ごあいさつ

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 「日本のふるさと」信州飯田から四季おりおりの話題、見所・イベント情報などをお届けします。
 時には私の趣味の話や雑感も。どうぞよろしくお願いします。

 ※公開済みの記事でも、しばしば後から修正したり書き足したりします。
  記事内容へのご質問などはコメントでどうぞ(コメントの公開は承認制です)

飯田の桃の節句は月遅れ

 3月21日午前、全国(沖縄などを除く)で最も早く東京都心で桜(ソメイヨシノ)の開花が確認されました。きょうは24日。そろそろ九州や東海からも開花便りが届くのではないでしょうか。
 東京の開花は平年より3日早かったということです。気象情報各社の予想はおおむね23~25日だったので、予想より早い開花でした。東京が全国トップだったのは9年ぶりですが、9年前(2008年3月22日)は熊本、名古屋、静岡と同日で、東京単独のトップはあまりないと思います。開花の平年値が早いのは四国の高知(3月22日)、九州の熊本(3月23日)、福岡(同)、東海の静岡(3月25日)など。九州~東海の開花は平年並かやや遅くなりそうですが、3月末までに九州~関東南部の多くの地域で開花することでしょう。
 東京で21日に開花したのは、全国的に見ても特異的に早かったと言えます。…というか、都心の気象はかなりおかしくなっていると思います。

17032401 飯田の桜の開花予想(日本気象協会3月23日発表)は4月5日。3月初めの予想は4月1日でしたが、だんだん遅くなりました。平年値は4月4日ですが、近年は3月下旬に開花することが多く、今年は1週間~10日ほど遅い感じです。

 さて、今回は桃の節句の話。飯田周辺では桃の節句は月遅れで4月に入ってから祝います。実際、桃が開花するのはちょうどその頃になります。この地域は果樹産業が盛んで、桃も名産の一つ(味は他の有名産地に負けない自信があります)。4月初め、山里の桃園がピンクに染まる光景はなかなかきれいです。

 例によって東アジア古来の暦法の考え方に従い、立春(今年は新暦2月4日)を元日と考えると、桃の節句の3月3日は新暦4月6日にあたります。4月3日とは3日ずれますが、例年まさに桃の花盛りの頃で、月遅れの考え方は日本の実際の四季の移り変わりとかなりマッチしています。
 この月遅れの桃の節句に合わせ、飯田市~阿智村~平谷村~根羽村~愛知県豊田市稲武・足助地区の国道153号沿線では「中馬ぬくもり街道ひな祭り」というイベントが行われ、観光施設や商業施設でひな人形の展示が行われています。長野県の入口にあたる根羽村の「ねばーらんど」では、通路に「二千体吊るし雛」(右の写真)が飾られています。

17032402 このイベントの他にも各地にひな人形が飾られています。『「おんな城主 直虎」亀之丞の潜伏地』の記事で紹介した高森町の歴史民俗資料館「時の駅」でも、例年この時期に企画展「ひな人形と美人画」(左の写真)を行っています。
 この資料館では、町の古墳から出土した日本最古の貨幣「富本銭」などを展示しています。また現在は大河ドラマ「おんな城主直虎」関連で、追っ手を逃れてこの地で成長期の12年を過ごした亀之丞(井伊直親)のゆかりの品も展示しています。開館日や入館料などについては高森町歴史民俗資料館「時の駅」ホームページでご確認ください。

 ところで、ひな人形を飾る時に迷うのが男雛と女雛の左右。「時の駅」の展示を見ていたら、「現在はどちらでもいい」と書いてありました。
 ひな人形には「左近の桜」と「右近の橘」もありますが、これはお内裏様から見た左右なので、「左近の桜」を向かって右、「右近の橘」を向かって左に飾ります。京都市の左京区、右京区が地図で見ると左右逆になっているのと同じで、これらの左右は明確ですね。では男雛と女雛はどうなるのでしょう。

 日本では古来、左が上位(例えば左大臣と右大臣なら、左大臣のほうが上位)なので、元々は男雛が左(向かって右)、女雛が右(向かって左)でした。では女帝だったら逆かという話はおいといて…
 それが左右逆になったのは明治時代になってから。西欧で国王と王妃が並ぶ時は、日本古来とは逆に、国王が右(向かって左)、王妃が左(向かって右)に並ぶことになっていて、明治天皇と皇后が写真を撮る時、その西欧式にならった並び方をして、それが全国に広まったと言われています。

