏の住人が勤仕することになりました」ということなので、いつの間にか陰陽道の鬼と同化しています。
 日本の神仏習合は奈良時代から始まっており、日本人にはあまり違和感なく溶け込んだのでしょう。本地垂迹説も反本地垂迹説も表裏一体の神仏一体化理論で、神仏習合は時代とともに深まって明治の神仏分離まで続きました。考えてみれば毘沙門天だって元々はインド神話の神様だし、密教と陰陽道は親和性が高いみたいだし、仏教は何でも取り込む性質を持っているのかもしれません。

 ここまで6回もかかりましたが、「旧暦の大晦日と節分」の記事で書きたかったことの本論はひとまずこれで完結しました。以下は今回の補足です。

<東大寺二月堂の修二会>
 上記のとおり修正会や修二会は悔過の法会ですが、奈良・平安時代の護国仏教では同時に国家安泰・五穀豊穣を祈願し、盛大に執り行いました。最も古いのが、「お水取り」で有名な東大寺二月堂の修二会(正式名称は十一面悔過)で、同寺の『二月堂縁起』によると天平勝宝4(752)年から始まり、「不退の行法」として現在まで一度も途切れずに続いています。もとは旧暦2月1日から行い、現在は3月1~14日に行っています。毎夜、大きな松明に火がともされ、舞台で大きく振られるため、「お松明」とも呼ばれます。
 練行衆と呼ばれる11人の僧侶が2月20日から別火の前行に入り、3月1日から14日間(7日間を2回)、二月堂で本行を勤めます。期間中は悔過法要を1日に6回行い(六時の行法)、その間に大導師作法と呪師作法を1日に2回行います。悔過に先立って練行衆が堂内をまわる散華行道があり、悔過の間に懺悔を全身で表す五体投地も行われます。
 大導師作法では神名帳を読み上げて全国の神々を勧請します。呪師作法は堂内をまわりながら呪文を唱え、魔障を払い四天王を勧請します。
 5~7日の3日間と12~14日の3日間には「走りの行法」が行われます。天界の1日は人間界の400年にあたるので、天界の行に追いつくことは無理でも少しでも急ごうと、本尊のまわりを早足でまわり、五体投地も行います。
 いよいよ残り3日間となる12日に「お水取り」があります。この日の松明は特別に大きな籠松明で、舞台で振られると大きな炎が上がり火の粉が舞い散ります。「お水取り」は深夜(13日午前1時)で、呪師と5人の練行衆が雅楽が奏される中を進み、閼伽井屋(若狭井)で香水を汲みます。
 最後の3日間は深夜に「達陀(だったん)の行法」が行われます。松明を持つ「火天」役と灑水器(しゃすいき)を持つ「水天」役が組になって堂内を踊るようにまわり、法螺貝や鐘、太鼓、鈴、錫杖が鳴り響く中で「火天」は松明を振り回し、「水天」は水をまきます。「火天」は最後に礼堂に出て松明を床に打ちつけます。「達陀」はサンスクリット語で「焼く」という意味だそうです。
 修二会の満行は15日の朝になります。

 呪師作法、達陀の行法など、密教的な行法が目を引きます。東大寺では弘仁元(810)年から4年間、空海が別当を務めたこともあり、これらの密教的な行法に何か関係があるのかもしれません。
 興味のある方は東大寺ホームページもご覧ください。年中行事のコーナーに修二会についての詳しい説明があります。

<薬師寺の花会式、長谷寺の修二会>
 奈良の薬師寺の花会式(修二会)、長谷寺の修二会(だだおし)には、法隆寺の西円堂修二会と同様の鬼追いがあります。いずれも節分の日ではなく(節分とはまったく無関係)、節分の日には別に星祭りや節分会を行います。

 薬師寺の修二会(薬師悔過法要)は奈良時代に始まり、同寺の最大の年間行事になっています。嘉承2(1107)年に堀河天皇が皇后の病気平癒を祈願したところ、病気が回復し、翌年、皇后が女官に命じて10種類の造花を作らせて供えました。それから毎年、修二会にたくさんの造花を飾るようになり、「花会式」と呼ばれるようになりました。鬼追式を加えたのは法隆寺より遅いはずですが、いつから始めたのかは調べ切れませんでした。
 元々は旧暦2月末でしたが、2013年まで3月30日~4月5日に行われ、2014年からは3月25~31日(最終日の夜に鬼追式)になっています。ちょうど境内の桜も見ごろの時期です。
 7日間の修二会の間、東大寺と同様に呪師作法があり、金堂内に鐘、太鼓、法螺貝が鳴り響く中、呪師が真剣を持って走り回ります。修二会の期間中、稚児行列、居合道、大正琴、百華能、柴燈大護摩(火渡り式)などの奉納行事もあります。
 神道的な儀式も混じっていて、最終日の結願法要の前に金堂の外で神供があり、呪師が神々を勧請し、練行衆が松明を投げ上げて神々に献じます。
 そして結願法要の後、鬼追式となります。金堂の外につくられた舞台で、まず呪師作法があり、続いて5匹の鬼が松明を持って現れ、大暴れします。これは文字通り傍若無人の大暴れで、観衆の近くで松明を振り回したり叩きつけたり、舞台の4隅にある籠松明を揺らして大量の火の粉を散らしたり、舞台から下りて観衆を威嚇したり。そこに毘沙門天が登場し、鬼を追い払って終了します。
 見せ物としては面白いでしょうが、法隆寺と比べると、鬼追いを見せる意味がよく分からない気もします。
 薬師寺ホームページもご覧ください。

 長谷寺の修二会は2月8~14日の7日間で、最終日の夕方、「だだおし」(鬼追い・追儺式)があります。こちらも鬼追いがいつから行われているかは分かりません。
 長谷寺ホームページによると、「だだおし」の意味は、「だだ」という閻魔大王の杖、追儺と同義の「儺(だ)押し」、人々の額に印を押す「檀拏(だんだ)押し」など諸説あって定かではないそうです。また寺伝では、長谷寺開山徳道上人が養老2(718)年に病の床の夢で閻魔大王に会って閻浮檀金の黄金印を授かり、修二会の結願の日に参詣者の額に押し当てて無病息災を祈ったことから、この名になったと伝えられているそうです。
 修二会の最終日は悔過法要、七種の秘宝の封印を解いての法要、鬼面加持があり、参詣者の額に閻浮檀金の宝印が押されます。この宝印授与に前後して太鼓や法螺貝が鳴り響き、3匹の鬼が乱入しますが、牛玉札を持った僧侶たちの力で外に追い出されます。そして堂の外では、男たちが大松明を振りかざし、鬼たちを退散させます。松明をぶつけ合って火の粉を散らす場面もあります。この松明の燃え残りを持ち帰ると無病息災になると言われています。
 鬼が松明を持っているのではなく、人間のほうが松明を持って鬼を追い払うところが法隆寺や薬師寺とは反対です。大和の地に春を呼ぶ火祭りと言われています。

