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「お年取り」と年取り魚

 「お年取り」というのは、大晦日に一年の無事を感謝するとともに、数え年で1つ年を取ることを祝い、普段とは違う豪華な料理をいただく行事です。一家まとめて誕生日…みたいな感じでしょうか。信州では今でも各家庭で一年で最も大切にされている年中行事で、大晦日には外に出ている子どもたちも帰ってきて、新年を迎える準備を整えた後、一家そろって祝い膳に向かいます。
 飯田では昔から「お年取り」は早い時間にやるほうが良いとされ、まだ外が明るいうちにやったようです。家ごとに競うように早くやった地域もあり、「お昼にお年取りをして、外で羽根をついて遊んだ」というのは70年くらい前の母の思い出話です。大晦日の夜中の12時が過ぎたら正月になるのではなく、「お年取り」を終えたら正月ということだったのでしょう。

 この「お年取り」の祝い膳でメインになるのが年取り魚で、飯田ではブリです。私が子どもだった頃(約40年前)の一時期、県外の親戚からお歳暮に新巻鮭をもらい、正月から何日もかけて食べたことがありましたが、大晦日にはそれとは別に必ずブリを食べました。今でも必ずブリを用意します。
 この年取り魚、おおざっぱに言うと長野県の中で中信と南信はブリ、北信と東信はサケに分かれています。全国的に、糸魚川静岡構造線を境にして西はブリ(正月に食べる地域も含む)、東はサケと言われ、だいたい合っていますが、細かく見ると境目近辺には混在地域があり、また入り組んでいる部分もあって、すっぱりと分かれるわけではありません。

 改めて全国の年取り魚を調べてみると、二大勢力のブリとサケだけでなく、地域によってさまざまな魚が使われていることが分かりました。
 最もバラエティに富んでいるのは東北で、青森でタラ、秋田でハタハタ、岩手と宮城でナメタガレイなどに分かれます。もっと限定的に、米沢鯉の産地である山形の米沢ではコイという例もあります。長野県でも佐久鯉の産地ではコイを年取り魚にします。
 西のほうでは、兵庫県から中国、北九州にかけて、山間部を中心にイワシという地域がけっこうあり、「年取りイワシ」として販売されているそうです。イワシは節分と同様の行事食で、ごちそうという感じはしませんね。もしかすると立春を1年の始まりと考えた時代の名残りでしょうか?(分かりません)
 一方、関東や東海、関西、四国などでは、そもそも「お年取り」という行事がなく、大晦日は簡単に年越し蕎麦ですませ、元日におせち料理を食べるという地域も多いようです。年越し蕎麦はもともと江戸時代に都市部の商家で広がった風習ですから、農村部との地域性の違いが現代まで続いているのでしょう。なお関西では大晦日ではなく正月に祝い魚としてタイやブリを食べます。

 さて、信州の話に戻ります。歴史的に考えると、サケが遡上する川があるところでは有史以前から日常的にサケを食べていたはずで、それに対してブリを食べる文化は中世以降に西から入ってきたものと考えられます。だから信濃川上流の千曲川や犀川が流れている北信、東信は今でもサケが主体で、ブリは西から中信、南信まで浸透したものの、それより東にはあまり広がらなかったと考えることができるでしょう。越中で水揚げされた寒ブリが年取り魚として中信、南信に浸透したのは江戸中期からだそうです。

 日本海の寒ブリは富山湾などの定置網で獲り、港に水揚げします。富山筋の情報によると、かつて飛騨経由で信州に運ばれたブリの出発点は有名な氷見ではなく、岩瀬(富山港)だったとのこと。長野県では今でも氷見と書いている本やホームページが少なくありませんが、これは本当に飛騨より向こうのことは知らなかった証拠でしょうね。
 飛騨に送るブリは岩瀬で腹を洗って甘塩にしました。そこから信州までブリが運ばれるルートは主に3つありました。いずれも飛騨の高山を経由します。
 ①越中→飛騨→(野麦峠)→松本→諏訪、上伊那、木曽
 ②越中→飛騨→美濃東部→木曽→(権兵衛峠)→上伊那
 ③越中→飛騨→美濃東部→木曽→(大平峠)→飯田