 そういう経緯で、全国的には近代式で男雛を向かって左に飾るのが一般的になりました。しかし京都は今も古式で、男雛を向かって右に飾るそうです。そんなふうに国内に両方の飾り方が混在しているので、現在は「どちらも正しい」ということになっているようです。
 地域のほか、家庭によっても飾り方が違うかもしれませんね。みなさんのご家庭はいかがでしょうか。

 次回は飯田の桜を紹介します。

「竜王戦挑戦者差し替え事件」関連記事はウェブページへ

 お知らせ【2017年3月29日】

 竜王戦挑戦者差し替え事件(三浦九段冤罪事件、ソフト指し不正疑惑騒動)について、このブログに昨年11月から今年2月にかけて8本の記事を書きました。当初見込みを超えて関連記事の量が多くなったので、独立のウェブページ「平岡組中部支部のページ」を設け、関連記事を一括して移すことにしました。

 平岡組中部支部のページ:http://iidas.cocolog-nifty.com/hirachu/hctop.html

 この後、電王戦についての記事も書く予定ですが、今後、将棋関係の記事はすべて「平岡組中部支部のページ」に掲載します。よろしくお願いします。

梅の花が咲きました

17021001 日本海側は大雪で荒れ模様だそうですが、飯田周辺は日の出ころに雪があがり、青空が広がりました。その青空の下、梅の花が咲きました。
 昨冬は暖か過ぎて梅の開花が異常に早く、12月末のクリスマスの頃に咲き始めていました。そんな年は初めてでした。今年は1月下旬からツボミがふくらんできましたが、なかなか咲かず、開花は2月上旬の終わり頃となりました。
 梅と同時に、ロウバイの黄色い花もちらほら咲き始めています。

 梅の花を見た後、足元に目を向けると、けっこう緑の草が増えており、小さな花もちらほら。右下の写真はホトケノザ。食用になる春の七草のホトケノザ(キク科のコオニタビラコ)ではない方の、食用にならないホトケノザ(シソ科)ですね。この季節にはよく目に付く花です。しばしば雪をかぶっていたせいか茎が寝ているので、ホトケノザらしく見えませんが…

 周囲には春の七草のナズナやハコベ、セリもあります。1月7日には小さくてみすぼらしい姿でしたが、ずいぶん立派になりました。
 考えてみると、立春(2月4日)が年の始まりの元日だと思えば、今日(2月10日)が七草の日ということになります。青みを増して元気に伸びている春の七草を見ると、今日こそが本当の七草の日、まさに暦どおりなのだと思いました。

大鹿歌舞伎が国重要無形民俗文化財に

 大鹿村に伝わる地芝居「大鹿歌舞伎」が国重要無形民俗文化財に指定されることが決まりました。地芝居(農村歌舞伎)の分野での指定は全国初だそうです。大鹿歌舞伎は近年、原田芳雄の遺作となった映画「大鹿村騒動記」(2011年公開)などによっても広く知られるようになりましたが、今回の指定により、文化財としての最大級の価値が認められるとともに、民俗学的・文化史的にも全国を代表する重要な価値を持っていることが認められたことになります。

 こちらは大鹿村ホームページの大鹿歌舞伎情報コーナー、また、こちらは大鹿村観光協会ホームページの特集―大鹿歌舞伎コーナーです。
 定期公演は年2回で、春の公演は5月3日に大磧神社で、秋の公演は10月第3日曜日に市場神社で。

 国の文化審議会が1月27日に開かれ、新たに重要有形民俗文化財に3件、また重要無形民俗文化財に7件を指定するように文部科学大臣に答申しました。3月に文部科学大臣によって正式に指定される運びとなります。国の重要無形民俗文化財は、今回の7件を加えると全部で303件になります。
 飯田市周辺ではこれまでに「遠山郷の霜月祭り」(飯田市南信濃と飯田市上村の2件)、「天龍村の霜月神楽」、「新野の雪祭り」(阿南町)、「新野の盆踊り」(同)の5件が重要無形民俗文化財に指定されており、大鹿歌舞伎で6件目。ほかに選択無形民俗文化財も10数件あり、まさに民俗文化財・民俗芸能の宝庫です。歌舞伎と共通性の多い人形浄瑠璃も各地に伝わっており、今田人形(飯田市龍江)、黒田人形(飯田市上郷)、早稲田人形(阿南町)が選択無形民俗文化財になっています。また同じ地芝居として、下條村にも下條歌舞伎があります。