<興福寺・春日大社の薪御能>
 奈良の興福寺と春日大社では毎年5月第3金・土曜日に薪御能(たきぎおのう)が行われますが、これは元々は修二会の行事で、旧暦2月に行われていました。興福寺ホームページに詳しい歴史が掲載されています。
 修二会には密教的な呪師作法があり、走り回ったり刀を振るなど激しい動きをします。この呪師作法は本来は呪師の役を務める僧侶が行いますが、寺院によっては、それを猿楽者に任せるケースが出てきました。
 猿楽は奈良時代に唐から伝わってきた散楽が元で、物まね、軽業、奇術などさまざまな芸能を含んでいたとされていますが、平安時代にはこっけいな物まね芸などが猿楽の主体になっていきます。平安時代の間に専業的な猿楽者の一部は寺社に所属し、法会や神事の中で役割を果たすようになりました。
 興福寺は春日社(現在の春日大社)と一体的な関係があり、修二会に必要な薪を春日奥山から運びました。そして毎夜、神供の式を行うとともに、明々と薪が燃える火のもとで猿楽が演じられました。ここから、鎌倉時代中期には薪猿楽と呼ばれるようになりました。その頃には薪猿楽は修二会の添え物ではなく、観衆の人気を博す呼び物になっていたと考えられます。
 鎌倉時代には各地に猿楽座が生まれて興行をするようになり、室町時代初期までに大和の4座、近江の6座が並び立ちました。室町時代前期には、大和四座の1つ結崎座(のち観世座)の世阿弥が、猿楽に優美な歌舞や禅の精神まで取り入れ、能楽を大成しました。
 今日につながる能の源流の1つに、修二会から生まれた呪師猿楽があったわけです。
 興福寺は明治維新にともなう神仏分離・廃仏毀釈の嵐にさらされ、寺領を召し上げられて薪御能も続けられなくなりました。その後、戦時中の昭和17(1942)年から興福寺復興の活動が立ち上がり、翌年5月に薪御能が復活。戦後は昭和27(1952)年から地元自治体の後押しもあり、室町時代のように4座がそろう薪御能が行われています。

 2015年の薪御能の演目は以下のとおりでした。
◇5月15日
・呪師走りの儀(春日大社舞殿、午前11時)
   金春流能「翁」
・南大門の儀(興福寺南大門跡・般若之芝、午後5時半)
   宝生流能 「巴」
   大藏流狂言「千鳥」
   金春流能 「野守」
◇5月16日
・御社上りの儀(春日大社若宮社、午前11時)
   金春流能「田村」
・南大門の儀(興福寺南大門跡・般若之芝、午後5時半)
   観世流能 「羽衣」
   大藏流狂言「因幡堂」
   金剛流能 「鵺(ぬえ)」

 なお興福寺は節分の日に追儺会を行っており、毘沙門天が3匹の鬼と戦うショーがあります。

 …調べてみると、西日本の近畿から北九州にかけて多くの寺院に修正会・修二会の鬼追いが伝わっているので、次回の記事でいくつかを紹介します。

旧暦の大晦日と節分(5)

 前回の記事のつづきで、節分の豆まきの由来です。
 節分の豆は、「鬼を追い払うためにまく」とともに「年神様に供え、自分の年の数(あるいはそれより1つ多い数)だけ食べる」のが一般的ですが、その他に「厄落としとして、自分の年の数の豆といくらかの銭を紙に包んで道端に落とし、物乞いに拾わせる(あるいは家に来た物乞いに与える)」ということもあったそうです。これらの風習は、同じ1つのルーツから派生したとは思えません(2番目はどう考えても年越し行事でしょう)。どれも調べると面白そうですが、今回は「豆をまく」ことの由来に絞って書きます。

 「節分」という言葉は平安時代中期に書かれた『伊勢集』『源氏物語』などにも出てきて、冬の節分だけでなく夏や秋の節分のことが書かれています。しかし、豆まきは出てきません。鎌倉時代も同様で、豆まきの記述はおそらく見つからないと思います。
 ところが室町時代になると、多くの文献に豆まきが出てきます。
 まず足利義満以後3代の将軍について記した『花営三代記』では、応永32(1425)年1月8日に「節分大豆打役昭心、カチグリ打。アキノ方申ト酉ノアイ也。アキノ方ヨリウチテアキノ方ニテ止」とあり、「大豆打役」が勝栗を投げています。「昭心」は同書にしばしば出てくる因幡入道昭心(照心とも)で、評定衆だった波多野元昌(元尚)のことではないかと思います。「アキノ方」は「明きの方」で、その年の歳徳神がいる方角、つまり恵方です。今と同様に恵方を意識しており、陰陽道の影響を受けた行事だということが分かります。義満は禅宗を保護する一方で陰陽師を重用したので、うなずける話です。
 後崇光院(伏見宮貞成親王)の日記『看聞御記』にも同年同日に「鬼大豆打」という記述があるそうで、同じ行事のことでしょうか。
 また前回の記事でも書いたとおり、室町時代中期に書かれた『臥雲日件録』では、1447年に、炒り豆をまいて「鬼は外、福は内」と唱える、今とまったく同じ節分行事が行われています。

 これらから見ると、室町時代初期(14世紀半ば~15世紀初頭)に節分の豆まきが始まり、一般に普及したと考えてほぼ間違いないでしょう。平安時代から続いた大晦日の「追儺」は南北朝の動乱で衰退するので、それから90年ほどの間に何があったのかということが焦点になります。

 節分の豆まきの由来については、次の5つくらいの説があると思います。
(1)中国の後漢の大儺で行われた「以赤丸五穀播灑之」
(2)本草学(中国医薬学)の大豆の効能
(3)室町時代に明から伝わった
(4)室町時代に追儺の鬼払いと節分方違えの豆打ちが混合した
(5)鞍馬山の鬼(御伽草子「貴船の本地」、御泥池の豆塚伝説)
 正直なところ、どの説にも疑問が残って決定版がないのですが、順に見ていきます。

 まず(1)です。中国の文献をさかのぼると、後漢中期(2世紀)に書かれた『蔡中郎集』や『漢旧儀』の「時儺」の話に「以赤丸五穀播灑之」(赤丸を投げたり五穀を撒いてこれをそそぐ)というのが出てきます。「赤丸」というのは何のことかはっきりしませんが、小豆だという解釈があります。日本だと豆は五穀の中に入りますが、古代中国だと入る場合と入らない場合があります。なぜ豆をまくのかという根本的な理由までは分かりませんが、後漢の「大儺」に桃の弓、葦の矢とともに穀物を用いていたことが分かります。
 江戸時代初期の儒学者・林羅山の『羅山文集』(巻五十六・雜著)では、「儺文」の説明でこの『漢旧儀』の文を引用し、豆まきだけでなく、柊は葦の矢と似たようなものだとしています。さらに「鬼は外、福は内」という言葉も、『後漢書』の儺の詞と同じ意味だとしています。
 林羅山の説はなるほどとは思わせますが、これでは室町時代に豆まきが広がったことの説明になりません。