 松本の場合は、新潟の糸魚川から姫川に入って安曇野に遡上してくるサケや、糸魚川で塩蔵されたブリも入ってきたようですが、主流は飛騨経由のブリでした。これは松本と飛騨の往来がもともと盛んだったことに加え、高山に魚の大問屋があってブリ市が立ち、そこから広く美濃はじめ一円に出荷されたからでしょう。高山市公設地方卸売市場では今も毎年12月24日にブリ市を開き、伝統を守っています。
 越中から出荷されるブリは「越中鰤」ですが、それが飛騨の市を経由することで「飛騨鰤」に変わります。「飛騨鰤」というのは落語の「目黒の秋刀魚」みたいで面白いですね。松本の殿様が「越中はいかん。ブリは飛騨に限る」とか言ったり…しないか(^-^;
 越中から松本までブリが運ばれる道は「鰤街道」と呼ばれました。さらに近年、ノーベル賞を受賞した白川英樹、利根川進、小柴昌俊、田中耕一、梶田隆章の5氏が越中―飛騨―高山の沿線にゆかりがあるということで、「ノーベル街道」とも呼ばれています。昔からの街道を見直して地域間交流を盛り上げようと、富山商工会議所は「ぶり・ノーベル出世街道祭り」なども開催してきました。「ブリを食べると頭が良くなる」と、十数年前に流行った歌みたいに宣伝している…かどうかは知りません(^-^;
 越中から高山まで3~4日、高山から松本まで8日かかり、高山での取り次ぎを含め、越中から松本までは17日かかったということです。

 飯田へのルートについては、松本→上伊那→飯田という説も流布していますが、主流は③の美濃東部、木曽経由でしょう。なぜなら、飯田は純ブリ地域ですが、上伊那や諏訪はブリとサケの混在地域だからです。また松本や上伊那ではブリを粕汁仕立てにしますが、飯田では主に照焼きです。
 飯田に着いたブリは、そこからさらに周辺の山間部にも運ばれました。旧上村(現飯田市上村)の村民から聞いた話をまとめた「南信州・上村 遠山谷の民俗」(上村民俗誌刊行会1977年刊)には、わらべ歌の1つとして「正月と言うもは良いものだ(中略)下駄の歯のような鰤たべて」という歌が収録されています。
 明治末期から昭和初期にかけて、牛馬や人間の力で信州に運ばれたブリの末端価格は越中の浜値の数倍に達したそうです。ブリ1匹が米2俵(8斗=120kg)の値段に相当したという話もあります。そんな高価なものを丸一匹や半身で買えるわけがなく、切り身で家族の分だけ買うのがやっとでした。それでも買えない家は塩サンマを年取り魚にしました。昭和初期、山間部でブリを食べられるのは裕福な家だけ。飯田の中心部でも不景気な年やブリが高騰した年はサケや塩サンマだったと、私の父から聞きました。

 冷凍技術が進んだ今では、塩ブリにお目にかかることはまずありません。氷見のブリでも何でも生で手に入ります。また、飛騨鰤より飛騨牛のほうがごちそう感があります。ブリにこだわらなくても、お年取り行事の意味さえ正しく伝えていれば、何でも好きなものを食べればいいのかもしれませんね。
 でも、わが家はやっぱり今年もブリを用意しました。

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コメント

 1月5日夕方のNHKニュースシブ5時を見ていたら、「札幌では大晦日におせち料理を食べる」という話が出て、アナウンサーたちが「なんで?」と不思議そうに顔を見合わせていました。つまりこれが「お年取り」の風習がある地域とない地域の違いで、東京の人たちは「お年取り」なんて知らないということですね。

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