 大鹿歌舞伎については昨年3月、「飯田周辺の御柱祭(下)」の記事の中でも少し紹介しました。重なる部分もありますが、改めて紹介します。

17013101 大鹿村では大正時代ころまで芝居のことを狂言と呼びました。特に鹿塩地区が早くから盛んで、地元の古文書に江戸中期の明和4年(1767)年に「かしを狂言」が上演されたという記述があります。この時点で鹿塩狂言という呼び名があったということは、もっと前から行われていたものと考えられ、300年以上前から行われていたとも言われています。
 寛政(1789~1801年)の頃には、飯田から俳優を招いて芝居をしたり、村の若者が他の村で狂言を演じたという記録があります。その後も祭礼で地芝居を演じたり、また江戸後期から明治中期にかけて村内各地の神社に舞台を建立した記録があります。

 江戸時代、幕府は寛政11(1799)年の人寄禁止令や、天保12(1841)年の農民による歌舞伎・浄瑠璃などの禁止で、地芝居の上演を禁止しました。また明治時代に入っても、明治6(1973)年に県の令達で神社の舞台で地芝居を行うことが禁止されました。そうした禁令の時代を乗り越えて、大鹿歌舞伎は受け継がれてきました。

 明治中期から昭和初期にかけては日露戦争の戦勝祝賀、大正天皇即位祝賀、昭和天皇即位祝賀などで歌舞伎が上演されています。男性が兵役に出た戦時中には女性が役者を務めて上演したこともあり、歌舞伎の上演がなかったのは終戦の年などわずかでした。
 戦後は昭和22(1947)年5月3日に憲法発布記念祝賀の歌舞伎公演が行われました。ちなみに、現在でも大鹿歌舞伎の春の定期公演は5月3日と決まっています。

 昭和36(1961)年に保存会が発足。村は昭和49(1974)年に大鹿歌舞伎を村無形文化財に指定し、翌昭和50(1975)年には中学校に歌舞伎クラブが発足して、歌舞伎への愛着や誇りを継承するとともに、後継者育成の基礎となりました。
 昭和52(1977)年に県無形民俗文化財、平成8(1996)年に国選択無形民俗文化財に指定されました。
 平成12(2000)年には地芝居として初めて国立劇場(大阪府)で上演。また、これまでにオーストリア、ドイツなど海外でも公演しています。

 伝わっている演目は約30で、人気のある十八番は「一谷嫩軍記 熊谷陣屋の段」、「絵本太功記十段目 尼ヶ崎の段」、「菅原伝授手習鑑 寺子屋の段」、「奥州安達原三段目 袖萩祭文の段」など。
 演目の中でも、平家の生き残り悪七兵衛景清が頼朝に戦いを挑む「六千両後日之文章 重忠館の段」は、中央の歌舞伎を含め他では全国どこにも見られない、大鹿歌舞伎にしか伝わっていない演目とされています。映画「大鹿村騒動記」に登場するのもこの演目で、原田芳雄が景清を演じ、歌舞伎のあらすじと絡み合いながら映画の物語が進行します。
 一方、あまり上演されない演目もあり、平成12(2000)年には大鹿中学校歌舞伎クラブが50年近く上演されず「幻の外題」と呼ばれてきた「源平咲別躑躅 扇屋の段」を上演し、話題を呼びました。

 大鹿村では江戸後期から明治中期にかけ、村内各地の神社やお堂の境内13か所に舞台が建てられました。その後、取り壊したり集会所に改造したりで、現在も残っているのは7か所。春秋の定期公演が行われるのは大磧神社と市場神社の舞台で、いずれも間口6間、奥行き4間の大きさで直径3間の回り舞台を持っています。

 客席は春秋の風が流れる青天井の神社境内で、観客はそこで弁当を広げ、酒を酌み交わしながら芝居を楽しみます。まったく堅苦しさのない開放的な空間と、見せ場で声援が飛び、おひねりが飛び、やがて舞台と客席の間に生まれる一体感。そこに何とも言えない心地良さがあります。最後の手打ち「おしゃしゃのしゃん」まで体験すれば、その思い出は一生忘れられないものになります。