 次は(2)の本草学(中国医薬学)の大豆の効能です。中国では古代から本草学があり、1~3世紀ごろ『神農本草経』という薬物辞典が作られました。これの原本は残っていませんが、500年ごろ異本を整理した『神農本草経集注』が出されました。その中で大豆の効能について「煮飲汁殺鬼毒、止痛」(煮て汁を飲めば鬼毒をけし、痛みを止める)とあります。
 中国でいう「鬼(き)」とは死者の霊魂のこと。そして、横死したり誰からも祭られない霊魂はたたりを起こすと恐れられました。日本では「鬼」を目に見えないものという意味で「おん(隠)」と読み、それが「おに」に転じたという説があります。その「鬼」が平安時代の間に実体化しはじめ、室町時代の物語では人を食う怪物になりますが、そのことには(5)の説明で触れます。
 『神農本草経』には「鬼」という字がいっぱい出てきますが、どうも説明のつかない症状を鬼のせいにしている感じがします。「鬼毒」も意味が不明です。しかし死者の霊魂が人にたたるということなら、やはり疫病の伝染を連想してしまいます。それを払うのに大豆を使うのなら、(4)の節分方違えの豆打ちにつながるかもしれません。この先は(4)の説明で触れます。
 それにしても、『神農本草経集注』も遣隋使・遣唐使の時代に日本に入っているはずなので、やはりこれだけでは室町時代に豆まきが広がったことの説明がつきません。

 次は(3)の室町時代に明から伝わったという説です。現在、神社庁筋がとっているのはこの説で、神道系の書籍や神社のホームページではだいたいそう書いてあります(というか、まったく同じ文章をコピーして載せている例が少なくないので、どこかにオリジナルがあるはずです)。
 室町幕府3代将軍の足利義満は1401年に明との国交を樹立して明から日本国王と認められ、倭寇を取り締まりつつ積極的に日明貿易を進めたので、この時期に明のさまざまな文化が日本に流入しています。
 では当時、具体的に明にどんな風習があって日本に伝わってきたのかということが問題になりますが、それがさっぱり分かりません。調べても調べても出てきません。
 唐の時代に書かれた『楽府雑録』には、儺の行事について「口呼各凶神名、振子豆百」(口々に凶神の名を呼び、子どもが豆をまく)という描写があるそうで、後漢の時代のように豆をまいた例があったようです。また清の時代以降も北部の豆の産地で撒豆、南部の米の産地で撒米の風習が見られる地域があるようですが、あまり一般的ではない感じです。
 (3)の説は時代も状況もぴったり合いますが、有力説とするにはもう少し補強が必要です。

 次は(4)の追儺の鬼払いと節分方違えの豆打ちが混合したという説です。
 「方違え」については説明するまでもないと思いますが、行き先の方角が悪い場合、いったん別の方角の場所に行って泊まり、そこから目的地に向かうことです。平安時代中期以降、陰陽師が本来の職掌を超えて怪しげなことを言いふらした時代に、ヒマな貴族たちの間で流行りました。『源氏物語』『枕草子』などに出てきます。
 それを節分の日に行う理由もさっぱり理解できませんが、ともかく節分の日は大勢が方違えをする日だったのだそうです。
 こういうことは武家の時代になっても残るもので、鎌倉時代の『吾妻鏡』には節分御方違がいっぱい出てくるし、室町時代の文献にも出てきます。
 この節分方違えが室町時代になると簡略化され、よそに泊まる代わりに自宅の恵方の部屋に移るだけになり、その時に部屋に豆をまいて邪気を払ったのだそうです。そして、その頃にはすでに大晦日の「追儺」が衰退していたので、「追儺」の鬼払いの意味だけが節分行事に取り込まれたというわけです。旧暦の大晦日と冬の節分はプラスマイナス十数日以内の差なので、これもありそうです。
 ただ、肝心の「節分方違えが室町時代になると簡略化され(略)部屋に豆をまいて邪気を払った」という部分の出典が確認できません。さらに、これが本当だったとしても、なぜ豆で邪気を払うようになったのかという説明がありません。これらの問題が解消されれば、(4)が有力説になると思うのですが。
 ここで思い出すのが(2)の大豆で鬼毒をけす話です。『神農本草経』では鬼毒をけす効果があるのは大豆だけではなく他にもいくつかありますが、手に入りやすくて気軽に部屋にまけるという意味では大豆が最適でしょう。(2)と(4)を明確につなぐ根拠が見つかると面白いのですが。

 いずれにせよ今の節分行事の始まりに陰陽道が関与していることは間違いなく、感じとしては(1)~(4)のどれもが多少なりとも関係があるのではないでしょうか。

 最後に(5)の鞍馬山の鬼です。「貴船の本地(きぶねのほんじ)」は室町時代に成立した『御伽草子』の1つ。「○○の本地」というのは本地垂迹説に基づいて書かれた物語で、貴船神社のホームページでは「貴船の物語」として掲載しています。宇多天皇の時代というと平安時代前期の890年代ころ。以下は物語の要約です。
 定平の中将という男がいて、ある時、扇に描かれた美しい女に心を奪われ、恋煩いで3年も寝込んでしまいます。その絵の女は鬼の大王の娘で、鞍馬山の奥の僧正谷の丑寅の岩穴に入ったずっと先にある鬼国にいました。中将は毘沙門にお願いして娘に合わせてもらい、娘について鬼国に入りました。鬼国は広く、四季の庭がありました。娘は中将の体を小さくしてお守りの中に隠し、大王の前に出ますが、大王は人間を出せと怒ります。娘は中将を逃がし、大王は中将のかわりに娘を食べてしまいます。中将は娘を供養して暮らしますが、その頃、中将の叔母が懐妊し、美しい女の子を産みます。鬼の娘が死んでから13年後、女の子は中将に、自分は娘の生まれ変わりだと明かし、2人は結ばれます。ところが鬼の大王がこれを知り、手下たちを京に向かわせようとします。鞍馬の毘沙門が鬼の動きを知ってお告げをし、法皇が大学寮の学者たちに命じて方策を占わせました。すると、僧正谷の岩穴を封じ、三石五斗の炒り豆で鬼の目を打てば、鬼は目をつぶされて帰る、また鰯を焼いて串に刺し、家の門口に挿しておけば、人と間違えて鰯をとっていく、ということになり、その通りにして鬼を追い払うことに成功しました。さらに毘沙門のお告げで五節句の鬼払いの祭りを始め、それによって鬼が出て来ることはなくなりました。娘は120年の命を保った後、貴船の大明神になり、貴船神社は恋愛成就の願いをかなえる神社になったということです。

 貴船神社は実際、古くから恋愛成就の神社として知られています。そのきっかけは、平安時代中期の歌人・和泉式部が夫(藤原保昌)の気持ちを取り戻したいと願って百夜参りしたところ、願いがかなったからだそうです。和泉式部の「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」という名歌はここで詠まれました。平安ロマンの舞台です。

 この物語のあらすじは、室町時代中期の百科事典『壒嚢鈔(あいのうしょう)』(1446年)にも出てきます。「節分ノ夜大豆ヲ打事ハ何ノ因縁ゾ、是更ニ慥ナル本説ヲ不レ見、由來ヲ云人ナシ、但シ或古記ノ中ニ云、節分ノ夜大豆ヲ打事ハ、宇多天皇ヨリ始レリ、鞍馬ノ奧僧正谷、(以下略)」と。
 ここに出てくる「或古記」というのは、どんな文献のことか不明です。また節分の豆まきの由来について、確かな説がなく誰も知らないと書いているのも気になります。節分の豆まきをめぐり室町時代に何らかの動きがあったとしたら、『壒嚢鈔』の著者が知らないはずがないと思うのですが…。不審です。