 今回の文化審議会の解説資料によると、大鹿歌舞伎は「我が国を代表する地芝居」で、「近世以来の地方の村落における芸能の受容や展開を示すとともに、独自の演技・演目を有するなど地域的特色や芸能の変遷の過程を示すものとして重要」。また「舞台装置や演技・演出に大鹿歌舞伎独自の形がみられ、村民の手で長く伝承されてきたことを示している」と評価されています。

「おんな城主 直虎」亀之丞の潜伏地

 今年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」が1月8日から始まり、第1回は今川氏に命を狙われた井伊亀之丞(直虎の許婚、後の井伊直親)が遠州井伊谷を脱出するくだりで終わりました。その亀之丞が身を寄せた先は、信州伊那谷市田郷の松源寺。現在の高森町(飯田市の北隣)にある寺です。
 亀之丞の父・井伊直満は謀反の疑い(讒言)をかけられて今川義元に殺され、9歳の亀之丞も命を狙われました。亀之丞は家臣によって信州に逃がされ、松源寺に身を隠し、市田郷を支配していた松岡氏の保護を受けて成長期の10年余を過ごし、20歳の時に井伊谷に帰還しました。

17010901 大河ドラマ第1回放送の翌9日、松源寺(高森町下市田)に行ってみました。右上の写真は山門、右下の写真は本堂です。地面が白いのは前日の午後に降った雪です。
 松源寺には桜の古木があり、春に何度か足を運んだことがありますが、冬に行ったのは初めて。行ってびっくり、寺の入口付近に大型バスが何台もとまれる駐車場ができていました。いつの間に…
 周辺には「女城主のいいなずけ亀之丞ここで育つ」と大書したのぼり旗がいっぱい立っています。高森町のホームページを見たら、昨年11月ころから多くの観光バスが訪れ、12月には毎日何台も来たとのこと。晩秋のりんご狩り観光の大型バスがついでに立ち寄ったのでしょう。大河ドラマ「真田丸」の放送中で、信州を訪れる観光客が増えていた影響もあるかもしれません。地元の観光ガイドが説明に活躍したようです。私が行った時には大型バスは来ていませんでしたが、駐車場には県外ナンバーの乗用車もありました。
 松源寺は中央道の飯田インターからでも松川インターからでも車で10数分。中央道と平行に南北に走る広域農道の交差点から、細い道を山と反対側の天竜川方向に下ります。この入口の交差点が分かりにくいのですが、高森町牛牧地籍で、「上市田東」信号交差点と南大島川大橋のちょうど真ん中あたりのファミリーマートがある交差点です。

 松源寺は戦国時代の永正10(1513)年ころ開かれた臨済宗妙心寺派の寺院。松岡城主松岡貞正によって創建され、開山は貞正の実弟の文叔瑞郁禅師。当初は現在地より2km近く西北西の山ぎわにあり、天正10(1582)年、織田氏の伊那谷侵攻の際に焼失しました。その後、江戸時代になってから寺領3石の寄進を受け、現在ある松岡城址の五の曲輪の跡に再建されました。
17010902  左上の写真は、元の松源寺があったとされる高森町牛牧の寺山という場所。亀之丞が松源寺にいたのは天文13(1544)~弘治1(1555)年なので、現在の松源寺ではなく、この辺で暮らしていたことになります。中央道より一段高い山の縁を南北に走る上段道路のすぐ上で、「野の花亭」という五平餅屋さんの近く。隣が牛牧マレットゴルフ場で駐車場もあるので、車で行くには便利です。本当にすぐ背後は山で、猿の群れなど野生動物が出て来るので、周囲の農地は電気柵で囲われています。
 地元の史学会の手で昨年9月に立てられた標柱や説明板があり、また「井伊直虎ゆかりの地」ののぼり旗が風にはためいています。
 左下の写真は付近から見える南アルプスの山並み。前山(伊那山地)の向こうに白く雪をかぶっている峰々が南アルプスで、仙丈ケ岳~北岳~間ノ岳~農鳥岳~塩見岳~悪沢岳~荒川岳といった3000m峰がよく見えます。写真は北岳~間ノ岳~農鳥岳~塩見岳あたりです。周辺の景観は変わっても、亀之丞も今と同じ南アルプスの峰々を見ていただろうと想像すると、感慨深いものがあります。
 文叔禅師は松源寺開山の前、井伊氏に招かれて井伊谷の自浄院(後の龍潭寺、井伊家の菩提寺)にいました。そのため松源寺と龍潭寺は深いつながりがあり、その「法縁」によって亀之丞が松源寺に来たわけです。
 龍潭寺二世の南渓瑞聞禅師(南渓和尚)は井伊直宗の弟で、直虎からみると祖父の弟にあたり、大河ドラマでも主要な登場人物の1人として活躍します。
 文叔禅師は松源寺開山の後、永正12(1515)年から京都妙心寺の二十四世住持を務めた名僧です。井伊谷の龍潭寺を開創したのは弟子の黙宗瑞淵禅師で、文叔禅師は龍潭寺の拝請開山となっています。南渓禅師は黙宗禅師の弟子なので、文叔禅師の孫弟子ということになります。

17010903 上記のとおり松源寺は松岡城址の中にあり、城址を散策することができます。高森町史(1972年発行)の写真を見ると、その当時は一帯はススキ野原で、一の曲輪の跡から松源寺まできれいに見渡せました。その後、樹木が成長し、現在のような城址公園になったようです。
 松岡城は、この地域に多い段丘先端を利用した平山城です。東側が段丘崖、南側が洞、北側が沢で、三方が険しい崖に囲まれています。西側が平地に連なり、ここに城下町が形成されたと考えられます。城の縄張りは五つの曲輪が直線状に並び、各曲輪の間と五の曲輪の外に堀があります。一の曲輪と五の曲輪には土塁の一部が残っています。
 右上の写真は一の曲輪、右下の写真は二の曲輪と三の曲輪の間にある二の堀です。雪景色の写真は珍しいかも。曲輪も堀も戦国時代の姿がよく残っています。亀之丞も松岡城を訪れることがあったでしょうから、これらを見たことでしょう。雪景色を見たこともあったでしょうか。
 松岡氏は戦国時代初期に周辺の座光寺氏、宮崎氏、竜口氏などの小勢力を従え、この地域の有力な国人衆になっていました。その後は順に伊那谷を支配した武田氏、織田氏、徳川氏に従属して本領を守ってきましたが、天正13(1585)年、小笠原貞慶が秀吉側に寝返って高遠城を攻めた際、松岡貞利も同調して出兵。これが徳川氏に知られて、松岡氏は天正16(1588)年に改易され、松岡城は廃城になりました。
 現在の松源寺が建てられたのは松岡城が廃城になった後で、以後、松源寺は今日まで松岡城址を守ってきました。

 松岡氏が亀之丞を保護したように、戦国時代、隣国などから追われて逃げてきた者をその土地の領主が保護する例はけっこうあったようです。後に何かの役に立つ可能性があるからでしょう。たとえばこの地域だと、武田氏に抵抗して追われた知久氏の生き残りが三河に逃げて徳川氏に保護され、武田氏滅亡・本能寺の変の後、徳川氏の力を借りてカムバック。それによって徳川氏は伊那谷を手に入れています。松岡氏はというと、徳川氏を裏切って改易にあった際、亀之丞(直親)の息子の井伊直政が松岡貞利の身柄を預かり、命を助けています。
 西の秀吉、東の家康の両勢力の接点にあった信州では、真田氏に限らずどの勢力も東西どちらにつくか難しい選択をせまられました。しばしば寝返りも起き、失敗して命運尽きた家もあります。松岡氏もその1つでした。

   ☆   ☆   ☆

<井伊家の系譜>
井伊直平(20代)―┬―直宗(21代)――直盛(22代)――直虎(おとわ・次郎法師)
         ├─南渓瑞聞禅師
         ├─直満――直親(23代、亀之丞)――直政(24代、虎松)―┬―直勝
         ├―直義                        └―直孝(25代)
         └―直元
 ※南渓瑞聞禅師と直満はどちらが先に生まれたのか不明です。
 ※この他、直平の娘の1人が築山殿(徳川家康の正室)の母という説があります。