 京都では、この物語に似た「深泥池の豆塚」の伝説が伝わっています(この「深泥池」の読みは「みぞろがいけ」と「みどろがいけ」の両方が通用しています)。
 深泥池は京都市街北方の上賀茂にある池(周囲約1.5km、面積約9ha)で、それより7kmほど北に鞍馬山があり、池の近くに深泥池貴船神社(貴船神社の分社)があります。ちなみに深泥池は現在、タクシー怪談の発祥地とされる心霊スポットです(タクシー怪談は東京の青山墓地が発祥地だという話もあります。詳しいことは知りません)。以下は深泥池の豆塚の伝説の要約です。
 深泥池のほとりに洞穴がありました。ある日、近くを通りかかった村人が、洞穴の中で2匹の鬼が村を襲う相談をしているのを聞きつけました。村の庄屋が貴船神社にお参りして訴えると、神のお告げがあり、洞穴は貴船神社の近くからつながっていて鬼の通路になっているので、出入口をふさげということでした。村人はお告げに従って柊鰯を家の戸口に挿し、鬼の嫌がる炒り豆を大量に用意しました。鬼が出てきて、鰯のにおいにつられて食いついたところ、柊の棘が目に刺さりました。村人は鬼に炒り豆を投げつけ、鬼が洞穴に逃げ帰ったところで、出口を豆でふさぎました。その上に土を盛って「豆塚」と呼び、また豆を入れた升を埋めた場所を「升塚」と呼ぶようになりました。

 今では豆塚の所在は不明ですが、昭和初期まで節分の日に豆塚の穴に豆を投げ入れる風習が残っていたそうです。その場所は深泥池貴船神社のあたりではないかと言われています。

 江戸時代前期の『日次紀事』や『都の手ふり』にはちょっと違う話が書かれていて、寛平年中(889~898年)に京の都で疫病が流行ったため、神託を受けて深泥池のほとりに貴船神社の神様を勧請し、みこしをかついで池をめぐり、升に入れた炒り豆をまいて疫鬼をはらい、残った豆や升を埋めた場所が「豆塚」「升塚」になったとしています。
 寛平年中というのは「貴船の本地」の物語の時期と重なります。お伽噺の鬼よりは疫病のほうが真実味がありますが、寛平年中には「新羅の賊」が対馬や九州に侵攻しているので、それ以前の目に見えない疫鬼ではなく、実体としての鬼の物語が生まれていてもおかしくはありません。それに比べると疫病は寛平年中に限らずしょっちゅうあり、八坂神社の祇園祭が始まるきっかけになった貞観11(869)年の大流行などが知られています。
 平安時代末期(12世紀半ば)に成立したと見られる『今昔物語集』や、鎌倉時代初期(13世紀前半)に成立した『宇治拾遺物語』には、実体としての鬼が多く登場します。平安時代の間に、現在の鬼のイメージにつながる基本的な鬼像ができ上がり、一般化したようです。

 ここまで、いずれも面白い話なので長々と書いてしまいましたが、これらの物語は、日本で生まれた鬼の物語に、節分の豆まきや柊鰯をうまく取り込んだという感じがします。

 …やっと山を越えました。次回は仏教寺院の修正会・修二会で行われる鬼追いについて考えます。

旧暦の大晦日と節分(4)

 前回の記事のつづきで、日本の「大儺・追儺」の話に入ります。この記事の中で掲載している図版はすべて国立国会図書館デジタルコレクションから転載したものです。

 遣唐使によって唐から日本に伝えられた「大儺」の形式は当然、唐の時代のものなので、日本の「大儺・追儺」は最初から大晦日の儀式として行われました。

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16012102 上の「追儺」の絵は、江戸時代末期の天保14(1843)年に描かれた『公事十二月絵巻物』の12月のものです。左から2番目の面をつけ矛と盾を持っているのが「方相氏」(右の拡大図参照)。その後方にいるのが「侲子」たちで、よく見ると赤い鉢巻をしています。
 この「方相氏」の姿は平安時代中期の『政事要略』の挿絵を写したものと思われ、内容的にも平安時代前期の「追儺」の様子を伝えていると思われます。追い立てられているのは目に見えない疫鬼です。鬼(に扮している者)はいないということを覚えておいてください。

 平安時代初期の「大儺」のマニュアルが、『内裏式』(821年成立)の「十二月大儺式」という項目に書かれています。この文章自体、唐の『通典』(801年成立)の「禮九十三・大儺」の文章とそっくりで、明らかに下敷きにしていることが分かります。それでも儀式の内容は日本式にアレンジした部分が見られます。原文は長いので省略しますが、その内容は…
 大晦日の夜、参加者が配置につき準備が整うと、「まつれ」という勅があり、儺人が紫宸殿の前庭に参入します。
 中務省に率いられた侍従、内舎人、大舎人らはそれぞれ桃の弓と葦の矢を持っています。陰陽師に率いられた齋郞が祭具を持っています。「方相氏」は大舎人の中から身体の大きな者が1人選ばれ、黄金四目の面をかぶり、黒と赤の衣裳を着け、右手に矛、左手に盾を持っています。官奴から選ばれた「侲子」20人は紺の布衣と赤い鉢巻を着け、整列します。
 齋郞が供え物をし、陰陽師が跪いて呪文を読みます。それが終わるとまず「方相氏」が儺声を発し、矛で盾を撃ち、これを3回行います。群臣がそれに唱和し、悪鬼を追って四方の門から出ます。宮城の門外まで来ると、京職が引き継ぎ、太鼓を鳴らしながら郊外まで追って終わります。

 これが『貞観儀式』(875年成立)になると、方相氏の面をつける者は「儺長」と呼ばれ、侲子は「小儺」と呼ばれて桃の弓、葦の矢、桃の杖、瓦のかけらを持ちます。また『貞観儀式』には供え物の内容や陰陽師が読む祭文の詞が書かれています。
 『延喜式』(927年成立)では、準備段階の手順から当日の動きまで、より詳細に書かれています。ただし供え物と祭文の詞は『貞観儀式』とまったく同じです。

 「旧暦の大晦日と節分(1)」の記事で書いたとおり、『日本三代實録』に858年から886年まで大晦日の「大儺・追儺」の記述がありますが、878年までは「大儺」と書いたり「追儺」と書いたり不統一で、879年からはすべて「追儺」になっています。このことに何か意味があるのかどうか、はっきり分かりませんが、「追儺」は中国にはない言い方で、この時期に儀式の日本化が進む中で「追儺」になったとする見方があります。ちなみに『内裏式』(821年成立)と『貞観儀式』(875年成立)の表記は「大儺」で、『延喜式』(927年成立)の表記は「追儺」「儺祭」「年終儺」です。