<関連年表>
天文1(1532)直平(20代)が自浄院を改め龍泰寺を建立。開山は黙宗瑞淵禅師(文叔瑞郁禅師の弟子)
天文4(1535)亀之丞(後の直親)が生まれる
       おとわ(後の次郎法師・直虎)もこの前後に生まれたと考えられる
天文5(1536)今川義元が今川家の当主になる
天文9(1540)織田信秀が三河を攻略し、松平氏は今川氏に従属する
天文11(1542)今川氏が三河・田原城を攻めた戦いで直宗(21代)が討死
天文13(1544)家老小野政直の讒言により、直満・直義が今川氏に謀反の疑いをかけられ殺される
       亀之丞は井伊谷を逃れ、東光院(浜松市北区引佐町渋川)を経て松源寺に身を隠す
天文23(1554)小野政直が死去
弘治1(1555)亀之丞が井伊谷に戻り、直親(23代)となる
永禄3(1560)桶狭間の戦いで直盛(22代)が討死。龍泰寺を龍潭寺に改める
永禄4(1561)虎松(後の直政)が生まれる
永禄5(1562)直親が今川氏家臣の朝比奈氏に殺される
永禄6(1563)直平が急死(今川氏の策略で毒殺されたという説がある)
永禄8(1565)次郎法師が「おんな城主」直虎になる
永禄11(1568)小野政次(鶴丸)が井伊谷を乗っ取る
       武田信玄が駿河に侵攻し、今川氏真は駿府城を捨てて掛川城に入る
       徳川家康が遠江に侵攻し、井伊谷三人衆が小野政次から井伊谷城を奪還する
永禄12(1569)徳川家康が掛川城を攻略し、今川氏滅亡
元亀3(1572)三方ケ原の戦い
天正1(1573)武田氏が井伊谷に侵攻し、龍潭寺が炎上する
       武田信玄が死去
天正3(1575)虎松が徳川家康の小姓に取り立てられ、万千代の名をもらう
       長篠の戦い
       万千代は合戦などでたびたび手柄を立てて加増され、天正10(1582)には4万石に
天正10(1582)武田氏滅亡
       本能寺の変
       直虎が死去
       万千代が元服し、直政(24代)を名乗る
天正12(1584)小牧・長久手の戦い
天正17(1589)南渓和尚が死去
天正18(1590)小田原征伐
       徳川氏が関東に入り、直政は箕輪12万石の大名に(のち高崎に築城)
慶長5(1600)関が原の戦い
慶長6(1601)直政は佐和山18万石に加増
慶長7(1602)直政が死去
慶長8(1603)徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く
慶長19(1614)大阪冬の陣
元和1(1615)大阪夏の陣
       直政の次男の直孝(25代)が井伊家の当主になり、彦根15万石を継ぐ

 この年表を見ると、昨年の「真田丸」の真田氏が大勢力の狭間で揺れ動いたように、井伊氏も今川氏・織田氏・武田氏・徳川氏の狭間で翻弄されたことが分かります。井伊氏の場合は、外の勢力だけでなく内に家臣の内紛を抱え、何度も存続が風前の灯になりました。
 次郎法師と亀之丞は結局、結ばれません。亀之丞が直盛の養子となり、直親を名乗って井伊家の家督を継ぐところまでは子ども時代からの予定通りですが、直親は家臣・奥山氏の娘を妻に迎え、その2人の間に虎松(後の徳川四天王・直政)が生まれることになります。
 直親にとって今川義元は父の仇ですが、井伊谷に戻ってから数年間は今川氏に従います。しかし桶狭間の戦いで義元が織田信長に討ち取られ、井伊氏は激動の渦中に放り込まれます。桶狭間の戦いの翌年に虎松が生まれた後、その翌年に直親が殺され、さらにその翌年に直平が急死して、井伊家の男子は幼い虎松だけになり、次郎法師が「おんな城主」直虎となります。その後も小野政次(鶴丸)に井伊谷を乗っ取られたり、武田氏に攻め込まれたりと、大変な波乱が続きます。直虎は井伊谷を守り抜き、虎松を家康に仕えさせ、その成長を見届けて世を去ります。

 武田氏滅亡・本能寺の変の後、徳川氏は甲州を手中に収めて武田氏の残党を吸収。直政がそれを率い、徳川氏の天下取りを支える中核部隊になっていきます。直政は武田流の軍制や軍装を取り入れて自分の部隊を赤備えとし、「井伊の赤備え」と呼ばれるようになりました。
 昨年の「真田丸」の大阪冬の陣で、真田勢が井伊直孝勢のことを「ニセ赤備え」と言うシーンがありましたが、どちらの赤備えも武田が源流で、それが敵味方に分かれて戦国最後の大いくさ大阪の陣を戦ったというわけです。

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