 平安時代中期(10世紀)に書かれた『西宮記』では、会場の飾り付けや参加者の配置がより細かく分かります。王卿などが桃の杖や弓、葦の矢を持って承明門の南東の壇上に立ちます。陰陽師が祭文を読む間、「方相氏」に供え物を饗します。いよいよ宮中から外に悪鬼を追い立てる段になると、王卿などが眷属を率いて四方の門に分かれて追います。

16012103 『西宮記』の少し後(11世紀初頭)に書かれた『政事要略』には、「方相氏」(右上)と「侲子」(下)と「疫鬼」(左上)の挿絵があります。ちょっと不思議なのは「方相氏」が右手に盾、左手に矛を持っていて、『内裏式』の記述と逆になっていることです。この理由は分かりません。
 また疫鬼は本来、目に見えない存在ですが、なぜ挿絵に描いたのでしょうか。もしかすると、疫鬼は「方相氏」とは別の存在である(つまり「方相氏」は鬼ではない)ということを分かりやすく示すためにわざわざ描いたのかもしれません。

 「追儺」は、平安時代中期(10世紀後半~11世紀前半)に書かれた『蜻蛉日記』『小右記』『源氏物語』『栄花物語』などの日記や文学作品にも、「儺やらひ」「儺やらふ」「追儺」などの表記で登場します。これらをみると、この時代には「大儺」ではなく「追儺」という表記が定着していることが分かります。また、この頃には貴族の家などでも「追儺」が行われています。
 『蜻蛉日記』の天禄二(971)年十二月には「人は童・大人ともいはず『儺やらふ儺やらふ』と騒ぎののしるを」とあり、京の都では大晦日の夜、大人も子どもも「追儺」の真似事をして騒々しくはしゃいでいた様子がうかがえます。また、こうした記述から、「方相氏」が上げる「儺声」の言葉は「おにやろう」だったものと思われます。

 その後、『古事類苑』に「中世以降其制漸ク頽レ」と書かれているように、時代が進むにつれて「追儺」の形式がだんだん崩れていきます。その時期は早く、すでに平安時代のうちに重大な変質が起き始めます。
 平安時代後期(12世紀初期)に書かれた『江家次第』には「殿上人長橋内ニ於テ方相ヲ射ル」とあります。また『永昌記』では、嘉承元(1106)年の大晦日の「追儺」の様子について、「方相氏陰陽呪了、經軒廊渡東庭、此間侍臣放矢儺之、即下格子、主上數度有仰、良久追之」(方相氏が陰陽の呪を終え、軒廊を経て東庭を渡った。この間、侍臣が矢を放ってこれを儺した。すぐ格子を下ろし、天皇が「よく久しく追えよ」と数度おっしゃった)と書いています。
 本来、疫鬼を追うリーダーだったはずの「方相氏」が、逆に鬼として追われ、弓で射られるようになってしまったのです。

 鎌倉時代末期(14世紀初期)の宮中の「追儺」については、後醍醐天皇が書いた『建武年中行事』に「大舎人寮鬼をつとむ。陰陽寮祭文をもちて、南殿のへんにつきてよむ。上卿以下これを追ふ。殿上人どもは御殿の方に立ちて、桃の弓、葦の矢にて射る。仙花門より入りて、東庭をへて瀧口の戸にいづ。こよひ所々にともし火をおほくともす。東庭、あさがれい、台盤所のまへ、みぎりに、燈臺をひまなく立ててともすなり」とあります。
 この本は、戦乱と朝廷分裂の混乱が続く中で、後醍醐天皇が宮中の年中行事を記録しておき、いずれ再興するつもりで書いたものと思われます。平安時代以来の「追儺」の形を受け継いではいますが、やはり大舎人が扮する鬼をみんなで追い払う行事になっています。

 平安時代後期から鎌倉時代にかけて、宮中祭祀の「追儺」が本義を失っていく一方、京の都の民間では大晦日の風習として定着します。鎌倉時代末期に書かれた『徒然草』の第19段には「追儺より四方拝に続くこそ、おもしろけれ。晦の夜はいたう暗きに、松どもともして、夜中過ぐるまで、人の門叩き、走り歩きて、何事にかあらむ、ことごとしくのゝしりて…」とあり、『蜻蛉日記』の頃と同様に、大晦日の夜中に人々が松明をともして走り回り、大騒ぎしていたことが分かります。

 また一方、平安時代後期に白河天皇の発願によって壬生寺の「節分会」が始まったとされています。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、大晦日の「追儺」が民間に広がって続いている一方、寺院の「節分会」が始まり、両者が並存していたことになります。

 南北朝時代も過ぎると平安時代以来の「追儺」はほとんど過去のものになり、「追儺」に対する認識もすっかりおかしくなっています。室町時代中期(15世紀初期)に書かれた『公事根源』では、「鬼ト云フハ方相氏ノ事也」と、「方相氏」の扱いが完全にはき違えた記述になっています。また少し後(15世紀中期)に作られた『下學集』(室町時代の国語辞典)では、「追儺」の説明が「節分ノ夜、禁中ニ於テ殿上侍臣桃ノ弓葦ノ矢ヲ以テ惡鬼ヲ驅ル、之ヲ追儺ト謂フ也」とあり、大晦日だったはずの「追儺」がいつの間にか節分の行事になっています。これは大晦日の「追儺」が室町時代中期にはもう宮中でも民間でも行われておらず、節分の行事に集約されていた証拠でしょう。
 また室町時代中期に書かれた『臥雲日件録』の文安4(1447)年12月22日には、「明日立春、故及昏景富毎室散熬豆、因唱鬼外福内四字」(明日は立春なので夕方、部屋ごとに炒り豆をまいて「鬼は外、福は内」と唱えた)とあり、すでに今と同じスタイルの節分行事が行われていたことが分かります。

 どうも南北朝時代前後に大きな変化があったのではないかという気がします。動乱に続き、室町幕府という武家政権が京を支配したために、多くのことが変わったのではないでしょうか。

 応仁の乱(1467~1477年)の後、戦国時代初期に公卿の中御門宣胤が書いた日記『宣胤卿記』では、明応元(1492)年12月に「追儺(此年再興)」とあり、宮中で「追儺」の再興を試みたこともあったようです。しかし、「旧暦の大晦日と節分(1)」の記事で書いたとおり、宮中の大晦日の「大祓」もこの時期に途絶えたとされており、宮中の「追儺」もあわせて途絶えたのでしょう。

 戦国時代も過ぎて江戸時代になると、冬の節分に豆まきをしたり柊の枝に鰯の頭をつけて戸口に立てる風習が全国各地の民間に広がりました。これは江戸時代に入って伊勢暦などが広く普及し、それにその年の恵方や二十四節気などが載っていたため、暦と年中行事の知識が津々浦々に行き渡ったからではないかと思います。
 「追儺」は現在の宮中祭祀にはありません。各地の神社のなかには冬の節分に合わせて追儺神事を行っているところがあり、古式にのっとって桃の弓で葦の矢を放ち疫鬼を追い払う追儺式(鬼やらい神事)を行っている神社もあります。

 …追儺の話はひと区切り。次回の記事では節分の豆まきの由来について考えます。

 きょうは大寒。平安時代なら京の都の12の門に「土牛童子」が立っていますね。

旧暦の大晦日と節分(3)

 前回の記事のつづきで、やっと本題の「追儺」の話に入ります。

 「追儺」の儀式に登場する「方相氏」の起源は古代中国王朝・周(紀元前11~紀元前3世紀)の官職で、『周礼』(夏官司馬)に「方相氏掌蒙熊皮黃金四目玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隸而時難、以索室驅疫。大喪、先柩及墓入壙、以戈擊四隅驅方良」(方相氏の仕事は、熊の皮をかぶり、黄金四目の面、黒い衣・朱の裳を着け、矛をとり盾をあげ、百人の従者を率いてなやらいし、部屋をさぐり疫気をはらう。大喪の際には、柩の先にたって墓まで行き墓穴に入り、矛で四隅を撃って魍魎をはらう)とあります。
 さらに中国の伝説の時代までさかのぼると、黄帝の2番目の妃だった嫫母が「方相氏」の元祖とされています。唐の時代に書かれた『琱玉集』によると、嫫母はたいへん醜く色黒だったが、徳があったので黄帝が妃に迎えました。さらに『軒轅本記』(軒轅は黄帝の名)によると、黄帝が旅をしている時、第1妃の螺祖が道で死に、黄帝はこれを祖神として祭り、蟆母に守らせたのだそうで、そこから摸母をもって方相氏となすとしています。この伝説から、周の官職としての「方相氏」は時儺と墓穴祓いの2つの役割を持ったわけです。

 上記の『周礼』の記述から、すでに周の時代に「時儺」(後の大儺、日本の追儺)の儀式が確立していたことが分かります。では、その「時儺」の起源は何かとなると、中国の研究者の間でも説が分かれていてはっきりしません。原始時代までさかのぼりそうな話で、おそらく究明することは不可能でしょう。

 「儺」は『論語』にも出てきて、「郷党」編に「郷人儺、朝服而立於阼階」(村人のなやらいには、正装してきざはしに立つ)とあり、春秋戦国時代(紀元前7~紀元前3世紀)にはすでに宮廷だけでなく地方の村々でも行われる儀式だったことが分かります。ちなみに孔子のこの行動の意味については、霊廟の祖先の霊を守るという解釈と、村の祭祀をうやうやしく迎えるという解釈と、2つの説があります(考えようによっては、この2つは両立します)。
 なお『周礼』や『礼記』の文字は「難」、『論語』の文字は「儺」になっていますが、中国の文献でこの儀式に「儺」の文字をあてたのは『論語』が最初だそうです。その後は一般に「儺」の文字が使われるようになっています。

 秦や漢の正史には「儺」に関する記述はありませんが、同種の儀式はあったと考えられています。
 5世紀になってから書かれた『後漢書』(志―禮儀・中)では、後漢の時代(1~3世紀)の宮中儀式として「大儺」が登場します。
 原文は省略しますが、その形式は、まず侍従が扮する「方相氏」と「十二神獣」、120人の「侲子」(10~12歳)が宮中の悪鬼を追い立てます。皇帝が前殿に入ると、「侲子」が儺の詞を唱和し、「方相氏」と「十二神獣」が舞い、それから大声を上げてあたりを3回めぐり、松明を持って疫を送り門から出ます。門の外で武官が松明を取り次ぎ、水中に捨てます。各役所では獣の面をかぶらせて儺人とし、終わると、桃梗(桃の木に吉祥の文字を記した札)、鬱儡(鬼門を守る神)、葦茭を飾りました。公、卿、将軍などには葦の戟と桃の木を賜いました。
 ここでは周の時代からの「方相氏」による疫払いの形式を踏襲しつつ、「侲子」による鬼払いの言葉の唱和や「十二神獣」の舞が加わっています。これらは現在まで中国各地の民族に伝承されている「儺戯」(仮面劇)の源流と考えられています。また門に「桃人」や「葦索」を飾る風習の始まりが見られます。

 『後漢書』によると、後漢の時代に「大儺」が行われた日は「先臘一日」(臘の前日)となっています。「臘」というのは猟の獲物を祖先や神々に供える祭りで、冬至の後、第三の戌の日に行いました。ここから旧暦12月のことを「臘月」ともいいます。「臘」の日は早くて冬至の25日後、遅くて36日後にあたり、大寒の前後数日以内になります。それなら大寒の日と決めておけば良さそうなものですが、戌の日ということに意味があったのでしょう。
 ちなみに現在の中国では旧暦12月8日が「臘八節」となっており、この日を「臘日」とか「臘八」と呼んで「臘八粥」を食べます。これは仏教の行事で、南北朝時代の南朝の宋(5世紀)で広がったとされ、もともとの「臘」の日とは違います。
 前回の記事で書いたとおり、周の時代には3月の「国儺」、8月の「天子の儺」、12月の「大難」と年に3回の「儺」がありましたが、時代が前漢から後漢へと進むと、疫鬼をはらって新年を迎える意味をあわせて12月の「大儺」が特別に重視されるようになりました。この時期に「卒歳大儺」という言葉も現れました。

 三国時代から南北朝時代にかけて(3~6世紀)、「大儺」の扱いは国ごとにまちまちで、多くの国で宮廷の「大儺」は廃れました。
 一方、民間では広がり、仏教と混合したり、儺を生業とする人々が現れるなど、さまざまなバリエーションが生まれました。例えば、南朝の梁の時代(6世紀)に書かれた『荊楚歲時記』には「十二月八日為臘日。諺語『臘鼓鳴、春草生』、村人并擊細腰鼓、戴胡公頭及作金剛力士以逐疫」(12月8日を臘日という。諺に「臘鼓を鳴らせば春草生ず」といい、村人はみな細腰鼓を打ち、胡公頭という帽子をいただき、金剛力士の格好をして疫を払う)とあり、仏教の守護神である金剛力士が疫払いをするなど、仏教と儺の混合が見られます。

 唐の時代半ばに書かれた『通典』(801年成立)には、周、後漢、北斉、隋、唐の各時代の「大儺」について順を追って書かれています。周と後漢は上に書いたとおりです。
 南北朝時代末期の北斉(6世紀)で、ついに「大儺」が大晦日の行事になりました。後漢に始まる年越し重視の流れですが、ここで初めて、日本で大晦日に「大儺・追儺」を行った理由につながるものが現れるわけです。
 北斉の「大儺」の形式は、後漢のように「方相氏」、「十二神獣」、「侲子」(240人に増えている)が登場しますが、松明を持つことはなく、「方相氏」と「十二神獣」の舞の後、鼓を打ち鳴らしながら南門を出て、そこから6方面に分かれて城門から郭外に出て終わります。

 隋の時代は『礼記』(月令)の古式に戻ったようで、年3回の「儺」を行い、まず「季春晦、儺、磔牲於宮門及城四門、以攘陰氣」(3月の晦日、なやらいし、宮門と城門に牲を磔し、陰気をはらう)、次に「秋分前一日、攘陽氣」(秋分の前日、陽気をはらう)、そして「季冬旁磔、大儺亦如之(略)」(12月、方々に磔し、また大儺…)となりました。
 12月の磔としては、各門にオヒツジとオンドリを磔したと書いてあります。「大儺」の形式としては、「十二神獣」が登場しなくなり、かわりに鼓と角が各10人となりました。あらかじめオンドリ、オヒツジと酒を用意し、門のところに穴を掘っておきます。「方相氏」が矛と盾を持ち、大声を上げ鼓を打ち鳴らしながら分かれて城門に向かいます。門に牲を磔し、酒ではらった後、牲と酒を埋めます。ここでは「磔」が「大儺」の儀式の一部になっています。

 唐の時代には北斉と同じように大晦日に「大儺」を行うとともに、州や県でも「儺礼」を行いました。そのやり方は『大唐開元礼』(732年完成)に細かく書かれています。
 「侲子」(12~16歳)は面をつけ赤い衣と袴で24人を1隊とし、6人を1グループにします。「執事」12人は赤い頭巾とひとえの衣で杖を持ちます。「方相氏」は黄金四目の面をつけ、熊の皮をかぶり、黒と赤の衣裳をつけ、右手に矛、左手に盾を持ちます。「唱帥」は面をつけ、皮衣を着て棒を持ちます。鼓と角が各10人で、合わせて1隊とします。これで宮中の悪鬼を追い出します。
 役人が門ごとにオンドリと酒を用意し、城門に磔禳します。
 內侍が皇帝のいる御殿の前で開始を呼びかけると、「方相氏」が矛と盾を上げ、「唱帥」が「侲子」を率いて儺の詞を唱和します。大声を上げ、鼓を打ち鳴らしながら出て、諸隊は順天門(宮城の南の門)から分かれて城門まで行き郭外に出て終わります。

 この後の中国の儺については簡単に書きますが、宋の時代には「方相氏」も「侲子」もなくなって大勢で仮面をつけて練り歩く行事になり、元は儺の儀式を行いませんでした。明の時代の中期に宮中の儺が復活しますが衰退し、清も儺の儀式は行いませんでした。民間の儺の習俗は清の時代まで続きますが、それも清代末期の戦乱の中で衰退したということです。

 日本の「大儺・追儺」は遣唐使によって唐から伝えられたものがもとになっており、そのおかげで古代中国からの流れを汲む「方相氏」や「侲子」が登場する形式になりました。

 …やっと本題に入ったのですが、中国の話だけでかなり長くなってしまったので、中国の話と日本の話に分けます。日本の話は次回の記事で。

旧暦の大晦日と節分(2)

 前回の記事のつづきで、「追儺」の話に入ります。

 明治政府が編纂した『古事類苑』(歳時部)には、「追儺」について次のような説明があります(分かりやすく書き直しました)。

追儺(土牛童子)
 「追儺」は「おにやらい」や「なやらい」と言い、音読みで「ついな」と言う。大晦日の夜、宮中で悪鬼を追い払う儀式である。
 そのやり方は、大舎人の身体が大きい者1人を選んで「方相氏」とし、これを「大儺」と言う。「方相氏」は黄金四目の仮面をかぶり、黒と朱の衣装を着け、右手に矛、左手に盾を持つ。また官奴ら20人を「侲子」とし、これを「小儺」と言う。「侲子」は紺の衣、朱の鉢巻を着けて庭に並ぶ。まず陰陽師が祭文を読み、それから「方相氏」が儺声を発し矛で盾を打つ。「侲子」はこれに従い、親王以下、桃の弓、葦の矢、桃の杖を持ち、力を合わせて悪鬼を追う。
 中世以降、その形式がだんだんくずれ、殿上人らが桃の弓と葦の矢で「方相氏」を射たりするようになった。
 また大寒の日の前夜、宮城門に「土牛童子」の像を立てた。疫気をはらうためである。

 話の順序として、最後に出てくる「土牛童子」のことに先に触れます。日本の文献で「土牛」が最初に登場するのは『続日本紀』で、飛鳥時代末期の慶雲3(706)年に「是年、天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」(この年、諸国に疫病が発生して民が大勢死に、初めて土牛を作って大いになやらいした)とあります。ここに出てくる「大儺」というのは「土牛」を作ったことを指すのか、それとも別に「大儺」の儀式があったのか、はっきりしません。
 『続日本紀』には続いて宝亀3(772)年の12月29日に「有狂馬、喫破的門土牛偶人」(暴れ馬があって門の土牛偶人が壊された)とあり、「土牛偶人」を門に立てていたことが分かります。

 この「土牛」の起源は古代中国にあり、戦国時代~前漢初期(紀元前4~2世紀)の礼学の書をまとめた『礼記』(月令)に「季冬之月(略)命有司大難、旁磔、出土牛、以送寒氣」(12月…有司に命じて大いになやらいし、四方の門に磔し、土牛を出して寒気を送る)とあります。
 「磔(たく)」というのは動物をはりつけにすることです。日本では「土牛」は真似しましたが、「磔」は取り入れなかったようです。江戸時代前期の『日次紀事』などには、これが節分の柊鰯の元ではないかと書かれていますが、根拠がなく、ちょっとマユツバです。

 なお『礼記』(月令)には他に「季春之月(略)命國難、九門磔攘、以畢春氣」、「仲秋之月(略)天子乃難、以達秋氣」とあり、3月の「国儺」、8月の「天子の儺」12月の「大儺」と、年に3回の「儺」がありました。
 ここに出てくる12月の「大儺」の内容は「磔」と「土牛」ですが、後で紹介するように、「方相氏」が出てくる「時儺」(後の大儺、日本の追儺)の儀式もすでに周の時代に確立していました。これらはずっと12月の行事として並行して続き、唐の時代の『通典』(801年完成)では「禮六十八・雜制」に「立春前、兩京及諸州縣門外、並造土牛耕人」、「季冬晦、行儺」とあり、立春の前(大寒)に「土牛耕人」が行われ、大晦日に「大儺」が行われています。

 日本では上記のように飛鳥時代末期に「土牛」があらわれ、奈良時代後期には「土牛偶人」になっていました。これが平安時代の文献では「土牛童子」になります。
 「土牛童子」というのは土で作った牛と子どもの像です。『延喜式』の「第十七巻・內匠寮」に平安時代の作り方のマニュアルがあり、5色の土を使って青、赤、白、黒を各2組、黄を4組、計12組作りました。高さは2尺(数十センチ)です。また『延喜式』の「第十六巻・陰陽寮」に立て方が書いてあり、大寒の日の前夜半に大内裏の12の門に立て、立春の日の前夜半に撤去します。それぞれの門に立てる「土牛童子」の色は、陰陽五行思想に従って次のように対応します。

   冬至――子――北――水――黒――偉鑒門
   小寒
   大寒――丑―――――土――黄――達智門
   立春――丑寅―北東
   雨水――寅―――――木――青――陽明門
   啓蟄
   春分――卯――東――木――青――待賢門
   清明
   穀雨――辰―――――土――黄――郁芳門
   立夏――辰巳―南東
   小満――巳―――――火――赤――美福門
   芒種
   夏至――午――南――火――赤――朱雀門
   小暑
   大暑――未―――――土――黄――皇嘉門
   立秋――未申―南西
   処暑――申―――――金――白――談天門
   白露
   秋分――酉――西――金――白――藻壁門
   寒露
   霜降――戌―――――土――黄――殷富門
   立冬――戌亥―北西
   小雪――亥―――――水――黒――安嘉門
   大雪

 なお中国の「土牛」は、冬の終わり=農耕の季節の始まりを広く民に知らせる意味も持ちましたが、日本ではそういう意味は持ちませんでした。また『後漢書』(志―禮儀・中)には「立土牛六頭於國都郡縣城外丑地、以送大寒」とあり、中国では丑の方角だけに立てたようです。
 中国の「土牛」と比べ、日本の平安時代の「土牛童子」はかなり独自のアレンジが加えられているようです。

 中国でも日本でも、立春前の「土牛」と大晦日の「大儺・追儺」は明確に別の行事でした。どちらも意味合いとして節分の「鬼やらい」につながるという点では関連しますが、内容が違う別の行事であり、『古事類苑』が「土牛童子」の説明を「追儺」の項目の中に入れてしまったのは適当ではないように思われます。
 古い文献にさかのぼると、平安時代中期の『政事要略』ですでに「追儺事 付土牛」という扱いになっています。『古事類苑』を含め、後世の文献はこれを無批判に踏襲したと思われますが、そもそも『政事要略』の書き方が良くないのではないでしょうか。

 また『政事要略』では「追儺」の説明の中に「国史云、慶雲三年十二月、此年、天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」という記述が入っており(元の『続日本紀』には「十二月」とは書いてありません)、ここから慶雲3(706)年の「始作土牛大儺」を日本の「追儺」の始まりとする説が広がったと思われますが、これも疑問です。
 この「始作土牛大儺」を日本の「追儺」の始まりとする説には、『続日本紀』の内容不明の1文以外に何も根拠がありません。上記の中国『礼記』(月令)でも「旁磔、出土牛」のことを「大儺」と言っている例があり、『続日本紀』の1文だけでは、それが大晦日の「大儺・追儺」の原型だという根拠にはなりません。

 日本の文献上、間違いなく大晦日の「大儺・追儺」のことを書いていると言える最も最初のものは『内裏式』(821年成立)ですから、「追儺」の始まりが少なくとも平安時代初期までさかのぼることは確実ですが、奈良時代にあったという確かな根拠はなく、「土牛」の始まりとは百年ほど差がある可能性があります。

 …まだ本題に入りかけたところですが、また長くなってきたので、ここで切って、つづきは次回の記事にします。

旧暦の大晦日と節分(1)

 大晦日に「お年取り」と年取り魚の記事を公開した時、西日本の「年取りイワシ」の由来がよく分からず、古代からの年越し行事に興味がわいて少し調べてみました。六国史をみると、『日本三代實録』に大晦日のできごととして、858年から886年まで判で押したように「大祓大儺如常」または「大祓追儺如常」(大祓と追儺をいつも通りにやった)と書いてあり、平安時代中期、「大祓」と「追儺(ついな)」が大晦日の恒例行事になっていたことが分かります。

 「大祓」は万民の罪や穢れを祓い清める儀式です。飛鳥時代に大宝律令(701年制定)によって定例の儀式として定められたとされ、内容が伝わっている養老律令(757年施行)の「神祇令十八 大祓條」には「凡六月十二月晦日大祓者 中臣上御祓麻 東西文部上祓刀讀祓詞 訖百官男女聚集祓所 中臣宣祓詞 ト部為解除」(6月と12月の晦日の大祓には、中臣は御祓のぬさを奉れ、東西の文部は祓刀を奉り祓詞を読め、それから百官男女を祓所に集め、中臣は祓詞を宣し、卜部は解除をせよ)と書かれています。養老令を施行する際のマニュアルをまとめた『延喜式』(927年成立、967年施行)には、「大祓」を朱雀門で行うことや申時(午後4時)までに用意を整えること、さらに供え物の内容や祝詞などが細かく書かれています。
 六国史などをみると、「大祓」は6月と12月だけでなく、災害や疾病に見舞われた時や大嘗祭の時などにも行われています。

 「大祓」という言葉は、文献上で最も古いものは『古事記』(中つ巻・仲哀天皇)に出てきますが、さすがにこれは史実としては裏付けようがないので棚上げします。『日本書紀』だと天武天皇5(676)年から何度か「大解除」を行ったという記述があり、『続日本紀』では大宝2(702)年から「大祓」という言葉が出てくるので、「大祓」にあたる儀式は飛鳥時代後期から始まり、奈良時代に入るまで(遅くとも奈良時代初期まで)に6月と12月の定例の儀式になったと考えてほぼ間違いないでしょう。

 各種事典や神社ホームページの中には「大祓は応仁の乱によって途絶えた」と書いているところがあります。おそらく宮中祭祀としての「大祓」は戦国時代までに途絶えますが、各地の神社の中には続けたところがあるのではないでしょうか。
 その後、400年も下って明治時代になり、「大祓」は明治4(1871)年に宮中祭祀として復活します。また明治政府は同年6月25日付で一般向けに太政官布告を出し、「大祓ノ儀従前六月祓或ハ夏越神事ト称シ執行来候處全ク後世一社ノ神事ト相心得本儀ヲ失ヒ候ニ付今般旧儀御再興被為在候間追々天下一般修行可致様被仰出候事」(大祓は六月祓とか夏越神事とか呼んで行ってきたが、それぞれ自社の神事と思って本来の意義が忘れられている。このたび旧儀が再興されたので、これからみんなよく覚えるように)と命じます。そして翌年6月18日付で教部省通達を出し、「大祓」のやり方を具体的に示して全国の神社で統一して行わせ、国民に参加させました。
 宮内庁ホームページを見ると、「大祓」は現在も宮中祭祀として6月30日と大晦日に行われています。また各地の神社でも行われており、一部で6月のものは「夏越の祓」の呼称が復活、大晦日のものは「年越の祓」とも呼ばれます。「夏越の祓」では「茅の輪くぐり」を行う神社もあり、親しまれています。

 …ちょっと長くなったのでここで切って、つづきは次回にします。

 さて、今日は小寒(寒の入り)、明日は「七草」。全部そろえるというわけにはいきませんが、家のまわりにセリとハコベとスズシロがあったので、夕方摘んで七草粥ならぬ三草粥の用意をしました。

梅が咲きました

16010101 あけましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い申し上げます。

 雲ひとつない見事な日本晴れ。きれいな初日の出を拝むことができました。
 南アルプスから上る初日の出…と言いたいところですが、わが家は伊那谷の底にあるため手前にある伊那山地のかげに隠れてしまい、少し西側の段丘の上に行かないと南アルプスは見えません(この伊那山地と南アルプスの間にあるのが霜月祭りで有名な遠山谷・遠山郷です)。日の出の時間も遅くて、わが家から見る初日の出は午前7時40分過ぎでした。

 庭の梅が咲きました。もう数輪咲いているから開花宣言です。私が気づいたのは大晦日ですが、家族の話だとクリスマスの頃から咲き出していたそうです。梅の開花時期は変動が大きいのですが、早い年で1月だと思っていて、12月に咲いたのはあまり記憶にありません。

 きれいな初日の出、日本晴れの空に梅の花。
 よい1年になりますように。

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